閑話 はじめまして、私はエミリア・ガゼル
鐘の音にエミリアは聖書を読む手を止めた。丁寧に聖書を鞄に仕舞う。茶色のコートを羽織り、静かに屋敷を出た。道行人々の冷やかな侮蔑の視線を感じながら、教会にこそりと音を立てずに入った。人々は平安の言葉を交わし合いながら、席につく。私は入口の近くの角に立った。ここが私の定位置だから。うつむき加減に顔を上げ、講壇に立つ牧師を見つめた。
礼拝が始まる30分ほど前、見知らぬ女が入ってきた。エミリアは思わず女を観察した。女は杖をついている。女の傍らには護衛らしき年増の女が離れず動いている。
白いコートを着た蒼い瞳の女。帽子からわずかにはみ出た柔らかな輝きを放つ暗い金髪。薔薇で染めたような赤い頬。独特な色合いの若々しい肌。顔立ちはあどけなく小柄だけど、ドレスの裾は大人の長さ。少女の年をようやく脱したばかりなのかしら。15、16歳くらい……、ゴーディラックのお貴族様のご令嬢かしら?
牧師夫人に案内され少女は貴族席に座った。この時期だから彼女の他に貴族はいないけど、別荘へ遊びに来ているのでしょうね。少女がコートを脱いだ時、淡く彩度の低い青色のドレスがちらりと見えた。
牧師が講壇に立った。エミリアは視線を戻し小さく十字を切った。
礼拝が終わった。いつもなら私は早々と帰る。教会に私の居場所はないもの。でも今日は貴族令嬢の子が気になる。周囲のご婦人方はあの子に話しかけたくても話しかけられない。ご婦人方は平民、彼女は貴族。私も貴族ではない、けれど国王陛下の寵愛を受けている身でもある。
私は足を一歩踏み出し、貴族令嬢の近くに行った。ご婦人方は汚いものを見るような目で道を開けた。貴族令嬢の座っている列の前に立った。私から彼女に話しかけられない。
貴族令嬢は「ご機嫌よう」と首を傾げた。
女の子のように高いけど落ち着いた声だった。私は『聖母のよう』と評された笑顔を作りお辞儀をした。
「お初にお目にかかります。ガゼル商会大旦那の娘エミリアと申します」
「ガゼル商会……? 私はエリザベス・ライムンダ・ド・ハイド。よろしくね、エミリアさん」
「冷える中、お話するのもお体に毒でしょうし喫茶店に行きませんか?」
そう、清貧を重んじるこの教会はなかなかに冷える。
「いいわ。私あまりこの辺りを知らないのだけどおすすめの喫茶店はあるのかしら?」
エリザベス様がコテンと首を傾げた拍子に一房だけ短い前髪が落ちた。エリザベス様が前髪を直そうと左手を上げた時、既婚者だと気付いた。この方がハイド伯爵夫人なの?
「ええ。とても静かで、料理も美味しい喫茶店を存じ上げておりますわ」
私は微笑んだ。
何気なく話しかけた相手が伯爵夫人かもしれないなんて。なにかあれば私の首が飛ぶかもしれない。けれど陛下は……ハイド伯爵夫人に会うことがあれば動向を探るようおっしゃていた。
エリザベス様は杖を使ってのっそりと立ち上がった。立ち上がった拍子に真珠のイヤリングが揺れた。ゴーディラックの方にしてはドレスの裾が細くて軽そうなのは、体に負荷が掛からないように? ドレスに施された金刺繍がちらと輝いた。
教会を出た後、私はエリザベス様を喫茶店へお連れしました。落ち着いた雰囲気の店内に惹かれるのか、よく貴族や芸術家の方々もいらっしゃる。チョコレートミルクを一口お飲みになったエリザベス様は口元を拭いた。
「エミリアさんはなぜ教会の隅に立っていたの?」
「お気づきになっていましたの? 私の席は教会にはないからです」
エリザベス様は不思議そうな顔をなさいながらチョコレートミルクを飲んだ。私もシュークリームを一口食べると、エリザベス様は見惚れるように私の手元をご覧になってた。
「エミリアさんは結婚なさっているの?」
「いいえ。一応未婚です」
「じゃあ結婚なさったことがあるの?」
私は静かに首を振った。愛人よ、私は……。
「いいえ。結婚したこともありません」
エリザベス様は何か考えているようで、私の顔を見つめています。エリザベス様のようにお美しい方から見つめられると照れるわ。
エリザベス様は怪訝そうな表情でまた一口飲んだ。
「こちらのチョコレートミルクはとても美味しいのね」と微笑み小首を傾げた。
「ええ、ガゼル商会自慢の品ですわ」
私の言葉にエリザベス様はぶっとチョコレートを吹き出し掛けました。
「ご実家は喫茶店を営んでいらっしゃるの?」
「いいえ。本業はゴーディラックとの貿易ですわ」
「まるでゴーディラックを外国のように話すのね」とエリザベス様はまた首を傾げた。癖なのかしら。
「ティレアヌスの者は皆そう感じているのでは? エリザベス様、あちらの絵をご覧ください」と私は壁に飾られた一枚の絵を指した。
エリザベス様は王女のような人物の肖像画に目を向けられた。それから魅入られるように目を見開いた。
ハッとするほど煌々と綺麗な金髪。透き通るような白い肌。薔薇かりんごのように赤い頬。アクアマリンみたいに青くて目を奪われるほどの輝きを秘めた瞳。緑色のドレスより、ふんわりと載せられた花冠の方がしっくり来る。背景に草花や樹木が描かれているせいで人里に迷い込んだ花の精みたい。
「実在した人?」とエリザベス様はゆっくりと口を開いた。
「ええ、ちゃんと実在した方ですわ」と私は頷いた。それからぐるりと周囲を見渡した。「差し支えなければ私の部屋で話しませんか? こちらではやや差し障りのあるお話なので」
私の提案にアンネリース様がコーヒーカップを下ろした。
「いいえ。差し障りのない範囲でお話しください」
私は一瞬だけ眉間を寄せた。そうなるわよね。
「かしこまりました。彼女はジョセフィン・デボラ・アメデア・ド・デイヴィスです。ゴーディラックではスヴェトラーナ=ジョセフィン后と呼ばれているようですが」
エリザベス様は静かに目を見開いた。視線がジョセフィン后に吸い寄せられ、カップの持ち手に力が籠もっている。私は覚悟を決めるように息を吸った。
「彼女はティレアヌスの公爵家出身で、市民に愛された方だったそうです。そしてゴーディラックの王子、後のヴィンス7世に見初められて……。ゴーディラックへ嫁いだ後、三男三女をもうけました。しかし政変の波に呑まれ家族共々殺されました」
「生き残った子どもはいないの。全員殺されてしまったの?」
「ええ。王女すら残らなかったそうです。惨い話です」
エリザベスがカップを持つ手が震えた。本当に、惨い話です。
「王子や王女の名前は分かる?」
「さすがに存じ上げません。長子のご尊名がアブラーモということしか」
「そう」
「友好のためである、とゴーディラックから押し切られた末のご成婚でしたがこのような結末となりました。ゴーディラックとティレアヌスが同じ国などと言われても納得できないのも仕方がないでしょう?」
「そうでしょうね」とエリザベス様はサンドイッチを頬張った。「あら、美味しい」
ちなみに明美は右利きです。その右手で杖をついているため、頑張って左手を使っているらしい。
次回、スヴェトラーナ=ジョセフィン后と明美の間の謎。




