氷上で揺らぐ刃の重心
チクチクと人形のコートを縫っていた明美は、忙しいノック音に顔を上げた。
「どうぞ」
ロイス様が入室してきた。どうしたんだろう? ロイス様はお辞儀をした。
「閣下からがございます。都合がついたので今からスケートに行こう、とのことです」
「今からですか?」
「ええ。閣下はお待ちです」
フリーダと顔を合わせると、彼女は呆れたようにテーブルに手をついた。
「エルサ様、どうなさいますか?」
「行くわ」
「ではロイス。こちらには身支度、というものがありますから閣下にもう少し時間が必要だとお伝えください」とフリーダはロイス様に向き直った。
「かしこまりました」
ロイスは規則正しくお辞儀をし、退室した。それから穏やかなフリーダは私の方を見た。
「ではエルサ様、お召し替えの時間です」
私は大人しく頷いた。珍しくフリーダは怒っているようだ。フリーダの声の調子や表情はいつも通り。これはあくまでも私の勘。私は言われるがまま、暖かそうな茶に近い赤色のドレスを着た。
馬車に乗り込み、窓の外を見ているとハイド伯爵が私の腰に触れた。
「其方はスケート靴を履いた上で滑ることが出来るのか?」
「一通りは滑れます」
その後、少しだけ口を閉ざし考えた。
それから久しぶりにフランス語で「ロシアにいた頃、継父の厚意によりスケートを習ったことがあったので」と小声で答えた。
「ロシア……。あぁ、100年以上前に王政の滅びた国か」
ロシアについてはその認識なんだ。私が持つイメージとだいぶ違うな。尤も、私が持つロシアのイメージも他の人が持つイメージとはズレがあるけど。
「エリザベス。そのコートはよく似合っているな。その青は其方の瞳の色によく映える」
ハイド伯爵の言葉がゴーディラック語に戻った。私はコテンと微笑んだ。
「ありがとう存じます、閣下」
馬車が止まった。到着したようだ。着いた先は林の中だ。空気はツンと冷えている。私はスカーフで口元を覆った。目の前には凍った湖がある。とても原始的。先にハイド伯爵が降り、私に手を差し出してくれた。私は彼の手を取りトスンと降りた。従者がスケート靴の刃をフリーダに手渡した。刃? 刃には紐がついている。フリーダは湖の縁の盛り上がった雪を指した。
「エルサ様、申し訳ありませんが、こちらに座っていただけませんか?」
「はい」
とりあえず座ると、フリーダは私のブーツにスケート靴の刃を取り付けた。なんて効率的な! ハイド伯爵の方を見ると、彼は普通のスケート靴に履き替えていた。普通のもあるんだ、でもブーツを脱がなくちゃいけないのは困る。この寒い中で靴を脱いだら霜焼けになる。
私は体の重心の位置に気をつけながら立ち上がった。重心に気をつけて立ち上がると、グラグラした。かかとの辺りに力を入れて前進した。
冷たい風がツッと頬を切った。氷の音は心地よい、ツルツル滑る感覚も、いつもと違う靴の感覚も楽しい……と言いたいところだけど何かがおかしい。そう、靴の刃が異様にグラグラする。数年のブランクがあるから? いや、違う。取り付けているからだ! 一気に体中から汗が吹き出た。
私は平気な顔で半回転して岸の方に戻った。これは本当に重心に気をつけないと転ける。
「ねえフリーダ。このコートを預かってほしいの」
私はコートを脱ぎ、フリーダに手渡した。
「エルサ様、大丈夫ですか? お顔が赤くなっています」
「平気よ! 久しぶりに運動したから興奮しているだけ!」
岸から離れ滑り出すと、心臓が高鳴る。グラグラするけど重心に気をつけさえすれば大丈夫。私はグッと靴に力を入れた。すると、シャーと一気にスピードが出てしまった。冷たい風が耳元で唸り、頬を鋭く撫でていく。汗が額を流れ落ち、体中が熱くなる。ヤバい、ヤバい、と思い岸やハイド伯爵にぶつからないよう進む向きを変え続けた。周囲の景色が流れ去り、ここ2ヶ月で起きたことが頭から飛び出して行き、体はますます火照った。疾走感が全身を駆け抜け、次の瞬間には更にスピードを増した。
「エリザベス!」
ギュインと襟を力強く引っ張られた。勢いと勢いが衝突し、私は誰かを下敷きに背中から転けた。
「加速しすぎだ」
ハイド伯爵の声だ。ただ自分と氷の感覚だけが残っている今、それしか分からなかった。
次回、歩き回るヨハネス。雑な次回予告ですね。




