蝶に寄せられる蜜
明美は気づかれないように深呼吸を繰り返していた。隣に座るハイド伯爵が明美の手を握っているのも一因なのかもしれない。
馬車の窓から見える景色はハイド領とは違う。ハイド領が森の残った領地なら、ボーヴァー領は明るい町。ハイド領を馬車が走る時は農民を多く見かけたが、ボーヴァー領では商人のような人々が多い。走る馬車の揺れ具合からも分かる、ハイド領は邸宅以外の道は舗装されていない、ボーヴァー領はどこもかしこも舗装されている。
つまり、ゴーディラックに来てからずっとハイド領で過ごした私にとってボーヴァー領はおしゃれな都会に見えた。尤も、私の知る都会からはほど遠いんだけどね……。
馬車から降りると日の照り返しがキツイことに気づいた。大丈夫、顔が火照ったら可愛く見えるだろう。
メイドさんに客用寝室へと案内された。フリーダに手伝ってもらってドレスを着替えた。淡い水色と白色のドレス。胸元はレースで覆われてる、赤ちゃんのよだれかけみたいな感じ。袖は肘まではぴっちりと覆われているけど、肘から先はぶわっとレースが広がっている。裾はそこまで広がっていない。装飾がかなりシンプル。
これでいいのかな? これでいいのかな。姑にもあたる方だからシンプルな方がいいのかな? その辺りの勝手も分からないし、言われた通りにしたほうがいいのだろう。第一、印象が良かったとしても本性は分からないから。正直、私も自分がどんな人間だなんかなんて知らない。夫にあたるハイド伯爵だってどんな人間なのか知らない。フリーダは夫婦円満を願っているようだけど……、私は表面上だけでも上手くやれたらいいと思っている。
部屋を出るとハイド伯爵に会った。私はハイド伯爵の上着の裾をツンと引っ張った。
「閣下、本当にこのドレスで良かったのでしょうか? いつもよりシンプルだと思うのですが?」
「ああ、大丈夫だ、よく似合っている。そんなことよりここでは私を名前で呼びなさい」
私はこくこくと頷いた。似合っている、似合っていないかどうかが心配じゃないんだけど。
客室に着くと、私はハイド伯爵に倣いお辞儀をした。ハイド伯爵は口を開いた。
「この度はお招きいただきありがとう存じます」
「よく来てくれた。ヨハネス様、エリザベス様。さあお掛けなさい」とボーヴァー伯爵。
ソファに腰掛けふわっと微笑みながらボーヴァー夫妻を観察した。
ボーヴァー夫人はくすみのある茶髪を緩くねじり結い上げている。彫りが深くて直線的な顔立ちをしているけど、赤紫の瞳はタレ目っぽくて柔らかくこちらを見つめている。ボーヴァー伯爵は赤茶色でややボリュームのない髪。これまた直線的な顔立ちだし夫人よりキツイ顔立ちをしている。けれど顔つきは優しいし、アクアマリンみたいに青い目は澄んでいる。いい人そう。ボーヴァー夫妻とは結婚式の時に会ったけど、あまり印象に残ってなかった。ちょっと頭がぼーっとしていたから。
ハイド伯爵と夫妻の会話が弾んでいるようなので私はニコニコとしていればいいかな。少し眠いけど寝たらまずい。話をちょっとは聞いておこう。
ボーヴァー夫人と目が合った。
「エリザベス嬢はどのような本を好まれるのでしょうか?」
好きな本!? 特に考えたことない。
私は「小説であれば好まぬ本はありませんわ」とぎこちなく笑った。
ボーヴァー夫人が少し顔を引き攣らせた。ハイド伯爵はぽんと私の手を叩いた。
「其方が読んでいるのはティレアヌスの本だろう。いかがわしい本を読んでいると誤解を招くぞ」と耳元で囁いた。
あ。やっちゃった。
ボーヴァー伯爵はハイド伯爵の様子から察したように頷いた。
「エリザベス嬢、当家にはカンナやバラの美しい庭園があります。イノックアに案内をさせましょう」とボーヴァー伯爵は提案した。
ボーヴァ夫人はにこやかに立ち上がり「エリザベス様、庭園へ行きましょう」と私の手を取った。
「はい。かっ……ヨハネス様、ボーヴァ伯爵、失礼いたします」と私は閣下に軽くお辞儀した。
夫人に続き部屋を出て、ゆっくりと階段を降りて表玄関から庭に出た。こちらの庭園は花や木があるエリア以外はレンガで舗装されていて、ドレスを汚す心配なく歩ける。庭の構成はあまりハイド邸と変わらない。先を歩いていたボーヴァ夫人はゆっくりとこちらに向き直った。
「エリザベス様、私とヨハネスの関係はどの程度ご存知ですの?」
「あなたがヨハネス様の従姉で継母だった、ということなら存じ上げております」
ボーヴァ夫人はホッとしたように微笑んだ。
「そのとおりですわ」とボーヴァ夫人は肩を竦め、コスモスを一輪摘み私の髪に挿した。
「エリザベス様、私がボーヴァ家に嫁いだ時、私はまだ喪が明けたばかりでした」と声を潜めた。
「と、言うことは喪中に婚約なさったのですか?」
ボーヴァ伯爵夫人は「ええ。ヨハネスの指示で」と頷いた。少し寂しげな表情だ。
「ヨハネス様のご指示?」
「当時は困りましたわ。夫を亡くしてからひと月も経っていないのに……厄介払いかしら、と」
どうしよう、何を言えばいいんだろう? ハイド伯爵を庇うべき?
ボーヴァ伯爵夫人は屈みスターチスを摘みふふ、と私の髪に挿した。ドレスは青、コスモスは赤、スターチスは黄色、どうしよう三原色だ。
「ただその指示は私達の身を守るためであったと考えております。喪が明ける頃に知ったことですが」
「身を守るため?」
「詳しくは申せません。ですがお忘れにならないようぬ。ヨハネスは情が深く、自分の外聞を傷つけてでも、家族の身を守ろうとする傾向があります」
ボーヴァ伯爵夫人はまた花を私の髪に挿した。今度は白いペンタスだ。帰りが大変になりそう。
*
「其方の頭は花束か?」
夜になり馬車に乗った後、ハイド伯爵は私の髪に挿された花を抜いていた。私はこてんと首を傾げた。
「髪飾りが蝶々だったから?」
「これはボーヴァ伯爵夫人がつけたのか?」
「はい」と私は頷いた。ハイド伯爵は私の髪留めに触れた。
「花が寄ってくる蝶とは世にも奇妙だな」
何かの暗喩? それともそのまま? でも悪い意味じゃなさそうだから、ここは微笑んでおこう。窓ガラスに映る自分を見た時、気付いた。髪留めが蝶モチーフだった。
幼いころに姉妹を、成人後に両親を、継娘と継息子、最初の夫を亡くしていたボーヴァー伯爵夫人。嫁は長生きしたらいいな〜、と願っているとか。
次回、引っ越し前夜。




