閑話 何かが動き出せばいいのに。
仕事を終えローレンス家の自室に戻り、復習をしていたマカレナはパタンとノートを閉じた。
もう少しで『赤毛のアン』の翻訳が終わる。とても楽しかった! 今30章まで翻訳が終わったの。
お嬢様、改め奥様にフランス語の指南をお願いしたら、渋い顔をされつつも引き受けてくださった。その1ヶ月後、奥様は『赤毛のアン』のフランス語訳を渡してくださった。
ゴーディラック語訳と比較しながら読んでいてもあまり分からない。そもそもフランス語は文字も読めなかった。だから奥様に聞いてみた。「どのように外国語を習得なさったのですか?」って。そしたら奥様は困ったように顔を強張らせたけど「努力するだけ」と返された。外国人であっても外国語の習得は大変なのね。そうお父様に言ったら「エリザベス様はイギリスという国の人だからフランスは外国だ」と教えてくれた。
私はノートのフランス語のページを開き、奥様によって訳された『赤毛のアン』を流し読みした。そしてその隙間にびっしりと書き込まれた私の筆跡をなぞった。基本的に単語の意味は頭に叩き込むけど、覚えるのが難しい単語は書き込んでいる。覚えるのが難しい単語だらけね。でも奥様が朗読してくださる時は難しい単語ほど綺麗な響きなの。
フランスってどんな国なのかしら? ゴーディラックとティレアヌス、どちらのほうがフランスに近いのかしら? 海に近い街? それとも山に囲まれた街?
私は引き出しの鍵を開け、モハメド・ドロン様からの手紙を取り出した。3ヶ月前と比べ読めるようになっている。とても嬉しいわ!
ヴァロワールはどんな国なのかしら? なぜ他国の言葉を使っているのかしら? 言語学習の手間を省くため? ヴァロワールはどんな国なのかしら? 一体どんな秘密が隠されているの? 勉強を続けたその先で知ることが出来るのかしら? いつか見てみたいわ、彼らはどんな風に話すの? どんな食べ物があるの? 私は知りたいの。私が想像するヴァロワール共和国は太陽輝き花壇からチューリップが溢れる美しい国よ! もしかしたら独裁者が治める恐ろしい国かも。
パタンと手紙を机に置き、立ち上がった。成人女性のドレスと違ってネグリジェは軽くて楽だわ。私の視線の先には天井の壁紙、花々模様よ! ガーベラ、ハツユキソウ、サザンカ。ちょっとしたアクセントにマネッチアと羊歯。4月3日生まれだからゼラニウムも。私は踊るようにくるりくるりと回った。
「行ってみたい」
ヴァロワール共和国、という未知の国に。 私はこの国しか知らないの、いいえ、この国ですら私は充分に知らない。それでも外国語が飛び交う知らない国に行ってみたい。ただ1時間くらい広場で立っているだけでいいの。ただその場に存在しているだけでも。道行く人々はどのような表情なの? 一体何を差し出せばその国に行けるの?
窓から身を乗り出した、地平線の先に虹の国が見えることを願って。けれど見えたのは王室の庭園だった。私は窓を閉め、肩を竦めた。そりゃそうよ。一体何を期待したの?でもいつか身を乗り出した先に知らないものが映る、そんな日を夢見ていたいわ。
私はベッドに入り、布団を被った。
相手は分からないけど、嫁入りが決まったもの……。婚家ではフランス語を学ぶことは許されるのかしら? 許されたとしても趣味程度ね。ハイド伯爵のように通訳官になんてなれない。
私は布団の中にゆっくりと全身を隠していった。
次回、疑惑と告白。




