蜃気楼の中
ノック音に明美は顔を上げた。マカレナは一瞬だけ顔を上げたが、すぐに視線を戻した。マーサが入ってきた。
「お嬢様、閣下からの贈り物が届きました」
「ありがとう」
マカレナがふっとノートから視線を上げ「マーサ。入室する時は主であるお嬢様の返事を待ってからになさい」と目を鋭くした。
マーサが珍しく怯んだように「申し訳ありません、マカレナ様」と荷物を置いてバッと部屋を出ていった。
マカレナは立ち上がり「謝る相手は私じゃないでしょ」と呆れたように荷物を取りに行った。「お嬢様、マーサに舐められていませんか?」と荷物を渡してくれた。
私は荷物を受け取り「そうかもね」と曖昧に笑った。
マカレナは「なぜ平民であるマーサを好きにさせているのですか?」と再び椅子に座った。
私もド平民だから貴族としてどう振る舞えばいいのか分からないもん。日本に貴族制度ないし、イギリス人のお父さんも貴族じゃなかったから。お母さんの再婚相手、財前さんが雇ったメイドたちに育てられたから余計に。
私は誤魔化すように笑いながら丁寧に梱包された荷物を開けた。中はピンクゴールドの懐中時計だった。華やかな花の模様が彫られている。思わず顔が緩んだ。
マカレナは「本当にかわいいですね」とノートを開いた。「お嬢様。恋ってどんなものだとお考えですか? 愛は?」と少しギラついた目で私を見た。
私がハイド伯爵に恋しているとでも考えているのかな? それとも私の方が年上だから? ま、誰かに恋したことはあるけど。
軽く目を瞑り5年前の春を想った。ちょうど私より5歳上だったジュールに恋をした。
ゆっくりと目を開き「愛は……分からないけど、恋は吸い寄せられるように落ちるものだと思っているわ」と懐中時計を掲げた。窓から差す光で燦いている。
マカレナは「どんな風に吸い寄せられるものなのですか?」と瞳をキラキラと輝かせた。
「知らないわよ。視線が吸い寄せられて恋に落ちる。ただそれだけの話だと思うわ」と私は頬杖をついた。
彼女は「分からないわ……。恋って経験しないと分からないものなのでしょうか?」と眉尻を下げた。
「恋をしたいの?」と私は首を傾げた。
彼女は「違います。ただ私の知らないものがあるということが嫌なんです。恋をした時、人はどう感じるものなのかしら? 幸福感? それとも惨めなのかしら?」と窓を見つめた。
私は「その人との関係にもよると思うわ。あと既婚者かどうか」と苦笑した。
彼女は「関係か……。では恋が終わる瞬間はどう感じるものなのですか?」と再び目を輝かせた。
「それこそ関係によるわよ!」
そもそも恋の終わりっていつ? 付き合っていたなら別れた時だろう。じゃあ片想いだったら? 私の初恋は片想いで終わった。だって告白もしなかったから。
それから頬杖をついた。
「かつての恋を過去のものとして見られるようになった時かしら? 蜃気楼に恋していたと思った時かしら?」
彼女は「意外とあっけないのですね」と少し残念そうだ。
「わからないわぁ」と呟きながら、いい加減話題を変えたいと思った。「さて『アン』の翻訳に戻りましょうか」
そう言えば、この懐中時計。クリスマスには少し早い12月2日。一体どうして?
本や映画で得た知識とわずかな実体験。
次回、ウェディングドレスの仕立てと事件。




