これは夢の欠片
いつデイヴィス王朝が倒れたのかなんて知らない。それが分かればいつ頃小さなエリザベスがこの国を出たのか分かるのに。この国を出た時、大きくても10歳。私なんて15歳になってから初めて自分の意思でどこかに行ったのに。小さなエリザベスは王族だったから、協力してくれそうなツテはありそう。
うーん、と空書を続けているとマカレナが近づいてきた。
「お嬢様って外国語がお出来になるんですよね」
「もちろん。ある程度は」
マカレナはうーんと猫パンチのような拳を顎に当てた。ポシェットから石板とチョークを取り出した。時々詰まりながらも何かを書き始めた。書き終えるとバーンっと見せてくれた。拙い字の英語で書かれていた。
「この言語は読めますか?」とマカレナは真剣な真剣な眼差しを向けた。
「緑の切妻屋根のアン」と瞬時に答えた。
突然、世界的な名作のタイトルを出されてビックリ。マカレナは歓喜したようにガッシリと私の両手を掴んだ。
「私! 先日このタイトルの本を古本屋で買ったんです! でも何語か分からないし、どのみちゴーディラック語と旧ティレアヌス語しか分からないから途方に暮れていて!」
『緑の切妻屋根のアン』改め『赤毛のアン』なんてみんな知ってる。読んだことあるかは別な話だけど、タイトルくらいならみんな知ってる。この国では違うのか、鎖国されてるし。
「なんで買ったの?」
「私が知らないものだったから!これ、何語なんですか?」
「英語よ」
「お嬢様の母国語ですか!」
「まあね」
母国語、もう1つあるけど。私の主要言語は3つ。英語、日本語、フランス語。英語は世界共通語だから、現地の言葉がわからなかった頃によく使っていた。日本語力はワーキングホリデーの若者達との会話で維持していた。フランス語は……なぜか話せた。
マカレナはきゃあ、と嬉しそうな叫び声を上げた。
「あの! お嬢様! この本の翻訳を手伝っていただけますか!?」
「いいよ」
暇だし、語学力も使わないと錆びちゃう。なぜかフリーダが頭を抱えてる。私は手を振りほどき、頬杖をついた。
「明日にでもその本を持ってきて」
「必ず持ってきますわ!」
翌日、マカレナは『赤毛のアン』はもちろん、分厚いバインダーまで持ってきた。『アン』の発行年を見るとかなり古い。恐らく初版に近いもの。けれど状態はいい。マカレナは興奮したようにページを開いた。
「私達の国では外国語の勉強が100年以上前に途絶えていて……教本も外国語で書かれた本もなくて。でも最近ある方のご遺族がこの本を売ったそうですの。噂を聞いてから古本屋を巡っていたのですが、兄が見つけてくれて買ってくれました。遅い誕生日プレゼントとして! 最高のプレゼントでした」
「良かったね」
そうとしか言えない。他になんて言えばいいのか分からない。マカレナは最初の一文を指さした。
「ここは何と読みますの?」
「リンド夫人の驚き」
「リンド夫人……。主人公かしら?」
私は思わず吹き出して笑ってしまった。あの口やかましい近所のおばちゃんがヒロイン!?
「主人公はこの後登場するアン・シャーリーよ」
「アン・シャーリー……。平民が主人公なのですか」
「この本が書かれたカナダでは貴族は1つしかないわ」
「あら。さっそく違う常識にぶつかってしまったわ」
マカレナは輝く表情でルーズリーフに何か書き込んだ。
「どうしようもなくワクワクするわ。この本の中には一体どんな世界が広がっているのかしら?」
「好奇心が強いのね」
「父譲りですわ。そう母は嘆いておりました。お嬢様はどちらでこの本を読みましたの? 」
私は軽く目を瞑った。あれは私が10歳だった頃。
*
2014年12月。朝、目を覚ますとベッドから飛び降りて大急ぎで身支度をした。夜に小包が来ていたけど、朝食の後って言われていたんだ!
私はわっくわくでスウェットとジーンズを履いた。顔を洗って、パクパクパクと朝ご飯を食べた。
「ねえ、トン! 朝ご飯も身支度も全部終わったからママからの荷物頂戴!」
私はぴょんぴょんと跳ねながら頼み込んだ。トンは苦笑しながら荷物を手渡してくれた。
「ありがとう!」
荷物を受け取るとダーッと私は自分の部屋に駆け込んだ。ベッドに飛び込み、ベリベリベリっと荷物を開けた。そう、ママからの誕生日プレゼントとクリスマスプレゼントだ!
箱を開くと小説が2冊入っている、『赤毛のアン』と『若草物語』! 私が海外に行ってから、ママからのプレゼントはずっと誕生日とクリスマスに本が2冊。誕生日は11月、クリスマスは12月だから纏めて送られてくるけど。
「きゃあ!」
私は嬉しくって本をまた箱に戻し、封をした。そしてまた封を開いた。本を出した。本をまた箱の戻した。そんなことを繰り返した末、私はようやく本を読み始めた。まずは表紙がかわいい『赤毛のアン』から!
ママはどうしてこの本を選んだのかな? いつになったらママがいる日本に帰れるんだろう?
*
マカレナに向かってにこりと笑った。
「昔、誕生日に母が贈ってくれたの」
「いいな〜、誕生日に本を贈ってくださるお母様って!」
一階からやかんの笛吹く音が響いた。手を胸元に当てるふりをしながら、ドレスの下に隠したペンダントに触れた。その温かな感触を確かめていた。マカレナをチラと見た。マカレナにはバレないだろう。
「日本へ帰れる日は来るのかな?」
英語で呟いたその言葉は、今までの人生で何度も何度も繰り返してきた問いだった。
10歳だった明美に喜びを与え、どこ行くにも持ち歩いた『赤毛のアン』。現在は明美の祖母の家にあります。




