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仲居のまま

作者: 吾妻栄子

「じゃ、俺は風呂行ってくるから」

 返事を待たずに夫は立ち上がる。

「いってらっしゃい」

 こちらは寝入ったばかりの赤ん坊を座布団の上にそろそろと置く。

「フエン、フエエエン」

 やっぱり目を覚ました。

――ガチャリ、ゴト、ゴト。

 戸口からは夫が扉を閉めて鍵を掛けた音が響く。

 また逃げやがって。

 苦い感じを覚えつつこちらは赤ちゃんの娘を抱く。

 この子が生まれて四ヶ月。

 夫は自分の関わりたい時には盛大に可愛がりはするが、こんな風にぐずって世話する私もしんどい時にはいつもどこかに逃げるのだ。

 世間にそんな父親はよくいるだろうし、中にはもっと酷い男性もいるだろう。

 だが、私の中には彼への不満や不信、失望が堆積していく。

 今回の一泊旅行にしたところで「君の妊娠中はろくに旅行にも行けなかったし、久し振りに温泉でゆっくりしたい」という彼の希望だ。

 こちらは事前に一泊二日分の赤ちゃんのミルクや哺乳瓶、オムツ、おしり拭き、着替えを用意してまとめるのも一苦労なら、ベビーカーで長距離移動するのも難儀して、到着後も本当にゆっくりなど出来ない。

 赤ん坊は私のカーディガンの胸に頬を押し当てるようにしてまた寝入った。

 油断は出来ないが、そろそろと座布団の上に置くと今度は本当に目を閉じたまま物音一つ立てない。

 ほっとすると同時に空腹を覚えて、テーブルの上に並んだ二つの温泉饅頭の一つを取り上げる。

 予約した夕飯の時刻まではまだ三時間以上もあるからこれくらいなら大丈夫なはずだ。

 そもそも今日は朝早くに出てお昼も電車の中で軽く食べたくらいだし。

 一口齧った温泉饅頭はどこか口の中で尾を引くようにしっとりというよりねっとり甘い。

 一口半も飲み込むともうお腹いっぱいという感じで寝転がると、高い天井の古く黒ずんだ木目がまだ午後も半ばの電灯を着けた部屋でも暗がりじみて不気味に映る。

 そういえば、この辺りは元は花街で古い旅館は妓楼だった所も多いんだっけ。

 ここもそうかはわからないが。

 ただ、私はいわゆる霊感があるとか「える」とかいう人間ではない。

 どこに行っても物理的にそこにあるものを目にするだけだ。

――トン、トン。

「はい」

 行儀の良いノックの仕方からこれは旅館の人だと察しをつけつつ鍵を掛けたドアに近付く。

「お布団敷きに上がりました」

 物柔らかな中年女性の声から察しが確信に変わって鍵を開けてドアを開ける。

 果たしてそこにはチェックインした時にも沢山目にした仲居さんたちと同じ着物を纏った、微かに白髪の混ざった髪をアップにした四十代半ば程の女性が立っていた。

「失礼致します」

 笑うと目尻に柔らかな皺が増える。

「お願いします」

 多分、部屋のテーブルやら座椅子やらを避けなくてはいけないと思われるので、こちらは座布団の上に寝ている娘を抱き上げて主室から広縁ひろえんの座椅子に移動する。

「フエ、フエエン」

 心地良く寝入っていた座布団の温みから引き離されて目を覚ました赤ん坊は再び泣き出した。

「あら、起こしちゃってすみませんねえ」

 食べかけの温泉饅頭を載せたテーブルを隅に寄せながら仲居さんは苦笑いする。

「いいんです、この子、さっきからぐずってるんで」

「お母さんは休めませんよね」

 早くも布団を押し入れから出し始めた着物の背中が答える。

「あたしは自分の子供はいませんでしたけど、小さな子連れのお客さんが来ると、大抵ゆっくりしてるのはお父さんだけなんですよね」

 畳の上に二組のマットレスを敷いたところでクスリと笑う気配がした。

「お客さんの普段のお宅のことを知りもしないのにこんなことを言うのは失礼でしょうけどね」

 大人二人分の寝床をテキパキ作りながら中年の仲居は語る。

「そういうあたしこそまあ悲惨なもんですよ。飲んだくれの亭主から毎日ぶん殴られて、ある日とうとう逃げ出して、ここの住み込みになったんです」

「昔は出戻りなんて家の恥だから実家にも戻れなくて」

「風呂場の掃除してた時に急に頭が痛くなって目の前が真っ暗になったと思ったら、死んじゃってましてね」

 そこまでがあまりにも普通の世間話の調子なので、一瞬間を置いてからこちらが固くなった。

 この人、何言ってんだろ?

 それとも、私が聞き違えたのかな?

 すると、相手はカラカラと笑って着物の手を横に振った。

「いや、別にこちらの職場を恨んじゃいませんよ。ちゃんと死後の処理もしてくれましたし」

「共同墓地で他の無縁仏になった人らと話すと、まあ、もっと悲惨なもんですよ。いや、あたしも無縁仏なんですけどね」

「あそこにいると辛気臭くて気が滅入るんでこっちに戻ってきました」

「天国も地獄も結局、それを強く信じてた人が行くんでしょうねえ」

 柔らかな笑い皺を刻んだ顔の目が虚ろになる。

「あたしは神様仏様なんてさっぱり信じてませんでした」

「何か願って良くなったこともなかったし」

「この辺りにはそういう女の霊が沢山いるんです」

「天国にも地獄にも行けないようなね」

――良い女は天国に行ける。でも、悪い女ならどこにでも行ける。

 そう言ったのは誰だっただろうか。

 有名なフェミニストの誰かだった気がするが、その時も「それは結局、特別な女だろ」と嘘っぽく感じてもう忘れてしまった。

 制服の着物を行儀良く纏った相手は今度は悪びれない調子で語る。

「でもあたしらもね、誰にでも姿を見せるわけじゃありません。幽霊だって相手を選んで出て来るんですよ」

「ま、古株の方だとわざわざ怖がらせに出るような人もいますけどね。ああいうのはいただけませんね」

「あたしはお客さんみたいにちょっと分かってくれそうな人にだけ顔出しすることにしてます」

「それでは失礼します」

 丁寧に一礼すると、着物の後ろ姿が閉じたままのドアに吸い込まれるようにして消えた。 

「フエエエン」

 聞き覚えのある泣き声で目を醒ます。

 頭の下にも体の下にも柔らかな感触がするのみならず体の上にもやはり柔らかな重みを伴ってすっぽり包まれる感覚がした。

 きっちり二人分敷かれた布団の一組の中で隣の娘が小さな体に反比例するような大音量で泣いている。

「はい、はい」

 すっぽり被さっていた掛け布団を半ば剥くようにして起き上がる。

「お母さんもアーちゃんもすっかり寝てたんだね」

 あれはやっぱり夢だったのだ。

 多分、仲居さんは当たり前に布団を敷いただけで部屋を出た後に私がその布団で寝入って観た夢なのだ。

――ゴト、ゴト、ガチャリ。

 思わずビクリとして戸口を見遣ると、鍵を手にした浴衣姿の夫が立っていた。

「もう布団敷いたの?」

 スリッパを脱いで部屋に上がりながら、相手は怪訝な表情になる。

「仲居さんがさっき来て敷いてくれたの」

 少なくともこれは嘘ではない。

「赤ちゃん連れだから配慮して早めに敷いてくれたのかな」

 髪を濡らした夫はそれで自分で納得した風に隅に寄せられたテーブルの上の食べかけの温泉饅頭の横に鍵を置くと続けた。

灯里あかりは俺が見てるから、今度は君が風呂入ってきなよ」

「分かった」

 あれは夢で、あの仲居さんはきっと普通の人だ。

 また館内のどこかで会っても、何も恐れることはない。

 自分に言い聞かせつつ、廊下に通じるドアを開く。

(了)

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