役立たずの泥水令嬢は追放先で領主と幸せに暮らします
わたくしの名はアイリス・アルトベルク。
アルトベルク子爵家の次女としてこの家に生まれ、幼い頃からどういうわけか水の性質や川の流れなどを研究することが好きだった。しかし、世間一般で評価される魔法――たとえば姉の持つ華やかな「清水魔法」とは違い、わたくしが操れるのは“汚れた水”をこね回すような、地味で不気味な術式。
まわりからはいつしか「泥水魔法」などと呼ばれるようになり、その不名誉な響きに負い目を感じつつも、わたくし自身は「自分にだけ扱える不思議な魔法かもしれない」と思って、こっそり研究していた。もっとも、本当の力が何なのか、実はわたくし自身もよく分かっていない。人から見れば単なる“汚い水いじり”にすぎず、悪臭もきついからだ。
◇◇◇
ある日のこと。わたくしは朝から近くの小川で、ちょっとした採取や観察を行っていた。少しばかり藻や泥の状態を調べたかったのだ。
研究を終えて家に戻るころには、服の裾に泥がつき、肌にも少し生臭さが染みついていた。かといって、まったく何もせずに屋敷へ帰るほどわたくしは無頓着ではない。川辺で自分なりにしっかり水を浴びて洗い、泥水魔法を使って何とか大きな汚れや臭いを落としてから、邸の門をくぐったのだ。
しかし、門を見張っていた使用人のリカルドは、わたくしの姿を見るなり眉をしかめる。
「うわっ、アイリス様。また川で変な実験ですか? 服は洗ったっておっしゃいますけど……まだどこか泥臭くないですかね?」
わたくしは自分の袖口を軽く嗅いでみる。確かに、ほとんど汚れは見当たらないし、生乾きのようなにおいもあまりしない。けれどリカルドは大げさに鼻をつまんでみせる。
「子爵家の敷居をまたぐ以上、もうちょっと清潔にしていただかないと……。せめて姉上様の『清水魔法』を借りてピカピカにするべきじゃないですか?」
ああ、またそれか――と、わたくしは心の中で嘆息する。
姉エリザこそが“高貴なる清水魔法”を扱う、と家中の人間が信じてやまない。姉が水を一度“清める”だけで、どんなに汚れた水もあっという間に美しく透明な清水になるのだ。まるで神の奇跡のように見えるし、実際その力を借りて、わたくしたちは便利な生活を送っている。
それに比べれば、わたくしの魔法など、人目から見れば「中途半端な泥遊び」にしか見えないのだろう。わたくし自身、姉が優秀で自分は劣っている、とずっと思い込んでいた。
「ええと……服についた泥はちゃんと落としてきたつもりなんですけど……」
しおらしく答えるわたくしに、リカルドは視線を投げ、「まあ仕方ありませんね」とつぶやいた。そのまま、わたくしの腕を引いて使用人用の小部屋へ案内し、さらに大きな桶で水を張って、もう一度洗い直せと言う。
屋敷の中に入るだけなのに、こうまでされるのは正直うんざりだが、使用人たちは命令口調を緩めない。すっかり体が冷えてしまったころに、やっと姉エリザがやってきた。
「しょうがないわね、アイリス。あなたって本当に泥まみれが好きなのね。仕方ないわ、わたしが清めてあげる」
姉のエリザはさらりとした金髪を持ち、白い肌が印象的な美しい人だ。
少し指先を振るうだけで、桶の水がみるみる透明度を増していく。姉が扱う「純粋なる清水魔法」は、わたくしの泥水とは正反対。子爵家の噴水や井戸までも彼女が清めてくれるおかげで、家族も使用人も大喜びしている。
姉が笑顔で「ほら、きれいになったでしょう?」と微笑む姿を見ると、わたくしはいつも恐縮してしまう。だって、姉の魔法こそ本物で、わたくしの泥水などおよびもつかない――ずっとそう思い込んでいるのだから。
「ありがとう、姉さん。おかげで匂いが取れた気がするわ」
けれど実際は、どこか鼻を刺すような生臭さが逆に立ち込めることもあるのだ。姉の清めた水は見た目こそ完璧にきれいなのに、不思議とときおり嫌なにおいが混ざる。わたくしは理由が分からないし、姉に聞いても「気のせいじゃない?」と笑われるばかり。
そんなわけで、この日はひどく疲れた状態で部屋へ戻ることになった。再び研究をする気力も失せ、わたくしは机に突っ伏してうとうとする。これが毎日の繰り返しなのだから、わたくしがどうしても“自信のない娘”になってしまうのも仕方ないだろう。
◇◇◇
姉エリザの結婚話はあっという間に決まり、アルトベルク子爵家は大いに沸いた。
姉は「清水魔法」を扱う希少な才能を持つ令嬢だと評判になり、より上位の貴族に嫁ぐことが決定したのだ。姉の周囲は祝福一色。両親も大喜びで、結婚が実現すれば家の地位がいっそう高まるだろうと期待している。
その一方、わたくしはどうかといえば、同じ家の一員として扱われているとは思えない扱いをされていた。小さな書斎を研究部屋として与えられてはいるが、使用人たちも冷ややかだし、両親に至っては存在すらあまり認めてくれない。
いちばんつらいのは、姉の結婚式が近いというのに、わたくしが何をしていようが家族からまるで声をかけられないことだろう。結婚に関する仕事は姉の友人や侍女が率先してやっているし、わたくしは蚊帳の外。そもそも「泥水をいじる妹は、晴れやかな場を汚しかねない」と考えられているふしもあった。
そんなある日、わたくしはいつものように川岸でちょっとした調査をしていた。藻や微生物の観察を行い、それらを瓶に集めて持ち帰ろうとしたとき、誤って足を滑らせ、膝までずぶりと泥に沈んでしまう。
服が泥まみれになったが、わたくしの泥水魔法である程度まで洗って帰った。しかし、帰宅後に使用人から言い放たれたのは容赦のない言葉だった。
「姉上様の結婚も間近だというのに、アイリス様は相変わらず泥遊びですか。身内として恥ずかしくありませんか?」
ついには母にまで呼び出され、
「あなたが家の価値を下げるような振る舞いを続けるなら、もうアルトベルク家には置いておけません」
とまで叱責された。姉が清めてくれた水も、何度か繰り返しやられれば服の繊維が傷んで破れてしまう。挙句、「その服のまま家の中を歩くと姉の婚礼ムードが台無しだ」と言いがかりをつけられる始末。
もともと薄々感じてはいたが、結局のところ、両親はわたくしを「泥臭い魔法の厄介者」としか見ていない。
そして――わたくしは正式に勘当された。
理由は「研究者として辺境に赴き、もっとまともな学問を学べ」という体裁をとっていたが、実態は厄介払いに近い。姉の結婚という晴れの舞台に泥を塗られたくないのだろう。
わたくしは声も出せなかった。泥水魔法がどれほど不気味でも、自分なりに家のために研究をしようと思っていたのに。いや、そもそもわたくし自身が本当の価値を把握できていないのだから、説得力もないのだ。
そのまま、伯父のツテを頼ってバラン子爵という辺境の領主のもとへ移るように命じられた。子爵家の書庫や研究施設がどうにか整っており、そこに住み込みで学べということらしい。
こうして、わたくしは姉の結婚を見届けることもなく、実家から送り出されることになってしまった。
◇◇◇
バラン子爵家に到着したわたくしは、とりあえず研究者の肩書きで扱われ、館の隅にある小さな部屋を割り当てられた。書類の上では「アルトベルク家の次女であるが、扱いづらい泥水魔法の使い手」と書かれているらしく、周囲の反応はどこか冷ややかだった。
もっとも、実家で日々責められるよりは、ずっと気楽と言える。バラン子爵自身も、わたくしに大きな期待をかけるわけでもなく「何か研究したければ自由にするといい」とだけ伝えてくれた。
しかし、辺境とはいえ、この領地には深刻な問題が起きていた。
子爵家の近くを流れる川が、どうやら上流からの汚染で濁り始めているというのだ。もし放置すれば、街の井戸や農地に悪影響が出かねない。すでに一部の住民が腹痛や風邪のような症状を訴えており、子爵が頭を痛めているらしいと聞いた。
わたくしは書庫にこもり、古い地図や文献を洗いざらい調べてみた。そのうちに思い当たったのは、「魔獣」の存在だった。一部の魔獣は排泄や体液に瘴気を含み、河川を汚染する可能性がある。もし上流に大型の魔獣が棲みつき、何らかの形で川へ排水を流しているなら、深刻な事態となるだろう。
そこでわたくしは、「上流を一度、直接調査できないか」と子爵の家臣に申し出た。だが、家臣たちは一様に反対した。危険だからやめろ、まだ騎士団の準備も整っていない、と。
「そりゃあ、アルトベルク子爵家から来たお嬢様が率先して魔獣の縄張りを探るなど、無謀にすぎますよ。泥水魔法で何ができるっていうんです?」
正直、その通りかもしれない。わたくし自身、魔物に対抗できるほどの攻撃魔法など持ち合わせてはいないし、姉のように聖なる水で一気に浄化するわけでもない。
それでも、いてもたってもいられず、ある日の明け方、わたくしはひとりでこっそり上流へ向かった。少しでも原因が分かれば、報告する材料になると思ったからだ。
◇◇◇
上流へと川をさかのぼる道は想像以上に険しかった。雑木林のなかをかき分けて進み、地図と照らし合わせながら場所を特定しようとする。しばらく進むうちに、妙に鼻をつく“腐ったような臭い”が漂いはじめた。
そして、木々の先に見えたのは、黒ずんだ水が溜まった小さな沼のような場所。微妙に泡立っていて、生き物が棲める環境とは思えない。それでも細かく調べようと近づいたところ――森の奥から異様なうなり声が響いた。
姿を現したのは、背中に棘のある獰猛な魔獣だった。大きさは馬の三倍ほどもある。皮膚からどろりと体液が滴って、地面をじわじわと侵食している。やはり、この魔獣が川を汚染しているのか。
しかし発見の喜びも束の間、魔獣はわたくしを見つけるなり突進してきた。どうにか回避しようと動いたが、足を滑らせて倒れこむ。胸がどくどくと高鳴り、死を覚悟した――その瞬間だ。
「どけぇっ!!」
鋭い声とともに矢が飛来し、魔獣の脇腹を射抜く。
振り返ると、銀色の甲冑に身を包んだ騎士たちが剣を構えて駆け寄ってきた。その先頭に立っていたのは、意外にも若く、端正な顔立ちをした男性。彼こそがバラン子爵その人である。
「怪我はないか!? そなたは……アルトベルク子爵家から来た、アイリス嬢だったな?」
わたくしが驚きと安堵を抱えつつ小さく頷くと、子爵は「下がれ」と言って魔獣へ向かっていく。周囲の騎士たちも息を合わせて斬りかかり、見事魔獣を制圧してしまった。
戦闘が終わり、わたくしはへたり込む足を何とか立たせて子爵のもとへ寄る。危険を承知で上流へ来た経緯を正直に話すと、彼は少し呆れたように眉を上げながらも、最後には苦笑を浮かべた。
「そうか。そなたが調査に行ったと聞いて、急いで騎士団を連れてきたのだ。だが、まさかこんな大型の魔獣とはな……。そなたが無事でよかった」
子爵の横顔は、険しいがどこか頼りがいがある。
どうやら、わたくしが上流へ行ったことを聞きつけた家臣が慌てて子爵に報告し、彼が急ぎ追ってきてくれたらしい。命拾いしたことに、わたくしは深く頭を下げるしかなかった。
◇◇◇
魔獣を退治したあと、付近の沼や水辺を調査すると、やはり体液や排泄物に含まれた瘴気がじわじわと川へ流れ込んでいた。これをどうにかしない限り、下流の街に悪影響が続くだろう。
子爵は周囲の騎士に指示を飛ばす。一方、わたくしも少しは役に立たないかと、泥水魔法を用いて沼の淀みを“洗浄”しようと試みた。ただ、わたくし自身は「汚れを少し落とせるかも」程度にしか思っていない。
しかし、実際にやってみると、思いがけない変化が起きた。
黒ずんだ水の表面をわたくしの“泥水”で覆い、微妙な力加減で混ぜ合わせるように術式を組む。まわりから見れば単なる泥水を増やしているだけに見えるだろう。それでもじわじわと時間をかけると、淀んだ水の中で小さな微生物のような存在が活性化し、腐敗物を分解していくのだ。結果、底に溜まった瘴気が少しずつ中和され、表面の濁りがわずかに薄くなる。
もちろん、姉の清水魔法のように一瞬で“透き通った水”に変わるわけではない。短時間で全域がきれいになるわけでもない。それでも、その場にいた騎士や子爵が水面の変化に気づいたのは確かだった。
「……これは、一体どういう原理なのだ?」
子爵が問う。わたくしは正直に「分かりません」と答える。
アイリス自身、泥水魔法の仕組みや本当の力など知らない。ただ、自分が“泥をまじえた水”を作り出してそこに微生物を呼び寄せている――そんな感覚だけがある。
それでも子爵は、沼の一角が若干すっきりした光景を見て、「もしかすると、この魔法を上手く使えば川の汚染を抑えられるかもしれない」と期待を示した。
「君の泥水魔法は、ただ汚いだけではないのだな。私には、川に新たな“命のめぐり”をもたらしているように思える。もしや、この力で我が領地を救ってくれるのではないか?」
わたくしはあまりに大それた評価を受け、戸惑いながら首を振る。
「わ、わたしは大したことなんて……。姉の清水魔法なら、もっと手っ取り早く汚れを除去できると思うんです」
それを聞いた子爵は、「そうなのか?」と少し不思議そうな顔をする。そして、まっすぐにわたくしの瞳を見据えて言った。
「その姉上の魔法がいかなるものかは知らないが……私は今、実際に目の前で起きた変化を信じたいと思う。アイリス、君が必要だ。ぜひ協力してもらいたい」
――この言葉に、わたくしの胸は高鳴った。家族に役立たずと見下され、自分でも存在意義を見いだせなかった泥水魔法。しかし、ここでは必要とされているのだ。
わたくしは心の中に熱を覚えながら、子爵に深く一礼した。
◇◇◇
あれからバラン子爵の指揮のもと、川の汚染を除去するための本格的な作戦が動き出した。魔獣が出した瘴気を含む水は、駆けつけた冒険者や騎士による排水ルートの整備で少しずつ抑えられていく。わたくしも“泥水魔法”を応用して、流れをコントロールしたり、分解を促す微生物を増やしたりしていた。
最初こそ、「こんな泥だらけにして本当に大丈夫か?」と疑われもしたが、部分的にきれいになった区画を見て、領民たちは徐々に協力的になっていく。子爵はわたくしの働きを公に称えてくれ、「これからも研究を続けてほしい」と言って研究所を用意してくれた。
研究を進めるなかで、わたくしは少しずつ自分の魔法の“正体”を理解し始める。どうやら、ただ汚れた水を作っているのではなく、元々存在する微生物たちを活性化させる力があるらしい。川底や泥の中の小さな生き物の活動を促し、自然の浄化作用を何倍にも高めている――そう考えられる。
つまり、“泥水魔法”と呼んでいたものは、本当は水に小さな生命を循環させる術式だったのだ。これにより、腐敗を分解し、瘴気や毒を中和する働きを担える可能性がある。
もしこの力を姉の清水魔法と比較するなら、“泥水”は遠回りで効率の悪い方法かもしれない。だが、長い目で見れば生態系全体を維持するという大きな利点があった。
同時に、姉の魔法のことが気になり始める。子爵領で地質学を学んだ他の研究者によると、「過度に水を純化しすぎると、有用な微生物まで死滅する危険性がある」という実験データがあるという。
もしかして、姉の清水魔法は強力すぎて、生態系そのものを壊してしまう面があるのでは?
しかし、わたくしは姉の力が危険だとは信じたくなかった。あの魔法は屋敷の噴水や井戸をきれいにしてくれていたし、みんな喜んでいたのだから……。
そんな葛藤を抱えつつも、わたくしは「自分の泥水魔法が意外なほど有用」という事実に、淡い自信を持つようになる。子爵がその力を真っ向から認めてくれるのも、わたくしの背を押してくれた。
◇◇◇
子爵は、夜ごとにわたくしの研究室を訪ねては、「何か困っていることはないか」「新しい発見があれば共有してくれ」と声をかけてくれる。
領地の騎士や民にとっては「わざわざ子爵自ら研究者をねぎらうのか?」と驚きの行動らしいが、それだけ彼が川の浄化に真剣なのだろう。
ある晩、わたくしは書物を読みふけっていて、ふと眠気に襲われ、机でうたた寝してしまった。そのときに部屋へ訪れた子爵が、ストールをそっとかけてくれたらしい。目を覚ましたわたくしは驚きと感激で慌てて頭を下げた。
「い、いつもすみません。こんなわたくしなどに……」
「謝ることなどない。君は私たちの領地にとって、なくてはならない存在だ。むしろ、君を追い出すような真似をしたアルトベルク子爵家が信じられんよ」
その言葉を聞くたびに、胸が熱くなる。「君が必要だ」と言われることが、これほど嬉しいなんて。
わたくしは子爵への感謝と尊敬の念を抱き、いつしか特別な想いが芽生えつつあるのを感じていた。だが、身分的にも立場的にも、それを表に出すことははばかられる。
子爵のほうはどう思っているか分からないが、ときおり優しい微笑みを向けられると心が揺れてしまう。わたくしが泥水魔法を扱うからといって、においを嫌がる素振りすら見せないのだから、わたくしにとっては奇跡のような存在だった。
◇◇◇
子爵領の川の浄化は順調に進み、住民たちの体調被害も徐々に収まってきた。もう一歩で完全に落ち着く――そういう段階に差しかかったある日、わたくしの部屋に思わぬ客がやってきた。
それは、アルトベルク家の父と母、そして姉エリザだった。
姉の結婚話は順調に進んでいると思っていたが、彼女の顔色は悪く、両親もやつれている。訝しく思いながら話を聞いてみると、驚くべき事実が語られた。
なんと、実家の領地が深刻な水質悪化に直面しているというのだ。姉の清水魔法で長期にわたり「水をきれい」にし続けた結果、どうやら土壌に必要な微生物や栄養分までもが根こそぎ奪われ、耕地が痩せてしまったらしい。
最初は「清めた水のおかげで健康に暮らせる」と喜ばれていたが、徐々に作物の収量が減り、井戸もいつの間にか妙な味になり、家畜が病気を発症し始めているという。姉自身もそんな事態は夢にも思わなかったらしく、清水をかければかけるほど環境が悪化していく状況に驚き、精神的に追い詰められているらしい。
「アイリス……頼む、お前の泥水魔法でなんとかしてくれないか? お前なら、水を……その……逆に回復させる力があるのでは……」
父と母が必死に頭を下げる様子は、以前の高圧的な態度とはまるで別人のようだ。
姉エリザも青ざめた顔のまま、「ごめんね。わたし……自分がやっていることが間違いだなんて思わなかったの」とか細い声で呟いている。
けれど、わたくしは唇をきゅっと結んだ。思い返せば、ずっと昔からわたくしは「泥水魔法なんて役立たず」「姉の清水こそ素晴らしい」と蔑まれてきた。そんな彼らがいまさらわたくしの元を訪れ、“助けてくれ”とはあまりにも都合が良すぎる。
迷いながらも言葉を探していると、部屋の扉が開き、バラン子爵がゆっくりと入ってきた。彼は姉たちを鋭い眼差しで見渡し、静かに問い質す。
「アルトベルク子爵殿、これは一体どういう風の吹き回しだ? 私に聞くところでは、アイリス嬢を追放するかのように勘当したそうではないか。困ったら戻ってきて、彼女の力を借りたいと?」
両親はしどろもどろになり、必死に言い訳めいた言葉を並べる。
けれど子爵はぴしゃりと、「君たちにアイリスを連れていかせるわけにはいかない」と言い切った。
「今やアイリス嬢は、我がバラン子爵領においてなくてはならない研究者だ。領民たちも彼女の働きに感謝している。君らが勝手に排除しておきながら、今になって『助けてくれ』とは、あまりに勝手ではないか?」
父と母はさらに頭を下げ、姉エリザは泣きそうな顔で「本当にごめんなさい」と言う。だが、わたくしの心は冷え切ったままだ。
思わず吐き出すように言葉が出る。
「ずっと泥水ばかり扱っているから家が汚れる、臭いが移ると罵られたのに……今さらわたくしを頼るのですか? 第一、わたくし自身も、自分の力をよく分からないまま過ごしてきました。もしかしたら間違っているかもしれませんよ?」
そう告げても、姉は涙をぽろぽろこぼし、父と母も繰り返し「頼む!」と懇願する。わたくしはぐっと視線を落とし、しばし黙り込んだ。
しんとした沈黙のあと、バラン子爵がわたくしの肩に軽く手を置いた。
「アイリス。私は君の意志を尊重する。もし、どうしても実家を救いたいと思うのなら、我が領地が落ち着き次第、協力しに行っても構わない。けれど、君が『それは嫌だ』と思うなら、私は君を行かせるつもりはない」
その言葉に、わたくしは初めて大きく息を吐き出す。「君を行かせるつもりはない」――つまり、わたくしの存在がいかに大切か、はっきりと示してくれているのだ。
以前のわたくしなら、姉や両親を見捨てられなかったかもしれない。でも、今は違う。実家が水問題で困っていると聞いても、そこには何の愛着も湧かない。わたくしを蔑ろにし続け、追い出したのは、ほかでもないこの人たちなのだから。
「……申し訳ありません、父さま。母さま。わたくし、もうアルトベルク家には戻りません。今はバラン子爵領を支えたい。ここで学んだことを、ここで生かしたい。姉さんも困っているかもしれないけれど、今さら手を貸すわけにはいきません」
父母の顔が苦悶に歪む。姉エリザが「そんな……」と崩れ落ちそうになるが、わたくしはまなざしを逸らさなかった。
これが紛れもないわたくしの本心だった。追放同然で放り出しておきながら、困れば手を借りたいなど、勝手すぎるのだ。
バラン子爵はその場で執事に合図し、「これ以上の長居はご遠慮いただこう」と告げる。両親や姉がどれだけ泣きついても、もう何も変わらない。結局、三人は子爵の家臣に促され、肩を落として帰っていった。
◇◇◇
そのあと、わたくしはどっと疲れが押し寄せてきて、子爵の前で小さく肩を震わせてしまった。
自分がこんなにも冷たい態度を取れるとは思わなかったし、姉の泣き顔を見てさすがに胸が痛まないわけではない。けれど、それ以上に、わたくしを認めず卑下し続けた家族に対する怒りと悲しみが込み上げていた。
「アイリス……すまないな。君にとって、つらい時間だっただろう」
子爵が優しく言葉をかけ、わたくしの両手をそっと包む。
その温もりに、一瞬涙がこぼれそうになる。思わず声が詰まるわたくしの背に、子爵はさらに穏やかな声で続けた。
「だが、私は君を必要としている。君の魔法の本質も、君の知識も、そして……君自身も。どうか、ここで一緒に歩んでくれないだろうか?」
いつしか、子爵の瞳はまっすぐにわたくしを見つめていた。
胸の奥から熱いものがあふれ出しそうになる。――勘当され、たったひとりで泥水を抱えて生きてきたわたくしが、ここで初めて“必要だ”と強く言われ、なおかつ守られている。これ以上の幸福はないだろう。
「はい……わたくしでよければ、ずっと子爵様のもとで、川や土地を守るお手伝いをいたします。自分の魔法がどこまで役に立てるか分かりませんけれど、全力を尽くしますわ」
そう答えると、子爵は大きく頷き、「ありがとう」と言って微笑んだ。
まるで騎士道物語の王子様のような笑み――わたくしの心は一瞬で満たされ、ああ、やはりここがわたくしの帰る場所だと確信する。
◇◇◇
こうして、わたくしはバラン子爵領に残り、正式に“魔術顧問”としての地位を得た。泥水魔法の研究はさらに進み、川に生命を循環させる術式の有効性も高まりつつある。
姉の清水魔法が一瞬で汚れを取り去る“華やかな力”だとすれば、わたくしの魔法は“時間をかけて生き物たちとともに浄化を進める地味な力”なのかもしれない。しかし、それが領地の自然を守り、結果的に人々の暮らしを豊かにすることが分かったのだ。
実家で姉や両親たちがどんな思いをしているかは想像に難くない。そこにはきっと、もう戻れない。だけど、わたくしは後悔していない。
ある夕暮れ、川のほとりを視察していたわたくしのもとへ、子爵が馬を引いてやってきた。
水の透明度は十分に回復し、土壌にもしっかりと栄養が循環しているのを確認できる。もうしばらくすれば、作物の育成にも良い影響が出るはずだ。
子爵は手綱を軽く握りしめながら、わたくしを見つめる。
「よくここまでやってくれた。君のおかげで、領地は救われたよ」
「いえ……子爵様をはじめ、騎士団や研究員の方々も協力してくれましたし、わたくし一人ではとても無理でした」
そう言うと、子爵は馬から下り、わたくしの隣で静かに川面を見つめる。川は夕陽に染まり、穏やかに流れていく。
子爵がぽつりと呟いた。
「……いつか、もし君が望むなら、この領地を一緒に治めてくれないか。私は君にずっと側にいてほしい。――領地を守るためだけじゃない。私自身が、君という存在を大切に思っているからだ」
わたくしは一瞬、言葉を失った。
それはまるで、婚約をほのめかすような甘い響き――。勘当され、泥水まみれと揶揄されてきたわたくしには、にわかには信じられないほどの幸福だ。
けれど、子爵の瞳は真剣で、そこに偽りの色は見当たらない。わたくしは思わず目頭が熱くなり、微笑みながらうなずいた。
「はい……。わたくしでよければ、いつまでも子爵様とともに、この川と領地を見守っていきたいです」
そう答えた瞬間、風がそっと川面を揺らし、遠くで鳥の声が聞こえた。
――わたくしの“泥水魔法”は、もう泥臭いだけの魔法じゃない。小さな生き物たちの命を宿し、水を再生へと導く、かけがえのない力なのだ。
そして、そんな力を持つわたくし自身を“必要だ”と言ってくれる人がいる。姉のまばゆい清水魔法とは別の形で、人々を幸せにできる道がある。その事実を噛みしめ、わたくしは子爵とともに、夕焼けの川を見つめ続けた。
お読みいただきありがとうございました!
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