命我翔音
踏み込んだ瞬間、周囲の空気が腐敗したように淀んだのが分かった。
どうやらこの部屋は千草達が泊まっている部屋よりもグレードが高いらしく、そこそこ広い。
だが、今の状態の部屋に泊まりたいかと言われればノーだ。
部屋の内装そのものは変化が少ないものの、人間がいてはいけない空間であることは肌で感じられる。
そしてその中で、信乃は戦っていた。
左手に禍々しい籠手を装着した彼女は、刀を手に妖魔の攻撃を次々と捌いていく。
信乃を相手取る妖魔は、前足が巨大な錆びた鎌になっている怪物だった。
妖怪のカマイタチを思わせるが、本体はイタチと言うより犬に近い――が、その容貌はあまりにも醜悪だ。
ぎょろぎょろと動く両目に、ばっくりと耳まで裂けた口。その中から覗くのは、刃物のように鋭い、不揃いな牙。
こんな化物を見た日には、どんな犬派でも猫派に転向せざるを得ないだろう。
見ただけで内臓を弄ばれるような不快感。
正に人外、正に異形。
しかしそんな化物にもひるまず、血色の刀と共に戦う少女がいた。
四宮信乃。
彼女が妖魔と戦う姿に、千草はあやうく呼吸を忘れるところだった。
鮮烈に、そして凄絶に。
一切の無駄の無く鮮烈された立ち回りは、まさしく一流と評して差し支えない。
5年ぶりに見る、幼馴染の剣舞。
5年という歳月を強烈に意識せざるを得ない瞬間がまさに、今だった。
「……さて、どうしたもんかな」
戦いの中に割り込んだ場合、信乃の邪魔をすることになりかねない。勢いのまま飛び込んだはいいものの、こんな信乃の姿を見てしまった今、千草は考えるまでもなくお邪魔虫である。
「自覚してたけど、その事実を突きつけられるとケッコーキツいのがあるな」
とは言え、このままホイホイと撤退するのもシャクである。
ひとまず何か自分に出来ることはないかと周囲を見渡すと、信乃の背後で倒れている白髪の少女がいた。
今時珍しい和装姿の彼女は、歳は千草達と変わらないように見える。
「部屋にいた人か……生きてたんだな」
妖魔に襲われて人間が生存できる可能性は高いとは言えない。
すぐに殺されるケースが大半であり、そうでない場合は、妖魔がじわじわと時間をかけて殺したり、『味付け』として恐怖を植え付けることを好む場合だ。
どうやら今回は後者を引き当てたようだ。
少女は腕から血を流して気絶していた。
出血はそこまで多くは無さそうだ。
どうやら信乃は彼女を庇って戦っているらしい。
「見つけたぜ。今俺がやるべきことが」
千草は右腕に巻かれた命我翔音を、5メートル程離れた少女に向かって飛ばした。
伸縮自在の対魔符は、蜘蛛の糸のように伸びて少女の脚に絡みつく。
「少し乱暴になるけど、我慢してくれよ……!」
千草は命我翔音が元の長さに戻ろうとする性質を利用してこちらに引き寄せた。
つまるところ思いっ切り引きずってる訳だが、うまく言った。傷が深い人間には使えないのが難点だが、小さな切り傷であるならば問題はあるまい。
が、さすがにこれだけのことをして気付かれないはずもなく、信乃から距離を取った妖魔が、こちらを向いた。
べろりと舌舐めずりをする妖魔に肝が冷える。
「ハハハ、俺そんなに美味しくないぜ?」
勿論嘘である。自分の肉が妖魔の舌に合ったものであるということは、この短い人生でも嫌という程理解していた。
標的を信乃から千草に切り替えた妖魔は千草に肉薄し、鎌を振り下ろす――。
次の瞬間、聞こえてきたのは鎌が肉を裂く音では無かった。
金属同士の衝突音。
言うまでも無く、信乃が千草を守ったのだ。
「なんでこんなとこにいるのよ!」
「一人より二人の方がいいだろ。俺はこの人を外まで連れ出す。信乃は妖魔を倒す。どうだちゃんとした役割分担だろ?」
人命最優先。
信乃の対魔師としての方針は、千草もばっちり理解していた。
「……分かった。その人をお願い! 千草もちゃんと避難するのよ。いいわね!」
「ああ、善処する」
「了解しなさいよ!?」
嫌なこった。
少女を肩にかついで、出口を目指す。
同年代の人間の体重というのはかなり重く感じる。ましてや意識を手放して完全に力を抜いている状態であるから尚更だ。
そのせいか、出口までの距離がかなり遠く感じる――
「……!?」
ふと、千草は殺気を感じた。
反射的に少女を肩から降ろして――と言うより落として、振り向く。
その瞬間、千草の右腕は宙を舞っていた。
「が、ああああああ!」
痛みに思わず叫ぶ。
帯びた正しい血が、客室にまき散らされた。
「千草!」
信乃の悲鳴に叫び返す。
「気にすんな! 目の前の敵に集中してくれ!」
「でも……!」
「俺は不死身だっつってんだろ! 他人の心配より自分の事考えろ!」
千草の前に現れたのは、信乃と戦っている物と寸分違わず同じ造形の妖魔だった。
その鎌は千草の血で濡れている。
まさかもう一体妖魔がいたとは。予想外の事態に舌打ちした。
「クソッ錆びた刃物のくせに切れ味抜群とか反則だろうが……!」
信乃がもう一体の妖魔の相手をしている以上、この個体は千草が引き受けるしかない。
「1回死ななきゃ無理そうだな……」
そう呟き地面を蹴る――その瞬間、千草の肉体は上半身と下半身に分断されていた。
切り飛ばされたせいか、周囲の状況がよく見える。
蒼白になる信乃。
倒れ伏している少女。
勝利を確信したように笑う妖魔――
「勝った――って顔してるな、あんた」
戦いでは様々な勝利条件がある。
そしてこの場での条件は最もシンプルなもの――相手の命を奪う。
腕を切断され、上半身と下半身を真っ二つにされた人間の生存は絶望的である。
普通の人間であったならばここで死ぬ。
だが千草は普通ではない。
自己申告通り――彼は不死身である。
故に妖魔は、勝利には永遠に届かない――!
千草は残った右腕に巻かれた命我翔音で妖魔を拘束した。
突然の事態に、妖魔は対応が遅れる。
傷口に蒼い炎が灯り、一瞬で切断された腕が再生される。
再生したのは腕だけでは無く、巻かれていた命我翔音も元に戻っていた。
肉体及び肉体に不随する物全てを再生する圧倒的な再生能力――これぞ正に、千ヶ崎千草の真骨頂。
左腕の命我翔音に、千草は霊力を集中させる。下半身の修復は後回しだ。
この一撃に、全てを注ぎ込む――!
千草の心に呼応するかの如く、命我翔音が蒼い炎を灯し、拳全体に広がっていく。
「あれは……!」
信乃が目を見開く。
妖魔はもがくが、鎌を振るえないこの状況では不可能だ。
命我翔音の元の長さに戻る特性を活かし、千草は一気に肉薄した。
下半身がない分、その速度は五体満足の状態より上だ。
これで、決める。
「チェスト――バスタァァァァァ!」
渾身の一撃を、妖魔の胴体に叩き込む。
瞬間、命我翔音の術式が発動。
命我翔音の特性は2つ。
使用者の意志に従って自在に長さを変えられる。この特性はこの対魔符の材料として特殊な蜘蛛の糸が一部使われていることに由来する。
そしてもう一つ――この対魔符に刻まれた術式に霊力を流し込むことで衝撃波を発生させる。
そして衝撃波の威力は、注がれた霊力の量に比例する――!
『――――!』
千草渾身の一撃は、胴を起点に妖魔を粉々に吹き飛ばした。
これぞ千草の切り札、チェストバスター(夜見命名)。
極限まで霊力を注いだ命我翔音の一撃を相手の胴に衝突させることで、致命的なダメージを与える。
他の対魔師にひけを取らない威力がある――が、
「いってえええええええ! そして熱ううううううううううううう!」
――難点としては、使用した命我翔音が燃え尽きてしまうことと、命我翔音の衝撃波を千草自身もくらってしまうことだろう。
おかげで拳は砕けズタズタになり、霊力の炎で火傷をするハメになる。
慌てて腕を振って火を消した。
こうしないと修復が始まらないのである。
炎が消えてしばらくすると、切断された胴体にも火が灯り、瞬く間に修復されていく。
勿論パンツもズボンも一緒であった。




