過去と今と
5年前の8月13日。
四宮信乃にとって、人生のターニングポイントである日だった。
その日は、屋敷から少し離れた森の中で千草と遊んでいた。
何で遊んでいたのかは覚えていない。
鬼ごっこだったか、隠れんぼだったか、はたまたゲーム機を持ち出して遊んでいたか……とんと思い出せないが、記憶の中の自分が笑っていたことを考えれば、とにかく楽しいことをしていたのだろう。
そして、二人は妖魔に襲われた。
この森は四宮の所有物であるため、妖魔除けの結界が張られていた筈だ。
だがそれを嘲笑うように、妖魔は千草を襲った。
千草は生まれつき、妖魔を引き寄せる体質だった。
故に両親を殺された少年は、四宮の家に保護されたのだ。
3メートルはある二足歩行の蜥蜴のような妖魔に千草は捕まり、持ち上げられていた。
妖魔の腕に力が入り、千草が血を吐く。
「千草――!」
信乃の声に、千草は叫んだ。
「信乃、逃げろ……!」
妖魔に殺されかけた状況でも、千草は助けを求めなかった。
だが、信乃はそんなことはできなかった。
大人達を呼んでくれば、妖魔を殺すことはできるが、千草は多分間に合わない。
「今、助ける……!」
手の甲を噛み、滲んだ血から小刀を形成する。
血を媒介に刃を作り出す対魔術。だが当時の信乃ではこれが限界だった。
「うああああああああああああああああ!」
妖魔がこちらに注意を引くように叫びながら突貫した。
だが妖魔はこちらに振り向くことなく、尾で信乃を弾いた。
吹き飛ばされた信乃は、木に衝突した。
「まだ、だ……!」
立ち上がろうとするが――崩れ落ちる。
「なん、で……?」
鉄の味が込み上げ、口から吐き出される。
振り返ると、信乃が打つかった場所には、折れて鋭利になった枝があった。
そしてその枝は、血で濡れている。
「だから、どうした」
信乃は四宮の人間だ。これくらいのダメージで死にはしない。
だが、千草は普通の人間だ。このままでは死んでしまう。
霞んでゆく視界の中で妖魔が、がぱりと大顎を開いた。
「あ……」
――千草が食べられる。
――助けなきゃ。
――もう遊べないなんて――そんなの嫌だ。
ふつふつと、信乃の中で湧き上がっていく感情。
だがそれが徐々に変質していくのを、信乃は自覚できなかった。
――誰の許しを得て千草に触れている?
――誰の許しを得て千草を食う?
――許したつもりは毛頭無い。
遊ぶのも、殺すのも、壊すのも――誰にも許さない。
「千草は――僕《、》のものだ」
ゆらりと立ち上がった信乃は、自分が自分でないような心地で、それを口にしていた。
「――陰陽反転」
そして、全てが変わり――終わった。
鎧の鬼と化した信乃は、一瞬で妖魔を屠った。
そう、ここまでならば良かった。
だが信乃は理解していなかった。
鬼の力を解放する代償を。
人の心のまま鬼の力を得る――なんて、そんな都合の良い話が転がっているはずもない。
未熟な信乃の精神は、一瞬で鬼のそれに染まった。
そんな信乃が、千草を目の前にして何もしないなんてことがあり得るだろうか?
実際、そんなことはなく――千草は死んだ。
衝動のままに、信乃が殺した。
血の臭いが鼻腔をくすぐる度に、気分が高揚した。
即死はさせない。どんな風にバラバラにすればお楽しみを長引かせるかは心得ていた。
突然の出来事に恐怖し、泣き叫んでいた千草が動かなくなったのは、梓が駆け付けたのと同じタイミングだった。
「……まったく、やってくれたもんだ。魂が抜けてないだけまだマシか……!」
梓は小さく舌打ちすると、千草の体に小さな釘を打ち込んだ。
信乃は梓にも襲いかかったが――一瞬で完封され、強制的に人間に戻された。
ある意味、ここからが信乃にとっての地獄だった。
人間としての人格と鬼としての人格は地続きだ。
二重人格ではないため、記憶もまた連続している。
人間に戻っても、信乃は自分の所業を鮮明に覚えていた。
千草の悲鳴も、肉の感触も、おぞましい所業を嬉々としてやったことも、全て。
慟哭する信乃を、梓は責めなかった。
ズタズタになった千草を見下ろし、ブツブツと呟いている。
「肉体の修復は不可能……一応魂は固定できてるけどそれも長続きはしない。依り代がいる……この場で使えそうなものは……あ」
思い出したかのように、梓は自分の腰に差してある村雨に視線を落とした。
「灯台下暗しってコトね。まあ、背に腹はなんとやらか」
梓は、信乃方を向いた。
今度こそ怒られる――と思ったが、梓はいたずらっ子のような表情をしていた。
「ねえ信乃。ここから先のこと、みんなには内緒にできる?」
「え……?」
「バレちゃうと、お母さんちょーっとマズいことになっちゃうから。下手すりゃ首切られるかも」
わははと言うが全然笑い事じゃ無い。
だが、梓の目に躊躇いは無かった。
「千草を、生き返らせることができるの……?」
「これしか方法はない……けどね信乃。もう千草はこの家にはいられない。村雨に千草の魂を宿すってことは、実質村雨が四宮家からなくなるってことだから。バレたらとんでもないことになるわ」
千草が生き返る――その事実は信乃に深い安堵をもたらした反面、もう一緒には暮らせない。
だが、当然だ。
こんな化物を、千草の側に置いておくわけにはいかない。
何より醜悪なのは、これだけのことをしておきながら、心の奥底では今でも千草を求めている。
そして信乃はそれを自覚してしまった。
もう、前のようには戻れない。
「千草はお母さんの友達の家に引き取って貰うわ。あいつのことだしなんとかしてくれるでしょ」
梓の言葉を聞きながら、信乃は一つ決心をした。
――強くなる。
妖魔としてではない。
人として、強くなる。
鬼としての自分を完全に制御し、人間を守る。
鬼としての自分を、否定してやる。
その日から、信乃は異常なまでの鍛錬を行うようになった。
つきっきりになって休憩しろだの水分補給をしろだの口を出すお節介者はもういない。
鬼と化していた自分を思い出させるものだったから。
徹底的に自分を追い詰め、痛めつけた。
母の葬儀の日も、鍛錬を続けた。
自分が葬儀に出る資格なんてないと思ったから。
もしも村雨があれば――もしも自分があんなことをしなければ――梓は死ななかったのではないか。
そんな仮定が、常に心の奥底で燻っていた。
任務にも積極的に志願した。
普通の人間であれば逆効果になりかねない無茶な訓練と、対魔師でも音を上げるオーバーワークを繰り返したが、それでも信乃は壊れなかった。
それが鬼の血の恩恵であることに不快感はあったが、だったらそれを利用してやるまでと考え、刀を振るい続けた。
――もう二度と、間違えないように。
だが鬼の本能は、信乃の足掻きを嘲笑った。
人としての信乃と鬼としての信乃。
この二つは繋がっている。一方が強くなればまた一方も強くなる。
地続きの存在であるが故に、その影響は大きい。
信乃は鬼の本能を甘く見ていたわけではない。
彼女の意思は確かに鬼の本能を押さえ込んでいた。
彼女の鬼の籠手がいい証拠だ。
あの力は鬼の力の一部を具現化させたものだ。
力を百分の一にも満たないが、対魔師として戦うには充分だった。
だがそれ以上使えば――制御は極めて困難である。
結果、再び信乃は鬼の本能に支配されることとなり、千草を襲った。
だが奇しくも5年前の再現にはならなかった。
理由は単純。
千ヶ崎千草もまた、戦うための力を得ていたのだ。