食あたり注意
『――』
妖魔は無数の腕で腹を満足そうに撫でた。
この妖魔にとって、人の発する恐怖の感情は特別なスパイスとなる。
人を好んで喰らう妖魔は、人に恐怖心を植え付けてから捕食する場合が多いが、今回もその例に漏れなかった。
しかも今回喰らった人間はなんとも言えない味わいだった。格別、とも言っていい。
何人もの人間を喰らってきたが、これほど美味だった個体はない。
人間の中には妖魔にとって激しく美味と感じる個体がいるが、今回の人間はそれだったのだ。
縄張りに接近した時点で、とんでもないご馳走がやってきてくれたものだと歓喜したものだ。
いつものように追い詰めて喰らってみれば、想定を裏切らないどころか超えてくる味だったが――ふと、疑問が頭をもたげる。
いつもよりスパイスの効きが甘い――恐怖心が足りなかったのだ。
少しがっつきすぎたのかも知れない。
もう少し根気よく、丁寧に恐怖心を植え付けていれば、さらにワンランク上の美味を味わうことが出来たかも知れないのに――
『――!?』
――瞬間、身体の内部から凄まじい激痛が走った。
次々と襲いかかる衝撃。
腹から胸部にかけて、次々と隆起していく。
何だ。
何なのだこれは。
訳が分からない。
確かなのは――このままだと己は確実に死ぬということ。
しかし対処法が分からない。
感情が黒く染まる。
恐怖が全身を浸していく。
恐怖が極限まで高まった瞬間、
「チェスト――バスタァァァァァァ!」
咆哮と共に胸部を突き破って出てきたのは、先程捕食したはずの人間だった。
呪符と覚しき物を包帯のように巻いた右腕には、蒼炎が燃えている。
何故――
喰らったはずの人間が五体満足で生きているのか。
あの炎は一体何なのか。
いやそれよりも、何故自分は死ななくてはならないのか。
疑問と恐怖に纏わり付かれながら、妖魔の意識は闇へと沈んでいった。
致命傷を受け、死んだ妖魔が灰と化して消滅するのを見ながら着地した千草は、燃える己の拳を見下ろし――
「――あっつ!」
慌てて手をぶんぶんと振り、消火した。
半ば炭化していた腕は、消火と同時に元の色と機能を取り戻してゆく。
貫かれたはずの胸とその巻き添えを食らった服も、何事も無かったように元に戻っている。
最初から何も無かったかのようだが、それを否定するように千草は舌打ちした。
「ああクソッ、一回死んだじゃねえか……!」
それから見落としが無いように建物を一回りして、妖魔の気配を探ったが、収穫は無かったので其のまま建物を後にした。
ご丁寧に今までずっといましたよと言わんばかりに、最初と同じ場所に駐車しているハスラーの助手席に乗り込み、夜見に今回の顛末を全て報告した。
御年三十二歳の彼女は、何も知らない人間が一目見れば思わず振り向くような美貌の持ち主だ。
そんな人間の助手であり一つ屋根の下で暮らしている千草の境遇を羨ましいと思う人間は少なくない。
だが千草はこう言う――やめとけ、と。
顔は美しい人は心まで美しいなんて妄言がまことしやかに囁かれているが、千草はまるで信用していない。
なにせその反例と常に一緒に生活しているのだから。
対魔師としての腕は良い。ここまではいいのだ。
問題は彼女の傍若無人すぎる性格にある。
金にがめつく、依頼料を限界まで吊り上げるのは序の口。
今回みたいに助手を死地にほっぽりだして放置するわ、約束も平気で破るわ(もしくは忘れる)、妖魔に人質にされた助手ごと撃つわと、問題点を挙げたらキリが無い。
以前、それを腹に据えかねた千草が、
「そんなんだから結婚できないんだよ!」
と言ったら。
「知ってるか千草。例え年下だろうがセクハラは成立するんだぞ」
と返されグーで殴られた。千草の認識だとそれは純粋なパワハラ若しくは家庭内暴力に該当するのだが、これは問題無いと言わんばかりである。
傍若無人と画像検索をかければ、彼女の顔写真が表示されてもおかしくないレベルである。
世の中がホワイト社会へと向かう中で、その流れに逆行する人間が彼女なのだ。そこは大人しく流されとけよ。
とまあそんな社会の反逆者は、運転席で呑気にクリスピーチキンを食べながら、千草の報告を聞き、満足そうに頷いた。
「――ふむ。これで依頼は達成だな。よくやった、千草」
「師匠が来てくれりゃ、もっと楽に倒せたんですけどね」
皮肉交じりに言うが、夜見には通じない。
「文句言うな。ピザまん買ってきてやっただろ」
「タイミングをもう少し考えてくださいよ。助手が食われかけてる時にやる行動じゃないでしょ」
敷き紙をはがしてピザまんに齧りつく。
チーズのコクとケチャップの酸味が疲れた身体に染み渡る。
この温かさも、十二月の寒い夜には最高の調味料だ。
妖魔に食われた際に胃液やら体液まみれになって最悪の気分だったが、それらも妖魔の消滅と同時に消えたし、ピザまんにありつけたので結果オーライということにしておこう。
まあ妖魔に食われるなんて体験二度とゴメンだが。
「確かにあの程度の敵に手こずる私ではない。だが、それではおまえは育たん。寛大な親心というものだ」
誰が親だ、とは言わない。
夜見と千草は年齢が倍離れているが、親子関係どころか血縁関係もない赤の他人だ。
両親を失い、引き取ってくれた幼馴染の家からも居場所を失った千草に今の居場所を与えたのは、他ならぬ夜見だ。
生活費や学費、その他諸々の面倒は全て彼女が見ているので、そこら辺は感謝していなくもないが――が、やはりムカつくものはムカつくのである。
「……で、本音は?」
「弾丸が惜しい。一発使うか助手が食われるか……どちらを選ぶかなんて考えるまでもないだろ」
「フツーは助手選ぶんだよそこは」
「弾丸は撃ったら帰ってこない。だが千草、おまえは食われても戻ってくるだろ? 私の助言も役に立ったようだしな」
「そりゃまあ、そうですけど」
千草は不死身だ。
例え妖魔に食われようが、対物ライフルで上半身を吹き飛ばされようが、硫酸のプールに三日三晩漬けられようが、受けたダメージはすぐに回復する。
さらに生まれつき妖魔に狙われやすい体質ということもあり、その反動か妖魔の気配にも敏感になった――なってしまった。
お陰様で一般人として生活することが難しく、戦える技術を覚えるために対魔師の助手をしている訳である。
幸いその不死性と妖魔の気配に敏感という事もあり、斥候の仕事は得意にはなったが、戦闘技術はやはり師匠には及ばない。実力は確かに上がっている手応えはあるが。
夜見は戦い方も教えてくれるし、そこまで的外れなことは言っていない。
実際あの妖魔は外殻は厄介だったが、内部から対魔術を叩き込めばあっさりと倒すことができた。
だが不満なのは、その仕事の報酬は全て夜見の懐に入ることになる。
特段お金にがめついわけではない千草だが、労働に見合った正当な報酬は欲しい。
特に今回は妖魔を助言をもらったとは言え単独で撃破したのだ。
それくらいのボーナスを請求したってバチは当たるまい。
んんっと咳払いして千草は言う。
「師匠――」
「小遣いの増額なら聞かんぞ」
一発で撃沈した。
「高校生が月三千円って少なすぎるんですよ。もう二千円……いや千円だけでも上乗せしてくれたっていいじゃないですか」
中学の時は二千円だったので、これでも値上げしたのだが、それでも少ないように思う。高校生は色々物入りなのだ。
「限られた予算の中でやりくりすることを覚えろ。その歳で豪遊する経験をするとロクなことにならん」
こう言うときだけ保護者っぽいことを言うのだから釈然としない。
夜見はこれで話は終わりと言わんばかりに、ハスラーを発進させた。
暫くの間会話は無かったが、千草がピザまんを全てたいらげたのと同じタイミングで、夜見が口を開いた。
「そう言えばおまえ、クリスマスは暇だよな」
「……」
思いっ切りナメた発言であった。
疑問符すら付けていない。
「生憎と、その日は色々と予定が詰まってましてね……」
「暇だろ。おまえをデートに誘おうとする異性なぞ想像が付かん。おまえも誘うような甲斐性があるとも思えん」
テメッ、言っちゃならんことを! と怒鳴りそうになるのを千草はぐっと堪えた。
ここで感情を露わにするのは自らの醜態をさらすだけである。
「……あーはいはいそうですよ。こちとら年齢イコール彼女いないを地で行く男ですよ。だからと言ってクリスマスに予定が無い訳じゃないんです。ダチと一緒に騒ぐって言う一大イベントがあるんですよ」
世の中恋愛だけが全てじゃない。気が置けない友人達とバカ騒ぎするというのもオツなものだ。恋より友情のクリスマスである。
「ほお、そうか。それは何よりだ。だったらクリスマスクルーズは私一人で行くとしよう」
「……今なんて?」
「クリスマスクルーズだ。二十三日から二十六日までの三泊四日を豪華客船ゴールデンユニバース号の中で過ごすという何ともゼータクなものでな。食事も中々のものらしい。ここに二枚分のチケットがあるんだが……おまえが忙しいというのなら是非もない。私一人で楽しんでくるとしよう」
「前言撤回滅茶苦茶暇です」
「おい友情はどうした」
「世の中には友情を後回しにしなくちゃならんこともあるのですよ!」
恋や友情より豪華客船のクリスマスである。
二十四日まで学校はあるが、そんなの知った事ではない。なんか上手いこと言って休めばいいのだ。
豪華客船だろうがそうじゃなかろうが、クリスマスの時期に旅行というのはなんとも非日常感溢れるものでテンションを上げるなという方が無理がある。
まだ一週間以上先のことであるというのに、そわそわしてきた。
「ああそうだ。装備を忘れるなよ。特に対魔符は絶対だ」
「はいはい分かってますよ」
千草は浮かれていた。故に、ついでとばかりに発された夜見の言葉をロクに考えずに応じてしまったのだ。
かくして、千ヶ崎千草は巻きこまれる……というか、その惨劇の中に嬉々として突っ込んでいくこととなる。
後の彼の言葉を借りるのならば――史上最悪のクリスマスに。