チキンorチキン?
人生腹八分目という言葉を最初に言い始めたのはどこの御仁かは知らないが、なるほど確かにそうかもしれない。
高校生、千ヶ崎千草はふとそう思った。
自分の身の丈に合わないことをするとロクな事がないし、全力で十のことができるからと言って、それをこなすとこれまたどんどん面倒なことが舞い込んでくる。
自分的には「全力でなんとか十のことができる人間」だと思っていようが、ハタから見れば自分は「十のことが出来る人」になるのだ。
そして最後には結局身の丈ギリギリ――どころか僅かにオーバーした貧乏クジを引く、と言う寸法である。
だったら、まあこれくらいならゆとりがあるな、くらいの力加減でこなしていけばいい。それを超えるような状況には踏み込まない方が吉である。
――とは言え、そんな腹八分目論法を座右の銘にするほど、千草は悟った人間ではない。
むしろガキっぽいとよく言われる。
非常に心外ではあるが、じじくさいと言われているよりはマシということにしておく。
何故そんな言葉が頭に浮かんだのか。
それは現在地草が置かれている状況にあった。
腹八分目がベストと言うのであれば、千草の状況は――
「ざけんな……腹十五分目くらいあるぞ畜生……!」
――いきなり限界突破を迎えていた。
場所は街中にぽつんと放置された商業施設の残骸。
かつてはチェーン系列の中型ショッピングセンターとして多くの人で賑わっていたが、三年前にその長い歴史に幕を下ろした。
それ以降特に新しい買い手が見つかるわけも無く、かと言って取り壊されることもなく、そのまま朽ちていくのを待つばかりという、地方都市では割とよく見るようになった光景の一つでる。
ここまでは良かった。
だが、この閉店は終わりではなく始まりに過ぎなかった。
閉店から数年後、住み着いた者がいた。
それも人間ではない。
動物でもない。
それどころか生物と数えて良いのかすら悩ましい異形の存在――遙かな昔から、彼らは妖魔と言われていた。
そのことが発覚したのは一ヶ月前。この廃墟を取り壊して新しい商業施設を作ろうと話が持ち上がった。
その際、解体を行う前に事前調査に向かった調査員四名が行方不明になった。
通報を受け、警官二名も同様に行方をくらました。
短期間に六名の行方不明者が出たのである。
その結果巡り巡って千草のような妖魔退治の専門家――対魔師に依頼が舞い込むことになる。
妖魔を殺し報酬を得る――言ってしまえば害虫駆除業者の妖魔版と考えれば分かりやすいだろうか。
無論妖魔の存在は世間には公開されておらず、様々な場所に配置されている妖魔対策委員会の人間が妖魔事件と覚しき怪現象を得ると、それを委員会に報告。委員会は対魔師の中から選定し、依頼を行うというシステムである。
そして現在、千草は猛ダッシュで階段を駆け上がっていた。
「何なんだよ……何階あるんだよここは……!」
妖魔の気配を感じ取り、階段に向かったまでは良かった。
少しばかり上ったその時、背後の踊り場から妖魔が出現し襲いかかってきたのである。
故に千草は、息を切らしながら無様な逃走を続けていたのであった。
もうかれこれ五分以上は上り続けている。
妙だ。
この建物は四階である。千草の脚力で上ればとっくに屋上に到達してもおかしくない。
だが壁に書かれた階を現す数字は、文字化けしたような不気味な表示が繰り返されるばかり。
無限に続く階段を上らされている――現在の千草の状況を端的に現せばこんなところだ。
では下りれば良いかと言われればそう都合の良い話はないもので、下からは妖魔が無数の腕を蠢かせながら追いかけているのである。
ミミズのような質感だが、全長はそこまで長いわけではない。体に付いた二つの目は、獲物である千草を捕らえて放さない。
「これがコイツの狩りってことか……!?」
空間の変質――妖魔の特性の一つ。
特にこの階段のような半ば閉鎖空間のような場所はうってつけだ。
変質によって生み出されるのは無限に等しい階段。
まるでキリが無い。だが脚を止めたときは千草が死ぬときだ。
恐らく行方不明者達も、千草と同じようにして妖魔に襲われたのだろう。階段の途中途中で付着していた赤黒いシミを思い出す。
妖魔に襲われ行方不明になったという事は、それ則ち死と同義。血痕が残っているだけまだマシとすら言える。もっとも、犠牲者やその家族友人にとってはそんなものは何の慰めにもならないだろうが。
その血痕すらも、今は見なくなって久しい。
ここまで逃げ延びた人間は千草以外いなかった、ということか。
「嬉しくない新記録だぜ、まったく!」
ジワジワ相手を追い詰め捕食する……なんとも陰湿で典型的な妖魔だ。
千草とて対魔師だ――厳密には正規登録してない見習いだが――妖魔と戦うという選択肢もあったが、それは早々に諦めた。
千草は左耳に装着していた通信機のスイッチを入れる。
妖魔の結界の中でも外部に繋がる優れものだ。
「師匠。こちら、千草。応答願います!」
『なんだ千草か、どうした?』
通信機から聞こえてくるのは、気だるげな女性の声。
「現在妖魔と遭遇。撤退戦の真っ最中です!」
『それは脇目も振らず逃げてるってことだろ』
少しカッコ付けてみたが、師匠――与田切夜見にはあっさりと見破られていた。
『まあいい。敵の特徴は?』
千草はこれまでに得た情報を一息に告げた。
『――なるほどな。標的を結界に引き釣り込んで狩るタイプか。しかも一方通行からの攻撃。なるほど随分良い趣味をしている……ん? あぁ、あとピザまんを頼む』
「オイ待てあんた今どこにいるんだ!?」
後半聞き捨てならないノイズがあった。明らかに千草に向けられた言葉ではない。
『何を言ってる。現場の目の前だ。千草、お前は自分の師を疑うのか?』
そう言った矢先に特徴的な入店音と共に「いらっしゃーせー」と店員の声が聞こえてきた。
「思いっ切りファミマじゃねーか!」
嗚呼何ということか。
夜見は弟子を斥候として死地に放り出し、自分はのうのうと近くのコンビニでお買い物中だったのである。
「テメッ、ふざけんなよ。こっちが死にそうになってんのに呑気にショッピングか!? ファミチキ買ってる場合じゃねーだろ!」
「莫迦者。私はファミチキよりクリスピーチキン派だ」
知るかそんなもん。
「どっちでも良いから早く来て下さいよ! 師匠なら一発で倒せるでしょ!?」
元より千草は助手であり、見習いの身だ。妖魔を退治するのは師匠である夜見の役目である。
『嫌だ』
「は?」
『おまえが倒せ。死ぬ気でやればなんとかなるだろ』
危うく脚がもつれてずっこけるところであった。
「無理ですって! あいつの外殻と俺じゃ相性最悪なんですよ!」
半人前どころか夜見には四分の一人前と言われている千草が、妖魔が倒せない訳では無い。
相性によっては単独撃破の経験もそれなりにはある。
が、今回に限っては相性が最悪だった。
現在戦っている妖魔は、全身を硬いだけでなく弾力性まである外殻で覆っており、衝撃を吸収してしまうのだ。
徒手空拳をメインとする千草とは、壊滅的に相性が悪いのである。
だからこそ千草は逃走という選択肢を取らざるを得なくなったのだ。
しかし夜見は淡々と繰り返した。
『言っただろ――死ぬ気で倒せ。外殻にリソースを割り振ってるヤツはそれ以外がショボいと相場が決まってるからな。それにいざというときは――』
「助けてくれるんですね!?」
『――仇は取ってやる』
「少しでもあんたに期待した俺がバカだったよ――あ」
階段の突起に、脚をつまずかせた。
身体が傾き、スピードが落ちる。
無論妖魔はそれを見逃さない。
弾丸の如き勢いで舌を突き出し、千草の胴体を貫いた。
痛みを認識する暇すら無く、千草は吐血しながら妖魔の口の中へと吸い込まれていった――