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幻想ショートストーリー・短編集

昭和京都怪異譚 蝉しぐれの檻

作者: 霧崎薫

 蝉の声が耳を刺すような暑さの中、鷹見千鶴は古びた屏風に向かって佇んでいた。昭和32年の京都、先代から受け継いだ古美術商「鷹見堂」の二階座敷。障子越しに差し込む陽光が、屏風に描かれた風景を淡く照らしている。


 千鶴は息を潜めるようにして、右手を屏風に近づけた。掌が屏風の表面から数センチのところで止まる。そこから先へは進めない。まるで目に見えない障壁があるかのようだった。


「やっぱり……」


 千鶴は小さくつぶやいた。彼女にはわかっていた。この屏風には尋常ではない「気」が宿っているということが。


 千鶴には物に宿る「気」を感じ取る力があった。祖父から受け継いだその能力は、彼女の人生を大きく左右してきた。「気」を感じることができる千鶴は幼い頃から周囲から「気味が悪い」と言われ、友達もできず、今では町内でも「鷹見の変わり者」と噂される存在になっていた。


 階下から、来客の話し声が聞こえてきた。


「この屏風、どこで手に入れたんですかな?」


 丸々とした中年男性の声だった。


「ええ、先日、ある旧家の蔵の整理をしておりましてね。そこで見つけたんですよ」


 父・鷹見勝の声が答える。


「なるほど……。珍しい品ですなあ。こういった種の風景画の屏風は、あまり見たことがない」


「ええ、私もびっくりしましてね。ただ、作者も制作年代もはっきりしないんです。それで値段もつけかねているんですが……」


 千鶴は耳をそばだてた。この屏風のことを、父は彼女に一切相談していなかった。


「ふむ……。ところで、この風景、どこかわかりますか?」


「いえ、それが……」


 父の言葉が途切れた瞬間、千鶴は階段を駆け下りていた。


「わかります!」


 千鶴は息を切らしながら、応接間に飛び込んだ。


「千鶴! なんだ、お前……」


 父が驚いた顔で千鶴を見る。お客の中年男性も目を丸くしていた。


「私、この風景がどこか、わかります」


 千鶴は息を整えながら言った。


「本当かい?」


 父が半信半疑の表情を浮かべる。


「ええ。これは……京都の北、鞍馬山の麓にある集落です。でも、今はもうありません」


 千鶴の言葉に、父と客の男性が顔を見合わせた。


「おや、それは興味深い。ご令嬢、詳しく聞かせてもらえないかな?」


 男性が千鶴に促す。その目には好奇心の光が宿っていた。


 千鶴は一瞬躊躇したが、意を決して話し始めた。


「この屏風に描かれているのは、約百年前の風景です。鞍馬山の麓に『蝉ヶ谷』という小さな集落がありました。でも今はもう……」


 千鶴の言葉が途切れる。


「今はもう?」


 男性が身を乗り出すようにして聞いてきた。


「……廃村になっています。大正の初め、村中の人間が一夜にして姿を消したそうです」


 部屋に重苦しい沈黙が流れた。


「ほう……なるほど。それで、ご令嬢はどうやってそんなことを?」


 男性の口調に、わずかな警戒心が混じっていた。


 千鶴は言葉に詰まった。自分の能力のことを話すべきか迷う。そんな彼女の様子を見て、父が助け舟を出した。


「この娘は、昔の物事に詳しくてねえ。古いものが好きで、よく調べているんですよ」


 父はそう言って、ぎこちない笑みを浮かべた。


 千鶴は小さくため息をついた。いつもこうだった。自分の能力のことは、決して人には言わない。それが、鷹見家の暗黙のルールだった。


「そうですか。なんにせよ、大変興味深い話を聞かせていただきました」


 男性は立ち上がると、名刺を差し出した。


「私は、美術評論家の宇佐美といいます。この屏風、もう少し調べさせてもらいたいのですが、いったんお預かりしてもよろしいでしょうか?」


 父は一瞬迷った様子を見せたが、すぐに笑顔を取り戻した。


「ええ、構いませんよ。ただし……」


 父は千鶴の方をちらりと見た。


「一週間ほどお預けします。それ以上は難しいので」


「わかりました。ではそういうことで」


 宇佐美は丁寧にお辞儀をすると、屏風を大事そうに抱えて店を後にした。


 客が去った後、父は千鶴に向き直った。


「千鶴、あんな突然割り込んできて……。お客様に失礼だぞ」


「でも、あの屏風のこと、私に黙っていたじゃない」


 千鶴は抗議するように言った。


「それは……」


 父は言葉を濁す。


「父さん、あの屏風には只ならぬ『気』が宿っているわ。これは、ただの骨董品じゃない」


「またそんな話か」


 父は疲れたような表情を浮かべた。


「聞いてよ、父さん。あの屏風、絶対に……」


 その時、店の入り口の鈴が鳴った。新しい客の来訪を告げる音だった。


「こんにちは」


 艶のある女性の声が響く。


「いらっしゃいませ」


 父が応対に向かう。千鶴は言葉を飲み込んだ。


 店に入ってきたのは、三十代半ばくらいの女性だった。華やかな着物姿で、凛とした雰囲気を漂わせている。


「こちらで、古い屏風を扱っていると聞いたのですが」


 女性の目が、千鶴の方をちらりと見た。


「はい、扱っております。何かお探しですか?」


 父が愛想良く答える。


「ええ。実は、ある屏風を探しているんです。風景画が描かれた、珍しいものなのですが……」


 千鶴は息を呑んだ。それはもしかして今し方、宇佐美が持ち去ったばかりの屏風のことだろうか。


「申し訳ありません。そのような屏風は、たった今別のお客様にお預けしたところで……」


 父の言葉に、女性の表情が一瞬曇った。


「そうですか……。大変残念です」


 女性は深々とため息をついた。その姿に、どこか切実なものを感じ取った千鶴は、思わず口を開いた。


「あの、その屏風のことなら、私がいろいろ知っています」


「千鶴!」


 父が制止するように声を上げたが、女性の目が輝いた。


「本当ですか? 詳しく教えていただけませんか?」


 女性は千鶴に近寄ってきた。その瞬間、千鶴は女性から発せられる強い「気」に息を呑んだ。それは屏風から感じたものと同質の、不思議な力だった。


「あの、あなたは……」


 千鶴が尋ねかけると、女性は微笑んだ。


「失礼しました。私は鷹栖静香と申します。その屏風のことを、どうしても知りたいのです」


 静香の瞳には、決意のようなものが宿っていた。千鶴は直感した。この女性との出会いが、何かの始まりを告げているのだと。


「わかりました。お話しします」


 千鶴はそう言って、静香を座敷へと案内した。父は困惑した表情を浮かべたが、二人を止めることはしなかった。


 座敷に通された静香は、丁寧に正座をした。その仕草には、どこか古風な品格が感じられた。


「お聞かせください。その屏風のことを」


 静香の声には、わずかに震えが混じっていた。


 千鶴は深く息を吸い、話し始めた。


「その屏風には、百年以上前の風景が描かれています。鞍馬山の麓にあった『蝉ヶ谷』という集落です」


 静香の瞳が大きく開かれた。


「やはり……」


 その言葉に、千鶴は首を傾げた。


「ご存じだったんですか?」


「いいえ、ただ……予感はしていたのです」


 静香は言葉を選ぶように、ゆっくりと話した。


「私の曾祖母が、その集落の出身だったのです。でも、家族の誰もその場所のことを知りませんでした。ただ、曾祖母が最期に『蝉の声が聞こえる』と言い残したことだけが、手がかりでした」


 千鶴は静香の言葉に、背筋に冷たいものが走るのを感じた。


「その集落は、大正の初めに一夜にして消えたそうです。村人全員が、忽然と姿を消したと……」


 静香の顔が蒼白になった。


「そんな……。でも、なぜそんなことが?」


「わかりません。ただ……」


 千鶴は言葉を濁した。屏風から感じた異様な「気」のことを話すべきか迷う。


「ただ?」


 静香が身を乗り出すようにして聞いてきた。その目には、真実を求める強い意志が宿っていた。


 千鶴は意を決した。


「私には、物に宿る『気』を感じる力があるんです。その屏風からは、尋常ではない『気』を感じました。まるで……」


「まるで?」


「まるで、誰かの強い思いが封じ込められているかのようでした」


 静香の表情が凍りついた。


「封じ込められた思い……」


 静香は呟くように繰り返した。


「鷹栖さん、その屏風に何か心当たりが?」


 千鶴が問いかけると、静香は深くため息をついた。


「実は、私の家に伝わる言い伝えがあるんです。『蝉の声が聞こえたら、決して振り返ってはならない』というものです」


「蝉の声?」


「ええ。曾祖母は亡くなる直前まで、その言葉を繰り返していたそうです。私はずっと、その意味を知りたいと思っていました」


 静香の瞳に、悲しみの色が浮かんだ。


「その屏風には、きっと私の家族の秘密が隠されているんです。どうか、協力してくださいませんか」


 静香は千鶴の手を取った。その手は冷たく、わずかに震えていた。


 千鶴は迷った。父の言いつけを破ることになる。しかし、静香の切実な思いが胸に迫ってきた。


「わかりました。協力します」


 千鶴がそう言った瞬間、座敷の障子が大きな音を立てて開いた。


「何をバカなことを!」


 怒気を含んだ父の声が響く。


「お父さん……」


「千鶴、もう何度も言っただろう。その力のことは、決して人に話すなと」


 父の目が、怒りに燃えていた。


「でも、お父さん。鷹栖さんには特別な事情が……」


「黙らっしゃい!」


 父の一喝に、千鶴は言葉を失った。


「申し訳ありません、鷹栖さん。うちの娘が馬鹿なことを……」


 父が静香に向かって頭を下げる。


「いいえ、こちらこそ。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」


 静香は立ち上がると、千鶴に向かって微笑んだ。


「千鶴さん、ありがとう。でも、もういいの。あなたにこれ以上迷惑はかけられない」


 そう言って、静香は部屋を出ていった。


 静香が去った後、重苦しい沈黙が座敷に流れた。


「千鶴」


 父が低い声で呼んだ。


「もう二度と、このようなことをするな。わかったな」


 千鶴は黙ったまま、うつむいていた。


「お前の力のことは、誰にも話してはならないんだ。世間は、お前のような者を受け入れない。お前を守るためなんだ、わかるだろう?」


 父の声には、怒りの中にも哀しみが混じっていた。


「でも、お父さん。私の力で、誰かの役に立てるかもしれないのに」


「だめだ!」


 父の声が震えた。


「お前は母さんのことを忘れたのか?」


 その言葉に、千鶴は息を呑んだ。幼い頃に亡くなった母のことだ。千鶴にはほとんど記憶がない。


「母さんも、私と同じ力を持っていた……」


 父は深いため息をついた。


「そうだ。お前の母さんも、物の『気』を感じる力を持っていた。そして、その力のせいで……」


 父は言葉を切った。千鶴は、今まで聞いたことのない話に、身を乗り出した。


「母さんに、何があったの?」


 父は長い間黙っていたが、やがて重い口を開いた。


「お前の母さんは、その力で多くの人を助けようとした。でも、結局は『異端』『異形』として扱われ、村八分にされてしまった。そして、ある日……」


 父の声が震えた。


「川で溺れているのを発見された。事故だったのか、自ら命を絶ったのか……今でもわからない」


 千鶴は言葉を失った。今まで知らなかった母の姿が、鮮明に脳裏に浮かんだ。


「だから、千鶴。お前には同じ思いをしてほしくない。この力のことは、誰にも明かしてはいけないんだ」


 父の声には、懇願するような響きがあった。


 千鶴は黙ってうなずいた。しかし、心の中では静香との約束が重く響いていた。


 その夜、千鶴は眠れなかった。母のこと、静香のこと、そして屏風のこと。すべてが頭の中で渦を巻いていた。


 窓の外では、蝉の声が響いていた。その音が、何か重要なメッセージを伝えようとしているかのように感じられた。


 翌朝、千鶴が店の掃除をしていると、来客を告げる鈴の音が響いた。


「いらっしゃいませ」


 千鶴が顔を上げると、そこには昨日の美術評論家・宇佐美の姿があった。


「おや、お嬢さん。昨日はどうも」


 宇佐美は柔和な笑みを浮かべた。


「宇佐美さん。屏風のことで?」


「ええ、少し気になることがありましてね」


 宇佐美の表情が真剣になる。


「実は、屏風の裏に何か書かれているのを発見したんです」


 千鶴は息を呑んだ。


「何が?」


「『蝉の声が聞こえたら、決して振り返ってはならない』という文章です」


 その言葉に、千鶴は凍りついた。昨日、静香が話していた言葉そのものだ。


「それで、お嬢さんにお聞きしたいのですが……」


 宇佐美の言葉が、千鶴の思考を引き戻した。


「はい?」


「昨日、お嬢さんが言っていた『蝉ヶ谷』のことをもう少し詳しく教えてもらえませんか?」


 千鶴は一瞬躊躇した。父との約束を思い出す。しかし、この謎を解明しなければ、静香の願いも叶わない。


「わかりました。お話しします」


 千鶴は宇佐美を座敷に案内した。幸い、父は仕入れで外出中だった。


「『蝉ヶ谷』は、今から百年以上前に存在した集落です。鞍馬山の麓にあって、周囲から隔絶された場所だったそうです」


 宇佐美はうなずきながら、熱心に聞いている。


「そして、大正の初め頃、村の人々が一夜にして姿を消したんです」


「一夜にして? そんなことが……」


 宇佐美の目が大きく見開かれた。


「はい。理由は誰にもわかりません。ただ……」


 千鶴は言葉を選びながら続けた。


「村には、奇妙な風習があったそうです。『蝉の声が聞こえたら、決して振り返ってはならない』というものです」


 宇佐美は身を乗り出した。


「屏風の裏に書かれていた言葉と同じですね」


「はい。でも、その意味はわかりません」


 千鶴は静香のことを思い出していた。彼女の家に伝わる言い伝えも、同じものだった。


「ふむ……。大変興味深い話です」


 宇佐美は顎に手を当て、考え込んでいる。


「お嬢さん、実はもう一つ気になることがあるんです」


「何でしょうか?」


「屏風に描かれた風景の中に、一つだけ違和感のある建物があるんです。他の建物は全て日本家屋なのに、一つだけ西洋風の建物が描かれているんです」


 千鶴は息を呑んだ。確かに、屏風を見た時にそんな建物があったことを思い出した。


「その建物はどんな様子でしたか?」


「そうですね……。二階建ての洋館で、屋根には尖塔のようなものがついていました。周囲の家々とは明らかに異質な存在でしたね」


 千鶴の脳裏に、母の姿が浮かんだ。なぜか、その建物と母が結びついて見えた。


「宇佐美さん、その建物のことをもっと調べていただけませんか?」


「ええ、もちろんです。実は私も、その建物に興味があるんです」


 宇佐美の目が輝いた。


「お嬢さん、一緒に謎を解明しませんか?」


 千鶴は迷った。父との約束を破ることになる。しかし、心の奥底では、この謎を解き明かしたいという強い思いがあった。


「はい、協力します」


 千鶴が答えた瞬間、座敷の障子が開く音がした。


「千鶴! 何をしている!」


 怒りに満ちた父の声が響いた。千鶴は凍りついた。


「お、ご主人、お帰りなさい」


 宇佐美が慌てて立ち上がる。


「宇佐美さん、うちの娘が何か失礼なことを?」


 父の声には、わずかな動揺が混じっていた。


「いえいえ、とんでも。お嬢さんから大変興味深いお話を伺っていたところです」


 宇佐美の言葉に、父の表情が凍りついた。


「どんな……話を?」


「『蝉ヶ谷』のことです。大変魅力的な話で……」


「千鶴! お前はまた!」


 父の一喝に、宇佐美は言葉を飲み込んだ。


「宇佐美さん、申し訳ありませんが、お引き取りいたけますか」


 父の声は凍えるほど冷たかった。


「わかりました。失礼します」


 宇佐美は困惑した様子で立ち去った。


 部屋に父と千鶴だけが残された。重苦しい沈黙が流れる。


「千鶴」


 父の声が低く響いた。


「もう、外の人間とは関わるな。特に、その屏風のことは忘れろ」


「でも、お父さん。この謎を解かなきゃ……」


「黙れ!」


 父の怒鳴り声に、千鶴は言葉を失った。


「お前にはわからないんだ。この力が、どれほど危険なものか」


 父の目に、悲しみの色が浮かんでいた。


「もう二度と、そんな話は……」


 その時、店の入り口の鈴が鳴った。


「すみません、開いてますか?」


 聞き覚えのある女性の声。千鶴は息を呑んだ。静香だった。


 父は一瞬たじろいだが、すぐに店主の顔に戻った。


「はい、どうぞ」


 静香が座敷に入ってくる。その姿を見た瞬間、千鶴は異変に気づいた。静香の周りに、尋常ではない「気」が渦巻いていたのだ。


「あの屏風のことで、もう一度お話を……」


 静香の言葉が、千鶴の耳に届く。しかし、千鶴の意識は静香から発せられる「気」に奪われていた。その「気」は、まるで……


「お断りします」


 父の冷たい声が響いた。


「うちでは、もうその屏風の件には関わりません」


「でも……」


「帰ってください」


 父の声には威厳があった。静香は言葉を失い、千鶴を見た。その目には、哀願するような色が浮かんでいる。


 千鶴は動けなかった。静香から感じる「気」があまりにも強烈で、身動きが取れないのだ。


「わかりました。失礼します」


 静香は深々と頭を下げると、立ち去っていった。その背中に、千鶴は何か決定的なものを感じた。このまま静香を見送れば、取り返しのつかないことが起こる。そんな予感が、千鶴の全身を震わせた。


「お父さん、行かせちゃだめ!」


 千鶴は叫んだ。


「何を言っている。もういい加減に……」


「違うの! 静香さんが危ない!」


 千鶴は必死に訴えた。


「静香さんの周りに、尋常じゃない『気』が渦巻いてるの。このまま行かせたら、取り返しのつかないことになる」


 父は困惑した表情を浮かべた。


「お前、また変なことを……」


「お願い、信じて!」


 千鶴の必死の形相に、父は一瞬たじろいだ。


「わかった。行け」


 父の言葉に、千鶴は我に返った。


「ありがとう、お父さん!」


 千鶴は店を飛び出した。静香の姿を追って、通りを駆けていく。


 その時、千鶴の耳に蝉の声が聞こえてきた。異様なほど大きな、不自然な蝉の声。まるで、何かを告げようとしているかのような……。


 千鶴は走りながら、心の中で呟いた。


「蝉の声が聞こえても、決して振り返ってはいけない」


 その言葉が、これから起こる出来事の鍵を握っているような気がした。千鶴は静香の姿を追いながら、未知の謎へと足を踏み入れていくのだった。



 蝉の声が耳を刺すように鳴り響く中、千鶴は静香の姿を追って走り続けた。通りを行き交う人々の視線も気にせず、ただひたすらに前を見つめて走る。


 やがて、静香の姿が見えてきた。千鶴は息を切らしながら叫んだ。


「静香さん! 待ってください!」


 静香は立ち止まり、振り返った。その顔には驚きの色が浮かんでいる。


「千鶴さん? どうして……」


 千鶴は静香に追いつくと、深く息を吸った。


「行っちゃだめです。危険が……」


 言葉を続けようとした瞬間、千鶴の全身に激しい痛みが走った。静香から発せられる「気」が、まるで実体を持ったかのように千鶴を襲ったのだ。


「くっ……」


 千鶴が苦痛に顔をゆがめると、静香の表情が一変した。


「あなたにも……見えるの?」


 静香の声が震えていた。


「見える、というか……感じるんです」


 千鶴は言葉を絞り出した。


「静香さんの周りに、尋常じゃない『気』が渦巻いているって」


 静香の顔から血の気が引いた。


「そう……やっぱり」


 静香はつぶやくように言った。


「私、もうダメかもしれないんです」


「どういうことですか?」


 千鶴は必死に尋ねた。静香は周囲を見回すと、小さな声で言った。


「ここでは話せません。人目につかない場所に行きましょう」


 静香は千鶴の手を取ると、人通りの少ない路地へと歩き出した。その手は冷たく、わずかに震えていた。


 二人が路地に入ると、周囲の喧騒が嘘のように消えた。ただ、どこからともなく聞こえる蝉の声だけが、異様に響いていた。


「千鶴さん、あなたにも特別な力があるのね」


 静香が振り返って千鶴を見つめた。その目には、悲しみと諦めの色が浮かんでいる。


「はい。物に宿る『気』を感じる力です」


 千鶴は正直に答えた。もう隠す必要はないと感じたのだ。


「そう。私の曾祖母にも、同じ力があったの」


 静香の言葉に、千鶴は息を呑んだ。


「実は……私の母にもその力があったんです」


 千鶴の告白に、静香の目が大きく開かれた。


「そうだったの……。だからあなたは、私の危険を感じ取ったのね」


「はい。でも、いったい何が起きているんですか?」


 千鶴は静香の表情を探るように見つめた。静香は深いため息をついた。


「私の家系には、『呪い』がかけられているの」


「呪い?」


「ええ。百年前、『蝉ヶ谷』で起きた出来事が原因なの」


 静香の声が震えた。


「私の曾祖母は、その村で『巫女』として崇められていたわ。物の『気』を感じる力を持っていたから」


 千鶴は静かにうなずいた。


「でも、その力が災いを呼んだの。村人たちの中に、その力を恐れ、嫉む者が現れたわ」


 静香の目に、涙が浮かんだ。


「ある日、村で不可解な死亡事件が起きたの。そして、その犯人として曾祖母が疑われた」


「それで、村人たちが……」


 千鶴の言葉を、静香がうなずいて肯定した。


「ええ。村人たちは曾祖母を追い詰めたわ。そして、最後には……」


 静香の声が途切れた。


「最後には?」


 千鶴が促すと、静香は震える声で続けた。


「曾祖母は『呪い』をかけたの。『蝉の声が聞こえたら、決して振り返ってはならない。振り返れば、魂を奪われる』って」


 千鶴は息を呑んだ。屏風の裏に書かれていた言葉の意味が、ようやく理解できた。


「そして、その夜……村中の人間が姿を消したの」


 静香の言葉に、千鶴は凍りついた。


「消えた? どういうことですか?」


「文字通り、消えたのです。一夜にして、村全体が消滅した……」


 静香の目に、恐怖の色が浮かんでいた。


「でも、なぜ静香さんが……」


 千鶴の問いかけに、静香は悲しげに微笑んだ。


「呪いは、私たち子孫にも及んでいるの。代々、『蝉の声』に苦しめられてきたわ」


 静香は自分の体を抱きしめるようにして続けた。


「そして最近、私にも『蝉の声』が聞こえ始めたの。だからもう、限界かもしれない」


 千鶴は静香の言葉に、言いようのない恐怖を感じた。しかし同時に、何とかしなければという思いも湧き上がってきた。


「でも、その呪いを解く方法はないんですか?」


 千鶴の問いかけに、静香は首を横に振った。


「わからないわ。ただ、あの屏風に何かヒントがあるんじゃないかって……」


 その時、突然、異様に大きな蝉の声が鳴り響いた。まるで、目の前で鳴いているかのような大きさだ。


「っ!」


 静香が苦しそうに顔をゆがめる。


「静香さん! 大丈夫ですか?」


 千鶴が静香を支えようとした瞬間、驚くべき光景が目の前で繰り広げられた。


 静香の体が、まるでガラスが砕けるように、ゆっくりとひび割れていったのだ。


「千鶴さん……助けて」


 静香の声が、遠くから聞こえてくるように弱々しい。


 千鶴は必死に静香の体を掴もうとしたが、手がすり抜けてしまう。


「静香さん! しっかりして!」


 千鶴の叫び声が路地に響く。しかし、静香の体はどんどん透明になっていき、やがて完全に姿を消してしまった。


 あとには、静香が身につけていた帯留めだけが、静かに地面に落ちていた。


 千鶴は呆然と、静香が消えた空間を見つめていた。周囲の空気が、急に重くなったような気がした。


「なんて……こと」


 千鶴のつぶやきが、静かな路地に響く。


 その時、突然、千鶴の頭に鋭い痛みが走った。目の前が真っ白になり、意識が遠のいていく。


 そして、千鶴の耳に、ある声が聞こえてきた。


「蝉の声が聞こえたら、決して振り返ってはならない……」


 それが誰の声なのか、千鶴にはわからなかった。ただ、その言葉が、これから起こる出来事の鍵を握っているような気がした。


 意識が闇に沈む直前、千鶴は心の中で誓った。


『必ず、この謎を解明してみせる。静香さんを、絶対に助けてみせる』


 そして、千鶴の意識は完全に闇に包まれたのだった。



 千鶴が目を覚ましたとき、そこは見慣れた自室だった。頭に鈍い痛みを感じながら、ゆっくりと体を起こす。


「目が覚めたか」


 父の声に、千鶴は顔を上げた。父が心配そうな顔で千鶴を見つめている。


「お父さん……私、どうして……」


「路地で倒れていたところを、通りがかりの人が見つけてな。店に運んでくれたんだ」


 父の言葉に、千鶴は急に思い出した。


「静香さんは!?」


 千鶴は慌てて立ち上がろうとしたが、めまいがして体がふらついた。


「落ち着け、千鶴」


 父が千鶴の肩を支える。


「静香さんとはあの客のことか? いなかったぞ。お前一人で倒れていたらしい」


 千鶴は愕然とした。静香が消えてしまったのは、夢ではなかったのだ。


「お父さん、聞いて。静香さんが消えちゃったの。目の前で……」


 千鶴は震える声で説明を始めた。静香から聞いた話、そして彼女が消えてしまった瞬間のことを。


 父は黙って千鶴の話を聞いていたが、その表情はだんだん硬くなっていった。


「千鶴」


 父の声が低く響く。


「もう、その話はやめろ」


「でも、お父さん! 本当なんだ。静香さんが……」


「いいかげんにしろ!」


 父の怒鳴り声に、千鶴は言葉を失った。


「これ以上首をつっこんでお前まで巻き込まれたら……」


 父の目に、悲しみの色が浮かんでいる。


「もう二度と、そんな話はするな。お前の母さんのようにはなってほしくない」


 千鶴は黙り込んだ。父の言葉に反論したい気持ちはあったが、その悲痛な表情を見ると、言葉が出てこなかった。


「わかった。もう言わない」


 千鶴はそう言って、うつむいた。父は安堵したような表情を浮かべ、部屋を出ていった。


 一人になった千鶴は、静かに立ち上がると窓際に歩み寄った。外では、相変わらず蝉の声が響いている。その音が、今は妙に不気味に感じられた。


「静香さん……」


 千鶴は小さくつぶやいた。静香の消えた姿が、まだ目に焼き付いている。


 そのとき、千鶴の目に何かが留まった。机の上に、見覚えのない帯留めが置かれているのだ。


「これは……」


 千鶴は息を呑んだ。間違いなく、静香が身につけていた帯留めだった。路地に落ちていたものを、誰かが拾って持ってきてくれたのだろう。


 千鶴は恐る恐る帯留めを手に取った。すると、強烈な「気」が千鶴の体を貫いた。


「くっ……」


 千鶴は苦痛に顔をゆがめた。帯留めから感じる「気」は、まさに静香から感じたものと同質だった。そして、その「気」の中に、かすかな声が聞こえてくる。


『千鶴さん……助けて……』


「静香さん!?」


 千鶴は帯留めを握りしめた。静香の声は確かに聞こえた。しかし、その声はすぐに消えてしまった。


 千鶴は決意に満ちた表情を浮かべた。もう迷っている場合ではない。静香を救うためには、この謎を解かなければならない。


 しかし、どうすれば良いのか。千鶴は考え込んだ。そのとき、ふと屏風のことを思い出した。


「そうだ、宇佐美さん!」


 千鶴は立ち上がると、急いで外出の支度を始めた。宇佐美なら、屏風の謎について何か知っているかもしれない。


 千鶴が家を出ようとしたとき、父の声が聞こえてきた。


「千鶴、どこに行く?」


「ちょっと、用事があるの」


 千鶴は曖昧に答えた。父に心配をかけたくなかった。


「そうか……無理はするなよ」


 父の声には、まだ心配の色が残っていた。


「うん、わかってる」


 千鶴はそう答えて、家を出た。


 外に出ると、蝉の声が一層大きく感じられた。千鶴は帯留めを握りしめ、静かに呟いた。


「静香さん、必ず助けるから」


 そして、宇佐美の元へと足を向けた。


 宇佐美の家は、京都の中心部から少し離れた閑静な住宅街にあった。古い洋館風の建物で、周囲の和風の家屋とは明らかに異質な存在だった。


 千鶴は玄関の前で深呼吸をすると、おそるおそるごめんください、と声をかけた。


「はい、どちら様でしょうか」


 宇佐美の声が、ドアの向こうから聞こえた。


「鷹見千鶴です。以前、屏風のことでお話しした……」


「ああ、鷹見さん。ちょうどいいところに」


 宇佐美の声には、どこか興奮したような響きがあった。


 扉が開き、宇佐美が現れた。


「さあ、入ってください。お話ししたいことがあるんです」


 千鶴は案内されるまま、家の中に入った。室内は古い洋書や美術品で埋め尽くされており、まるで小さな博物館のようだった。


 宇佐美は千鶴を書斎に案内した。そこには、例の屏風が大切そうに置かれている。


「鷹見さん、実は大変なことがわかったんです」


 宇佐美の目が輝いていた。


「屏風に描かれた『蝉ヶ谷』、その場所を特定できたんです」


 千鶴は息を呑んだ。


「本当ですか!?」


「ええ。古い地図と照らし合わせて、ようやく……」


 宇佐美は机の上に広げられた古地図を指さした。そこには、確かに「蝉ヶ谷」という地名が記されている。


「そして、もう一つ重要なことが」


 宇佐美は真剣な表情で千鶴を見た。


「屏風に描かれた西洋風の建物、あれは『蝉ヶ谷』に実在したんです。地元の古老の証言で確認できました」


 千鶴は驚きのあまり、言葉を失った。その建物が、この謎の核心を握っているような気がした。


「宇佐美さん、その建物のことをもっと詳しく教えてください」


 千鶴の声に、切実な響きがあった。宇佐美はうなずくと、静かに語り始めた。


「その建物は、『蝉の館』と呼ばれていたそうです。そして、そこには……」


 宇佐美の言葉が、千鶴の心に深く刻み込まれていく。それは、これから起こる出来事の、重要な鍵となるのだった。



「その建物は、『蝉の館』と呼ばれていたそうです。そして、そこには……」


 宇佐美は一瞬言葉を切り、千鶴の反応を窺うように見つめた。


「巫女が住んでいたんです」


 千鶴は息を呑んだ。静香の曾祖母のことだろうか。


「その巫女は特別な力を持っていて、村人たちから畏れられると同時に、崇められていたそうです」


 宇佐美の言葉に、千鶴はうなずいた。


「物の『気』を感じる力……ですね」


「ええ、そうです。鷹見さんもご存知だったんですか?」


 宇佐美の目が輝いた。千鶴は一瞬躊躇したが、もう隠す必要はないと判断した。


「実は、私にもその力があるんです」


 宇佐美は驚いた表情を浮かべたが、すぐに興奮の色に変わった。


「そうだったんですか! だからあの時、屏風のことをあんなにも……」


 千鶴は静かにうなずいた。そして、静香のことを話し始めた。彼女から聞いた話、そして彼女が消えてしまったことを。


 宇佐美は真剣な面持ちで千鶴の話を聞いていた。


「なるほど……。それで、鷹見さんは静香さんを助けたいと」


「はい。でも、どうすれば……」


 千鶴の言葉が途切れる。宇佐美は深く考え込んだ様子で、しばらく沈黙していた。


「……ひとつ、方法があるかもしれません」


 宇佐美の声に、千鶴は顔を上げた。


「『蝉の館』に行くんです」


「え?」


「屏風に描かれた『蝉の館』、あれはまだ実在するんです」


 千鶴は驚きのあまり、言葉を失った。


「廃墟同然ですが、建物自体は残っているんです。そこに行けば、何かわかるかもしれない」


 宇佐美の提案に、千鶴は一瞬迷った。しかし、静香を救うためには、やるしかない。


「わかりました。行きます」


 千鶴の瞳に、決意の色が宿った。


「でも、どうやって行くんですか?」


「心配いりません。私が案内しましょう」


 宇佐美は微笑んだ。


「明日の朝早く出発しましょう。今日は家に帰って、しっかり休んでください」


 千鶴はうなずいた。家に帰る途中、千鶴の頭の中は『蝉の館』のことでいっぱいだった。


 家に着くと、父が心配そうな顔で待っていた。


「千鶴、どこに行ってたんだ?」


「ごめんなさい、お父さん。ちょっと、用事があって……」


 千鶴はまた曖昧に答えた。父には心配をかけたくなかった。


「そうか……」


 父はまだ何か言いたそうにしていた。その声には、優しさと心配が混じっていた。


「うん……」


 千鶴は自室に戻ると、明日の準備を始めた。そのとき、ふと帯留めが目に入った。千鶴は恐る恐る手に取る。


 すると、また強烈な「気」が千鶴の体を貫いた。そして、かすかな声が聞こえてきた。


『千鶴さん……気をつけて……』


「静香さん?」


 千鶴は帯留めを握りしめた。静香の声は確かに聞こえた。しかし、その意味するところは分からない。


 夜、千鶴は寝付けずにいた。窓の外では、相変わらず蝉の声が響いている。その音が、今は妙に不気味に感じられた。


 翌朝、千鶴は早めに起きて、こっそりと家を出た。約束の場所で宇佐美と落ち合う。


「準備はいいですか?」


 宇佐美の声に、千鶴はうなずいた。


 二人は車に乗り込み、『蝉ヶ谷』へと向かった。車窓から見える景色が、だんだんと人里離れた山道へと変わっていく。


 やがて、車は人が歩くのもやっとの細い山道に差し掛かった。


「ここからは歩きです」


 宇佐美が車を止める。二人は車を降り、山道を歩き始めた。


 歩くにつれ、周囲の空気が変わっていくのを千鶴は感じた。そして、耳を刺すような蝉の声。その音が、だんだんと大きくなっていく。


「あれが『蝉の館』です」


 宇佐美が指さす先に、朽ち果てた洋館が見えてきた。千鶴は息を呑んだ。屏風に描かれていた建物そのものだった。


 二人が建物に近づくにつれ、千鶴の体に異様な「気」が襲いかかってきた。


「くっ……」


 千鶴が苦しそうに顔をゆがめると、宇佐美が心配そうに声をかけた。


「大丈夫ですか?」


「はい……でも、この建物から、尋常じゃない『気』を感じます」


 千鶴の言葉に、宇佐美の表情が引き締まった。


「気をつけましょう」


 二人は恐る恐る、建物の中に足を踏み入れた。朽ちた床が軋む音が、不気味に響く。


 館の中を進んでいくと、突然、千鶴の頭に鋭い痛みが走った。


「っ!」


 千鶴が苦しそうに顔をゆがめる。と、その瞬間、目の前の景色が歪み始めた。


「な、何!?」


 宇佐美の驚きの声が聞こえる。しかし、千鶴の意識は急速に遠のいていった。


 気がつくと、千鶴は見知らぬ部屋にいた。古びた和室で、正面には大きな鏡が置かれている。


 そして、鏡の前には一人の女性が座っていた。千鶴は息を呑んだ。その女性は、まぎれもなく静香だった。


「静香さん!」


 千鶴が声をかけようとした瞬間、静香がゆっくりと振り返った。しかし、その顔は……。


 千鶴は恐怖で凍りついた。静香の顔には、目も鼻も口もなかったのだ。


 そして、どこからともなく、おぞましいほど大きな蝉の声が響き渡る。


「蝉の声が聞こえたら、決して振り返ってはならない……」


 その声が、千鶴の意識を覆い尽くしていった。




 千鶴の悲鳴が、朽ちた館内に響き渡った。


「鷹見さん! 大丈夫ですか?」


 宇佐美の声が、遠くから聞こえてくるように感じる。千鶴は目を開けた。自分がまだ『蝉の館』の中にいることに気づく。先ほどの光景は、幻だったのだろうか。


「は、はい……大丈夫です」


 千鶴は震える声で答えた。冷や汗が額を伝う。


「何があったんです? 突然うめき声を上げて……」


 宇佐美の顔には、深い懸念の色が浮かんでいた。


「私……静香さんを見たんです。でも……」


 千鶴は言葉を詰まらせた。あの恐ろしい光景を、どう説明すればいいのか分からない。


 その時、不意に床が軋む音がした。二人は驚いて振り返る。そこには……。


「静香さん!?」


 千鶴の声が、震える館内に響いた。廊下の先に、静香らしき人影が立っていたのだ。


「待ってください!」


 千鶴は思わず、その影を追いかけようとした。


「鷹見さん、危険です!」


 宇佐美が千鶴の腕を掴む。しかし、千鶴は振り解いて走り出した。


 廊下を駆け抜け、階段を上がる。二階に着くと、そこには一つの部屋があった。扉は半開きになっている。


 千鶴は恐る恐る、その部屋に足を踏み入れた。


「静香……さん?」


 部屋の中央には、大きな鏡が置かれていた。そして、その前には……。


「やっと来てくれたのね、千鶴さん」


 静香が振り返る。今度は、ちゃんと顔があった。しかし、その表情には深い悲しみが刻まれている。


「静香さん! 本当に……」


 千鶴が駆け寄ろうとした瞬間、静香が手を上げて制止した。


「近づかないで。私はもう……このような有様なのよ」


 そう言って、静香はゆっくりと体を千鶴の方に向けた。千鶴は息を呑んだ。静香の体は、まるでガラスのように透き通っていたのだ。


「どうして……」


 千鶴の言葉に、静香は悲しげに微笑んだ。


「私たちの呪いよ。『蝉の声』に魂を奪われ、この世とあの世の狭間に囚われてしまったの」


「呪い……を解く方法は?」


 千鶴は必死に尋ねた。静香はゆっくりと首を横に振った。


「もう遅いわ。でも、あなたには……」


 静香の言葉が途切れる。その瞬間、部屋中に轟音が響き渡った。


「なっ!?」


 千鶴が驚いて周囲を見回すと、部屋の壁が崩れ始めていた。


「千鶴さん、逃げて!」


 静香の叫び声が聞こえる。しかし、千鶴の体は動かない。


「でも、静香さんを置いていくわけには……」


「私のことは構わないで! あなたまで『蝉の声』に囚われてしまったら、すべてが終わってしまう!」


 静香の必死の形相に、千鶴は我に返った。


「静香さん……必ず、助けに来ます!」


 千鶴は涙を流しながら、崩れゆく部屋から逃げ出した。階段を駆け下りる。そこで宇佐美と出くわした。


「鷹見さん! 早く!」


 二人は必死に館から脱出した。振り返ると、『蝉の館』は見る見るうちに崩れ落ちていった。


 やがて、轟音が収まる。後には、瓦礫の山だけが残されていた。


「静香さん……」


 千鶴は崩れ落ちた館を見つめながら、小さくつぶやいた。


「鷹見さん、一体何が……」


 宇佐美の問いかけに、千鶴は静かに首を振った。


「帰りましょう、宇佐美さん。話すことがたくさんあります」


 二人は重い足取りで山を下りた。車に戻る途中、千鶴は何度も振り返った。しかし、『蝉の館』の姿はもうそこにはなかった。


 車の中で、千鶴は静香との対面のことを宇佐美に話した。宇佐美は黙って千鶴の話を聞いていたが、その表情は次第に厳しいものになっていった。


「鷹見さん、これは並大抵の事態ではありませんね」


 宇佐美の声は重かった。


「はい……でも、私は静香さんを救わなきゃいけない。きっと、方法があるはずです」


 千鶴の瞳に、決意の色が宿る。


「そうですね。まずは、もっと詳しく調べる必要がありそうです」


 宇佐美は考え込むように言った。


「『蝉の声』の正体、そして『蝉ヶ谷』で起きた出来事。それらを解明すれば、きっと……」


 千鶴はうなずいた。そして、ふと気づいたことがあった。


「宇佐美さん、私、屏風を見せてもらえませんか?」


「屏風? ああ、あの『蝉ヶ谷』の風景が描かれた……」


「はい。あの屏風に、何かヒントがあるような気がするんです」


 宇佐美は少し考えてから、うなずいた。


「分かりました。私の家に戻りましょう」


 車は京都の街へと走り出した。車窓の外では、夕暮れが迫っていた。そして、どこからともなく聞こえてくる蝉の声。


 千鶴は静かに目を閉じた。静香の姿が、まぶたの裏に浮かぶ。


『必ず助けてみせる。この呪いを解いてみせる』


 千鶴は心の中で誓った。そして、これから始まる長い探求の旅に、静かな覚悟を決めたのだった。



 宇佐美の家に戻った二人は、すぐさま書斎へと向かった。そこには、例の屏風が大切そうに置かれていた。


「さあ、どうぞ」


 宇佐美が屏風の前から離れると、千鶴はゆっくりと近づいた。


 屏風に手を伸ばす。途端、強烈な「気」が千鶴の体を貫いた。


「くっ……」


 千鶴は顔をゆがめた。しかし、目を逸らさずに屏風を見つめ続ける。


 すると、不思議なことが起こった。屏風に描かれた風景が、まるで生きているかのように揺らめき始めたのだ。


「これは……」


 千鶴は息を呑んだ。屏風の中の『蝉ヶ谷』が、徐々に鮮明になっていく。そして、そこに人々の姿が見えてきた。


 着物姿の村人たち。子供たちが走り回る様子。そして、『蝉の館』の前に立つ一人の女性。


「あれは……静香さんの曾祖母?」


 千鶴はつぶやいた。女性の姿は静香に似ていたが、より威厳のある雰囲気を漂わせている。


 突然、屏風の中の光景が変わった。夜の村の様子だ。人々が騒然としている。そして、『蝉の館』の前に村人たちが集まっている。


 松明を手にした村人たち。怒号が聞こえてくるようだ。そして、館の前に立つ女性……静香の曾祖母だろう……が両手を広げ、何かを叫んでいる。


 その瞬間、屏風全体が激しく揺れ動いた。


「鷹見さん!」


 宇佐美の声が聞こえる。しかし、千鶴の意識は屏風の中の光景に吸い込まれていった。


 気がつくと、千鶴は『蝉ヶ谷』の中にいた。しかし、それは現実の光景ではない。まるで、記憶の中を歩いているかのような感覚だった。


 村の中を歩く。人々の姿は透き通っていて、千鶴のことには気づかない。そして、『蝉の館』の前にたどり着いた。


 そこでは、村人たちが静香の曾祖母を取り囲んでいた。


「呪われた巫女め! お前が村に災いをもたらしたんだ!」


「そうだ! 厄災を止めろ!」


 怒号が飛び交う。静香の曾祖母は、毅然とした態度でそれらに対峙していた。


「私は何もしていない。この村を守ろうとしただけだ」


 その言葉に、村人たちの怒りがさらに高まる。


「嘘つけ! お前の呪いのせいで、村の者が次々と……」


 その時、不意に強烈な蝉の声が響き渡った。村人たちが一斉に耳をふさぐ。


 静香の曾祖母が、ゆっくりと口を開いた。


「よいか、皆。今から言うことをよく聞け」


 村人たちの視線が、一斉に曾祖母に注がれる。


「蝉の声が聞こえたら、決して振り返ってはならない。振り返れば、魂を奪われるぞ」


 その言葉と共に、曾祖母の体から強烈な「気」が放たれた。村人たちが悲鳴を上げる。


 そして、光景が一変した。村全体が、白い霧に包まれていく。人々の姿が、霧の中に消えていく。


「ああっ!」


 千鶴は思わず叫んだ。しかし、彼女の声は誰にも届かない。


 やがて、霧が晴れた。そこには、誰もいない『蝉ヶ谷』が広がっていた。静寂が支配する廃村。そして、『蝉の館』だけが、威厳を保ったように佇んでいる。


「これが……あの日の出来事」


 千鶴はつぶやいた。しかし、その声が出る前に、意識が急速に現実へと引き戻されていった。


「鷹見さん! 大丈夫ですか?」


 宇佐美の声が聞こえる。千鶴は目を開けた。自分が宇佐美の書斎にいることに気づく。


「は、はい……」


 千鶴は震える声で答えた。冷や汗が額を伝う。


「一体何があったんです? 突然意識を失って……」


 宇佐美の顔には、深い懸念の色が浮かんでいた。


「私……『蝉ヶ谷』で起きた出来事を直接見たんです」


 千鶴は、自分が見た光景を詳しく宇佐美に話した。宇佐美は、真剣な面持ちで千鶴の話を聞いていた。


「なるほど……。つまり、静香さんの曾祖母が村人たちを呪ったということですね」


「はい。でも、なぜそんなことを……」


 千鶴の言葉が途切れる。宇佐美は深く考え込んだ様子で、しばらく沈黙していた。


「……ひとつ、仮説があります」


 宇佐美の声に、千鶴は顔を上げた。


「静香さんの曾祖母は、村を守ろうとしたのかもしれません」


「村を……守る?」


「ええ。何か、村全体を脅かす危険があったのではないでしょうか。そして、その危険から村人たちを守るために、この世界から隔離する必要があったのでは」


 千鶴は息を呑んだ。その説明は、どこか筋が通っているように感じられた。


「でも、それじゃあまるで……」


「そう、監獄のようですね」


 宇佐美が千鶴の言葉を引き取った。


「『蝉しぐれの檻』とでも言うべきでしょうか」


 その言葉に、千鶴は背筋に冷たいものが走るのを感じた。


「じゃあ、静香さんたちは……」


「恐らく、その『檻』の中に囚われているのでしょう。この世とあの世の狭間に」


 宇佐美の言葉に、千鶴は言葉を失った。しかし、同時に、一筋の光明が見えたような気もした。


「なら、その『檻』を解き放てば……」


「そうですね。静香さんたちを救える可能性があります」


 宇佐美の目に、決意の色が宿る。


「鷹見さん、一緒に調べてみませんか? この『蝉しぐれの檻』の正体を」


 千鶴は迷わずうなずいた。


「はい。静香さんのためにも、きっと真相を突き止めてみせます」


 そう言って、千鶴は屏風を見つめた。そこには、まだ多くの謎が隠されているはずだ。そして、その謎を解く鍵は、きっと自分の中にある??そう、千鶴は確信したのだった。



 その夜、千鶴は眠れずにいた。宇佐美の家を出た後、父には何も言わずに自室に籠もった。屏風で見た光景が、頭の中でぐるぐると回っている。


 窓の外では、相変わらず蝉の声が響いていた。その音が、今は妙に意味深く感じられる。


「蝉の声が聞こえたら、決して振り返ってはならない……」


 千鶴は静かにつぶやいた。その言葉の真意は何なのか。そして、静香の曾祖母は本当に村を守ろうとしていたのか。


 千鶴はベッドから起き上がると、静香の帯留めを手に取った。その瞬間、強烈な「気」が体を貫く。


「くっ……」


 千鶴は顔をゆがめたが、必死に耐えた。すると、かすかに声が聞こえてきた。


『千鶴さん……助けて……檻を……解いて……』


「静香さん!」


 千鶴は帯留めを強く握りしめた。しかし、それ以上の声は聞こえてこない。


 千鶴は決意を固めた。これ以上、躊躇している場合ではない。静香を、そして『蝉ヶ谷』の人々を救うためには、もっと深く真相に迫らなければならない。


 翌朝、千鶴は早々に家を出た。宇佐美との待ち合わせ場所へと向かう。


 京都の古い寺院の前で、宇佐美が待っていた。


「おはようございます、鷹見さん」


「おはようございます。で、ここに来たのは……」


 千鶴の問いに、宇佐美は静かにうなずいた。


「この寺院には、古い文書が保管されているんです。その中に、『蝉ヶ谷』に関する記録があるかもしれない」


 二人は寺院の中に入っていった。住職の案内で、古い文書が保管された部屋へと通される。


 埃っぽい空気の中、古びた文書の山。宇佐美と千鶴は、必死に関連しそうな文書を探し始めた。


 時間が過ぎていく。しかし、なかなか手がかりは見つからない。


 そのとき、千鶴の目に一枚の古い地図が留まった。


「これは……」


 千鶴は息を呑んだ。その地図には、確かに『蝉ヶ谷』の位置が記されていた。しかし、驚くべきことに、その周囲には奇妙な文様が描かれていたのだ。


「宇佐美さん、これ……」


 宇佐美も驚いた様子で地図を見つめた。


「これは……結界を表す文様ですね」


「結界?」


「ええ。古来、邪気を封じ込めたり、外敵から守るために使われた印です」


 千鶴は息を呑んだ。


「じゃあ、これが『蝉しぐれの檻』の正体?」


「可能性が高いですね」


 宇佐美の目が輝いた。


「しかし、なぜこんな強力な結界が必要だったのか……」


 その時、不意に千鶴の頭に激しい痛みが走った。


「っ!」


 千鶴が苦しそうに顔をゆがめる。と、その瞬間、目の前の景色が歪み始めた。


「鷹見さん!?」


 宇佐美の声が遠くから聞こえる。しかし、千鶴の意識は急速に別の場所へと引き込まれていった。


 気がつくと、千鶴は再び『蝉ヶ谷』にいた。しかし、今回の光景は以前見たものとは違っていた。


 村は活気に満ちていた。人々が笑顔で行き交い、子供たちが元気に走り回っている。そして、『蝉の館』の前には、静香の曾祖母らしき女性が立っていた。


 千鶴は、その女性に近づいた。すると、驚くべきことに、女性が千鶴の方を向いたのだ。


「よく来てくれました、未来からの訪問者よ」


 千鶴は息を呑んだ。自分が見えているのだろうか。


「私には、あなたの『気』が感じられます。同じ力を持つ者として」


 女性……静香の曾祖母は、優しく微笑んだ。


「あなたに、真実を伝えなければなりません」


 千鶴は緊張しながらも、うなずいた。


「この村には、古くから伝わる秘密があります。この地は、この世とあの世の境界なのです」


 千鶴は息を呑んだ。


「そして、時として、あの世からの侵入者が現れる。それを食い止めるのが、私たち『気』を感じる者の役目なのです」


 静香の曾祖母の表情が厳しくなる。


「しかし、最近その侵入者が強大になってきました。もはや、私一人では止められそうにない」


 そう言って、曾祖母は悲しげに目を伏せた。


「だから、私は決断したのです。村全体を結界で封じ、あの世との境界を完全に閉ざすことに」


 千鶴は、その言葉の重みに打ちのめされそうになった。


「でも、それじゃあ村人たちは……」


「ええ、永遠にこの狭間の世界に囚われることになる。しかし、それでも世界を守ることができる」


 曾祖母の目に、悲しみと決意の色が宿っていた。


「ですが、それは間違いです!」


 千鶴は思わず叫んでいた。


 千鶴の叫びが、静香の曾祖母の心を揺さぶったのか、一瞬、その威厳ある表情が揺らいだ。


「なぜ、それが間違いだと?」


 曾祖母の声には、わずかな動揺が滲んでいた。


「確かに、世界は守られるかもしれない。でも、それは本当の解決とは違います!」


 千鶴は必死に訴えた。心の奥底から湧き上がる感情が、言葉となって溢れ出す。


「私も、物の『気』を感じる力のせいで、ずっと孤独でした。周りから避けられ、父さんからさえ、その力を否定されてきた。でも……」


 千鶴は深く息を吸い、静かに続けた。


「その力は、きっと誰かを助けるために与えられたんです。母さんもそう信じていたはず」


 曾祖母の目が大きく開かれた。


「あなたの母も……」


「はい。母は、その力で人々を助けようとした。でも、世間は母を受け入れなかった。そして、母は……」


 千鶴の声が震える。しかし、決意を新たにして言葉を継いだ。


「でも、それでも私は信じています。この力には意味があるって。そして、それは人々を檻に閉じ込めることじゃない。救い出すことなんです」


 静香の曾祖母は、長い間黙って千鶴を見つめていた。その目には、深い思索の色が浮かんでいる。


「あなたの言葉には、確かな重みがある」


 曾祖母はゆっくりとうなずいた。


「しかし、あの世からの侵入者を止める他の方法があるのですか?」


「あります」


 千鶴は迷いなく答えた。


「私たちが、橋渡しになればいい。この世とあの世の調和を保つ存在として」


 その言葉に、曾祖母の目が輝いた。


「なるほど……。調和ですか」


 曾祖母は深いため息をついた。


「確かに私は、守ることばかりを考えていた。そして、その考えが人々を縛る檻となってしまった」


 曾祖母の周りの空気が、少しずつ変化していく。威圧的な雰囲気が、柔らかな光に変わっていった。


 その時、突然、千鶴の体が激しく揺れ動いた。


「もう、時間がないようですね」


 曾祖母が穏やかな声で言う。


「行きなさい。そして、私の過ちを正してください。結界を解く鍵は、あなたの中にあります」


 千鶴の意識が、現実世界へと引き戻されていく。最後に聞こえた曾祖母の言葉が、心に深く刻まれた。


「どうか調和の道を、見つけ出してください」


 目を開けると、そこは寺院の古文書室だった。宇佐美が心配そうに千鶴を見つめている。


「大丈夫ですか?」


「はい……」


 千鶴はゆっくりと立ち上がった。体の中に、新しい力が満ちているのを感じる。


「宇佐美さん、わかりました。結界を解く方法が」


 千鶴の声には、確信が満ちていた。


「本当ですか?」


「はい。でも、そのためには……」


 千鶴は父のことを思い浮かべた。


「まず、和解しなければならない人がいます」



 鷹見堂に戻った千鶴を、父は厳しい表情で迎えた。しかし、その目には深い悲しみも宿っていた。


「父さん、話があります」


 千鶴は静かに、しかし芯の通った声で切り出した。


「また、あの話か……」


「違います。今度は、母さんの話です」


 父の表情が凍りついた。


「母さんは、自分の力を恥じていましたか? それとも、誇りに思っていましたか?」


 父は長い間黙っていたが、やがて重い口を開いた。


「……誇りに思っていた」


 その言葉に、千鶴の心が震えた。


「お前の母さんは、いつも言っていた。この力は、人々を救うために与えられたものだって」


 父の目に、涙が浮かんでいる。


「でも、世間は母さんを受け入れなかった」


「ああ。そして、私は……母さんを守れなかった」


 父の声が震えた。


「だから、お前だけは守りたかった。その力のことは誰にも知られないように、お前を檻の中に閉じ込めるようにして……」


 父は顔を覆った。その肩が、小刻みに震えている。


「父さん」


 千鶴は静かに父に近づき、その手を取った。


「もう、誰も檻の中に閉じ込める必要はないんです。母さんの力も、私の力も、そして『蝉ヶ谷』の人々も」


 父は驚いたように顔を上げた。


「私たちは橋渡しになればいいんです。この世とあの世の、人々の心と心の」


 千鶴の言葉に、父の目が潤んだ。


「お前は……母さんそっくりだ」


 その言葉に、千鶴は温かいものが込み上げてくるのを感じた。


「行っておいで」


 父はそっと千鶴の手を離した。


「母さんの意志を、受け継いでおいで」


 千鶴は涙ながらにうなずいた。


 崩れた『蝉の館』の前に、千鶴と宇佐美が立っていた。夕暮れ時の空が、赤く染まっている。


「準備はいいですか?」


 宇佐美の声に、千鶴はうなずいた。


 千鶴は静香の帯留めを握りしめ、目を閉じた。そして、心の中で静かに呟く。


「母さん、力を貸してください」


 すると、帯留めが淡い光を放ち始めた。その光が、『蝉の館』全体を包み込んでいく。


 千鶴は目を開けた。館の周りに、無数の「気」の糸が見える。それが複雑に絡み合って、結界を形作っているのだ。


「調和の道を……」


 千鶴は静かに手を伸ばした。「気」の糸に触れると、強烈な痛みが走る。しかし、千鶴は歯を食いしばって耐えた。


 そして、「気」の流れを少しずつ変えていく。拒絶から受容へ。閉ざすことから繋ぐことへ。


 廃墟となった館が光に包まれていく。そして、その光の中から人影が現れ始めた。


「静香さん!」


 千鶴は駆け寄った。静香は、まるで長い夢から覚めたように、ゆっくりと目を開いた。


「千鶴さん……私たち、解放されたの?」


「はい。もう誰も、檻の中にはいません」


 静香の周りに、次々と村人たちの姿が現れる。そして最後に、静香の曾祖母の姿も。


「よくやってくれました」


 曾祖母は穏やかな笑みを浮かべた。


「これからは私たちが、この世とあの世の調和を守っていきます」


 その言葉と共に、村人たちの姿が淡い光に包まれ、ゆっくりと消えていった。しかし、それは恐ろしい消失ではなく、安らかな旅立ちのように見えた。


「さようなら、千鶴さん」


 静香の最後の言葉が、夕暮れの空に響いた。


 帰り道、千鶴は空を見上げた。蝉の声が、穏やかに響いている。それは最早、恐ろしい呪いの音ではなく、この世とあの世の調和を告げる音色のように聞こえた。


 家に戻ると、父が待っていた。


「お帰り」


 父の声に、温かいものが感じられた。


「ただいま」


 千鶴は微笑んだ。もう、誰も孤独ではない。この力は、人々を繋ぐために存在するのだから。


 窓の外で、蝉が鳴いていた。その声は、新しい物語の始まりを告げているようだった。


(了

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