06 おはよう。そして朝チュン。〜地獄の目覚め〜
目を閉じてから、果たしてどれだけの時間が過ぎ去ったのだろう。
異世界二日目。朝はいつも通り俺に陽の光という笑顔を向けてくる。熱烈なモーニングコールに日焼けしてしまいそうだ。
小鳥たちがちゅんちゅんとさえずっている。耳を躍らせ朝を伝える美しい音色だ。
身体もなんだか軽い。疲れが取れる寝起きというのはかくも素晴らしく――
そこまで思っていたところで思案をやめたのには、真っ当な理由があった。昨晩までは身につけていた衣服の数々が、盗っ人に押し入られたように綺麗さっぱりと無くなっているのだ。
まさか本当に危惧していた通り野党にでも襲われたのだろうか。それにしてはベッドも綺麗なままだし、服以外の何かが盗まれた痕跡も一切ない。荷物も無事である。では何故衣服のみが消失しているのだ。バグか?
などと寝起きですぐさまゲーム的思考に切り替わる自分のゲーム脳を褒め称えたいところであったが、そんな事がどうでもよくなるくらいもっととんでもない事態が目の前にあった。眼前にある布団の一部がなにやらもっこりとしているので、そこに服という宝があるかもしれない――と開いてしまった。
それがパンドラの匣だとも知らずに。
布団を開いた先には、赤髪ツインテールの幼子がすぅすぅと可愛らしい寝息を立てて、俺と同じように上半身裸で眠りこけていたのだ。もちろんすぐさま布団は閉じた。
そしてもう一度。ロリコンの自分が寝起きのふわふわ脳で作り出した幻覚でないことを確認するために、ゆっくりと、おそるおそる布団を開いた。まぁ布団が可愛らしい寝息に合わせて揺れている時点で、幻覚などでもなんでもないことは明白だったのだが。誰かに否定して欲しかったのかもしれない。脳が見せた幻であって欲しかった。
先刻拝んだ通りの景色と寸分違わず赤毛の児童がそこで眠っていた。
「やっちまったぁあああーっ‼︎」
何故だ何だ何なんだ。どういうわけなんだ。
え。まさか本当に俺が? 夜に吠える獣と化していたいけな児童を連れ去って抱いたとでもいうのか?
いやいやいやいやいやいや。そんなこと酒に酔ってでもしなさそうな間違いだぞ。能力の代償なのか、女神の悪戯なのか。ってこんな状況悪戯なんかじゃ済まないんだが。
終わった。人生終わった。二度目の人生もここで詰んだ。
深夜に未成年略取、誘拐、監禁、脱衣陵辱。そして幼児との朝チュン…………。
欲望に満ちたケダモノ。化け物。オークとか巨人族の犯罪者軍団の仲間入り。まだ見ぬ彼らがこっちにおいでよと闇の向こう側から手を振っている幻覚が見えた。なまじ酔っ払った末に犯した一夜の過ちでないせいで、微かに残されるはずだった俺に対する情状酌量の余地さえなかった。投獄394京2413兆4400億年。この世の地獄にその卑しき魂を送られるが相応しい、穢れた罪深き犯罪者。
破滅のカウントダウンを刻みつけるように心臓がさっきからずっとバクバクいって鳴り止まない。さようなら素敵だった異世界生活。三度目の転生ではうまくやるよ。
……いや待て。このまま終わってたまるか。
この状況を打破できる起死回生の策が、まだあるではないか。
そうだ。人生そうそう簡単に終わったりなどしない。異世界で危機に慣れでもしていたのか、どん詰まり底の見えない闇、絶望の淵に叩き落とされ嘆きながらも俺の脳は考えることをやめてなかった。
生きることを諦めていなかったのだ。一縷の希望に縋りに縋りついてベットベトのネッチョネチョになりながらも、汚泥にまみれてでも這い上がり、必死で次の一手を模索していたのだ。
布団の先にはかつて身につけていた俺の服と思わしき粗末な初期装備が、杜撰に畳まれていた。俺は思った。
服を着てこの子にも服を着せ、布団に戻し、何もなかったことにすれば良いじゃないか――と。
不幸中の幸いか、まだこの状況を俺以外の誰にも見られていないという強みがあった。このカードをうまく利用すれば、最低最悪の事態は避けられるのではないか。いける、いけるぞ。
まだ現実に帰れる。暖かくて、居心地の良かったあの光の向こうへ戻ることができる。
そうとなれば話は早い。俺はなんとか幼児を起こしてしまわないように、そっと――壊れ物を触るよりも緩やかに、静かに服へと手を伸ばした。
この時ばかりは全身ゴム人間にでもなりたいと切望するばかりであったが、このままでもなんとか上着という希望の欠片を掴むことに成功した。
肝心の下着は、もう布団から出るしか道はないわけだが、とにかく先ずは上着だ。これを着るだけで大分印象も状況も変わる。
ようやく希望に辿り着きそうになったその瞬間、眠りに落ちていたはずの幼児が「うぅん」と小さな声を上げた。
やばい。目が覚めてしまったか。
さっきから心臓がドキドキとうるさく鳴り止まないのだったが、ここにきてますます大きな音を立てて騒ぎ出した。
鎮まり給え、静まり給え。逸る気持ちと心臓を抑えながら、ゆっくりと深呼吸だ。
ここで起きられ、大泣きでもされてしまえば全てがご破算だ。ブラックホールの前ではいくら土下座しても遅いのだ。全てが無に帰してしまう。それだけはなんとしても避けなくては。
だ、だが何ができる。俺には幼児を、いや人間一人を音も立てず一瞬のうちに意識を断ち切るようなアサシン術を備えているわけでもない。このまま閉じた瞼が開いてしまうのを指咥えて見てるしかできないというのか、しかも全裸で。
しかし幼児はそのまま起きることなく元通り静まり返った。とりあえず第一の大嵐は過ぎ去ったのだ。
この時より安堵という感覚が身に染みた瞬間はないだろう。今生の終わりを覚悟し高鳴っていた心臓が、ようやく収まっていった。何度心の中で「生きてて良かった」としゃがれ声でつぶやいたこともない。
神様、天はまだ余に生きろと申してくれたのですね。ならばそれに応えましょうぞ――
上着を手にかけながら、問題である遠くの下着を見た。
あれは上着より少し遠い位置にあり、届きそうなのに届かないというロミオとジュリエットを彷彿とさせるもどかしさを演出するのに一役買ってくれているのだが、やはり現実問題あれを取るには少しばかり移動して立つか布団の中を移動するしかないのだが、隣にいるこの幼児が曲者だ。
いうならば一歩動くとそのたびに爆発する可能性を孕んでいる超危険な爆弾も同義だ。移動にはどんな一歩で、またいつ爆発するのか全くわからないという恐怖が常に付き纏う。たとえば服を取った直後なのか、それとも取る過程なのか、あるいは着ようと立ち上がった瞬間か。つまりどの状況で起きられても地獄を見ることになるのだ。この状況で幼児を一切起こすことなく、幼児をかわしつつ下着を取って服を着るなんてことは、敷き詰められた地雷原を避け、その隙間の僅かミリ単位の細い細い溝を通っていくようなものだ。
ゲームで世に出したのなら、間違いなくクリア困難必死の激難クソゲー扱いだ。ゲームみたいな現実って本当にあるんだな。
どうする。どうする。一瞬で取ろうと焦って布団でも勢いよく捲ってしまった日には、火のように泣き出す幼児と共に人生ノックアウトだぞ。だからってゆっくり取ったら起きないとか、そんなに物事は単純なものではない。というか速度関係なしに、動こうとすればするほど布団と幼児の接触は、避けられない運命なのだ。
上着を取ったくらいでは安心させてくださらないのですね神様。これが試練だというならば耐えましょう。
愛しき偉大なる創造主よ。大いなる試練を乗り越えたその先に光とは、失われた日常への回帰はあるのですね。此度貴方を信じましょう。
神への決意も新たに、この誰もが投げ出すであろう試練に身を投じようと腕を動かした直後――
「うぅん……ふあぁあ……よく寝たぁ」
と幼児が起きあがってしまった。
その時の感情といったら、表現しやすいようで表現しにくいような。
ゲームオーバー。真っ黒画面から進まない。
瞳が――瞳が目視という行為を拒絶している。あるいは脳が視認を拒否しているのか。
今鏡で俺の目を見たならば、ブラックホールよりも真っ黒に塗りつぶされているだろう。お先真っ暗。
朝だというのに、俺にはその日差しがあまりにも眩しい。眩しくて遠すぎるよ。最期に何か娑婆に言い残すことがあるか、と問われるならこう答えよう。
「セーブポイントからやり直させてえええぇぇぇ‼︎」
どこで人生間違えたら、こんな理不尽に複雑回帰した限りなく出口の無い袋小路に迷い込む羽目になるのだろうか。
神隠しだってもう少し温情があるぞ。
さぁさぁ俺の人生双六大一番、振られた賽の目が示すは世の果て、修羅の道、蛇の道、地獄道へと一直線に出よう。向かう先には欲望に満ち溢れたオークや畜生どもが手招きして待っていようぞ。
かくして全てが終わりに満ちた俺に対して、眼前の幼児はいきいきとつぶやいた。
「あっ、いけね。ちえっ、兄ちゃんの方が起きるの早かったのかよ。ったくこれだから俺はいけねぇや。朝弱くて」
それはどこか懐かしい――遠い遠い昔の頃に聞いたはずの、今は亡きかつての仲間の小憎らしい口調だった。
…………って、まさか。
「なんだよ兄ちゃん。しらねぇ仲じゃなかろうに…………ってああっ! しまった。付けるの忘れて思わずサービスしちまったたぜ」
目の前の児童が何やら意味不明な言葉を紡ぐので、その真意を探っていたところ、ようやくその答えに辿り着いた。
「お前、ジュアンかよ‼︎」
幼児とは鉄仮面を手に取り、ツインテールをしまい込むようにして被った。
「あっ、たりーぃ」
仮面をつけると声が一段低くなるのか、それに加えて意図して声を低く出していたのか、とにかくそれは昨晩の厄介者のルームメイトの小生意気な声と憎たらしい姿そのものだった。再び仮面を外して置いたが、もうどっからどう見ても別人だった。
ふと隣のベッドを見るとそこにあるべきやつの姿がなく、もぬけの殻になっていた。なぜ気付かなかったんだ俺は。
いやたとえそこに気付いたとしても、眼前のどう見ても幼女のツインテールが一晩共にしたルームメイトだなんて分かるはずがないだろう。違いすぎるわ。
とりあえず目の前の小さな赤毛が、かつて見た悪友であるという事実を噛み締め、見ず知らずのいたいけな幼女を連れ込み、剥いだ上に乱暴して朝を迎えたという海よりも深い罪を償うべく、舌を噛み切って自害の詫びを入れる準備をしていた顎を開いて白い息を吐き出すと、それまで暗黒の未来に直面したショックで停止していた心臓が徐々に動き出していくのを感じた。
――というか。
「お前‼︎ お、男は二階だなんだと言っておきながら!」
「あー違う違う。俺はこう見えて男だぜほら」
そういうと奴は立ち上がり、最も男らしい男の中の男の象徴を自慢げに見せつけてきた。
「わあああ! やめろやめろ! しまえしまえはよ服着ろ!」
「兄ちゃんには言われたくねぇなぁ〜ほれっ!」
声を弾ませながらジュアンは、今の俺にとって唯一防御源であった布団を無造作にばっとその辺にはぎ取り捨てた。互いが男の象徴を交換し合った、世界一不毛なやり取りを終えたあと、過呼吸まじりに俺が咽せながら言った。
「自分から脱いだ覚えなんかないぞ! やっぱてめぇが夜中脱がせて悪戯しやがったんだろ‼︎」
「おっ、ご明察〜。兄ちゃん俺のこの姿知らないだろうし、効果てきめんだろうなぁーと」
「ふざけるな! 悪戯にしてもやっていいことと悪いことがあんぞ!」
怒りに満ちた俺は思わず奴のツインテールを掴み取った。俺の怒りなど我知らずといった程げらげらと大笑いしており、その態度がまた火をつけた。
服を着るのもすっかり忘れて、いかにしてこいつを懲らしめるかで頭がいっぱいだった。それ故に、この部屋に向かって歩いてくる足音に気付くはずもなかったのだ。
「なんだなんだ、男たちよ。もう起きてるんじゃないか。まったく、朝から元気だ――…………」
威勢よくドアを開いて現れたのはよりにもよって我らが女傑、レヤンロさんだった。それまで紡いでいた彼女の言の葉が途中で途絶えたのは、おそらく今朝の俺と全く同じ光景を目の当たりにした衝撃によるものであることは、この状況からは疑いようがなかった。
「違う‼︎」
浮気現場に代表される修羅場お約束のテンプレートな言い訳を、脊髄に届くよりもよりも早く反射で投げつけてみたものの、どう考えても起死回生不可能のやばすぎる状況だった。
全裸で同じく全裸のツインテールの児童に掴みかかり、朝も早よから襲いかかる暴漢。不審者。頭文字にペが付く度を越えた変態野郎。
状況を悪化させている要因がこいつ、件のツインテールショタのジュアンだ。
まだ鉄仮面でも被っていればプロレスの練習だの色々と言い訳ができたものの、今やこいつは別人のようなベビーフェイスを晒しており、その上何故か泣き顔になっている。
多分さっきの揉み合いで大笑いした時に出た涙であろうが、その前後を知らないものが見れば、あたかも欲望に満ちた全裸で暴漢の畜生に、性的な暴力を与えられた事に対する拒否反応としか捉えられないだろう。
しかもこいつ状況察してか、もっと目を潤ませやがった。
この野郎とことん俺を地の果てに引き摺り込む気でいやがる。
その全てを理解したのか――、それは完全なる誤解であるのだが、それを釈明する余地すら与えられず、レヤンロは何も言わずに自ら開いたドアをそっと閉めた。それが全ての終わりを告げられた合図であるということに異論はなかった。
「待ってくれ! 違うんだ! 俺はこいつにハメられたんだ!」
もうどんな言葉で言い繕っても取り返しのつかない、終わりなき地獄に叩き堕されていたのだが、それでもなんとか地位の向上を試みて発言をした。しかし、客観視すればするほどどう考えてもこの状況に妥当な言い訳が思いつかず、むしろ喋る度に状況を却ってめちゃくちゃ悪化させているだけであった。
俺が必死で惨めに全裸で鳴けば鳴くほど、後ろの小悪魔は悪意に満ちたしたり顔でにんまりと微笑むばかりであった。
こいつの方が俺なんか、非人道的オークの皆さんなんかよりもよっぽど悪魔してるって。
やられた。全てはこのためだったのか。
こんなことならベッドに身体でも縛り付けて、服も脱がされないようにしておけばよかった……!
完全に誤解されてしまった。それもなんかあらぬ方向に。
失意のうちに沈む俺を見て笑いを堪えながら、ジュアンはどこに隠していたのか分からない自身の服を出してきて淡々と着始めた。
「はやく服着て下降りろよ」
とまるで事後のような雰囲気を漂わせ、タバコを吹かせる指遣いを取って淡々とその場を後にした。
何故俺がまるで捨てられた奴みたいな感じになっているのだ。
とにかく大いなる誤解の種が発芽しお茶の間談義に花が咲き、新たなる誤解の果実を実らせる前になんとかしなければ、とようやく手にした初期装備を急いで着て一階へ降りて行った。
これまで幾度も朝を迎え、様々な朝食の場面を経験してきたが、この朝食よりも気まずかった時間なんて、過去にも未来にも存在しないと断言できるだろう。
比較的早起きとなったレヤンロ、ジュアンそして俺の三人の布陣が、他のまだまどろんでいる仲間より一足先に食卓へとついた。
まず人選がこの世の地獄を極めている。というのは、この状況を誤解を解けるチャンスだと見れるほどの希望的観測が、そんなことは絶対に不可能であるという、それよりも遥かに深い巨大なマイナスによって絶望の海の底に沈んでいるからだ。
朝食なんてとてもじゃないが喉を通らない。正直目玉焼きがスクランブルエッグがどうとか、そういった事情も最早問題ではない。例えるならこの気まずさは、家族団欒で食事を楽しんでいたところ、何気なく付けたテレビにたまたまセクシー女優の「いやーん」な場面が映されたエッチな番組が流れた時のそれに近い。しばらくはまともに家族の顔を眺めることができないあれだ。
気まずさで味がしない現象って、本当にあるんだ……。
さっきから俺たちは、時の過ぎるままに卵焼きを口の中に運ぶだけの永久機関となっていた。
いかん。例えここでこれ以上何を失っても誤解だけは解いておかねば。
あれほど飯の時頑として外さなかった鉄仮面を外し、可愛らしいつるつるな顔を晒して悪意満載の笑みでにやけている隣の席の全ての元凶に対して、俺は鋭い眼差しを浴びせかけた。
なんとかしろ。そもそもてめぇのせいで全部こうなってしまったんだぞ。それにお前も、誤解されたままで今後メンバーと食う飯はさぞ不味いだろう。この気まずい空気を変えるような助け舟を出しやがれ。
暗雲立ち込める食卓を切り払わんと、ようやくジュアンは口火を切った。嵐の夜が続いた船を導くように、灯台に火が灯ったのだろうか。
「昨晩はすごかったなぁ…………」
「お前は俺にぶっ殺されてぇんだな! そうなんだろ‼︎」
助け舟を出してくれるどころか普通に全裸にひん剥かれた挙句、簀巻きにされて海の底へ重りつけてぶん投げられたぞ。
だめだ。こいつ完全に楽しんでやがる、俺を玩具にして。
つまりこいつが喋れば喋るだけ状況がどんどん悪化する。嵐から切り抜ける云々以前に、タイタニックよろしく岸壁に激しく座礁した船だが、まだ沈み切ってはいないはずだ。大丈夫。諦めなければなんとかなる。
しかし俺のそんな浅はかで、にわか雨が上がった後の水溜りよりも浅く薄っぺらい目論見はよそに、レヤンロは主に俺に対して軽蔑の意を込めたような、ハイライトを失った光の点らない冷め切った瞳を向けてきていた。
「ええと。つまりキミたちはそういう関係だったという理解でよろしいのかな?」
「いやいやいやいや‼︎ 待て待てよろしくないよろしくないって‼︎ だから俺はハメられたんだ! 被害者なんだって、信じてくれ‼︎ 俺は何もやましい事なんてやっちゃいねぇ!」
信用の光が消えかかっている灯台に、精一杯なんとか身振り手振りジェスチャーを交え必死で弁解の火を灯そうとした。勿論そんなことで状況を改善できる事なんて無く、レヤンロは相も変わらず感情の消えた人形のような死体の目で「ふーん」と虚に呟くと、眼前の卵黄色をじっと見つめているだけだった。
「私にあんな事までしておいてっ、まだ言い逃れする気なの⁉︎ このお腹を見て! あなたこの子を堕ろせっていうの⁉︎ この人殺し! 浮気者! 甲斐性無しの破廉恥野郎っ‼︎」
「おめぇはホントに黙ってろ‼︎ 状況ややこしくしてんのは全部お前なんだっつの! あとその腹は朝飯大量にがっついたからだろ! 人の気もしらねぇで呑気によ!」
なんでそんな昼ドラ真っ青な、下手したら夕方まで胃もたれするような激重後味最悪な設定になってんだよ。それじゃ俺は無責任最低クズ男じゃねぇか。
案の定食べ過ぎた芋と卵焼きが腹の中でちゃんぽんしたのか、嘘を自白するように「げっぷ」と汚い音を可愛いらしい丸々とした口から吐き出して腹をぽんぽんと撫でていた。
そんな「ふぃ〜食った食った」みたいな事されても。歯、フォークの先でちーちーすんな。歯茎怪我すんぞ。ったく、ますます憎たらしいわ。
一連の漫才劇場をこなしていると、レヤンロさんがきょとんと目を丸くした後に大きな笑い声を上げた。
「あはははは……! い、いやすまない。ほ、本当は知っていたんだよ。キミがどんな反応をするか見てみたいと彼に昨日頼まれてね」
「なにぃー‼︎」
俗に言うドッキリだったというのか、しかも一日漬けの。
全てを白状されたツインテールは、両手で髪の先端を掴んでゆっさゆさと小気味良く揺らして踊っていた。
「いやーどうだいミュピリポス。俺たちの身体を張った夫婦漫才は」
「楽しませてもらったよジュアン。それにしてもキミたちはとても仲が良いのだな。男の友情……とでも言うやつか?」
「ち、ちげーよ誰がこいつと……」
俺の首に両手を巻いてきたジュアンを、振り解くように弁明した。しかし嫌そうにすればするほど、段々と首に巻く力が強くなっていく気がした。
よく見ると憎らしい面そのものは本当に愛らしい赤毛の少女であり、戯れてくる娘、姪――いや、妹のようでもあった。
そう思うと満更でもない自分がいた。年の離れた妹がいるとこんな感じなんだろうか。食事中でも兄に構って欲しくて、自分を見て欲しくて兄を困らせるような事を続ける、みたいな。
そうか男だと思うから(本当に男なのだが)無性に腹が立つのかもしれない。ならば俺も全てを許し、受け止めて包み込む菩薩の心を持って対応すべきなのか。
頭をしきりにすりすりと擦り付けてくる様子なんか、とても愛らしいじゃないか。これで「お兄ちゃ〜ん」とでも言ってくれたなら完璧だ。あと乳が実っていれば。
精神年齢は外見同様幼い可能性がある。ここは年上の俺が寛大な気持ちで接してあげるのが道理というもの。
こんなでも一応、一宿一飯の世話になったこいつに、感謝を示す意味でも頭くらい撫でてやろう。
そう思い右手を真紅に揺れるツインテールの間にある、渦巻き状のつむじに向けて手を伸ばし、掌で優しく頭部をなぞった。
「あっ、触った」
突然マジトーン全開の低い声がしたのでさっと手を反射的に引っ込めてしまった。
「兄ちゃん、今俺のムネェ触ったろ」
「な……⁉︎ そ、そんな事してな」
しかしこの角度では俺とこいつ以外には、お互いが身体のどの部分を触ったかなど分かりようがなかったのも事実だ。
なにせこいつの頭がほとんど俺の下半身からやや上半身にかけて、食い込むようにして覆い被さっているため、俺の無実を示すもう片方の手は、完全に見えなくなってしまっているのだ。
あたかも机の下の死角からいたいけな胸を撫で回したという、痴漢冤罪も甚だしいレベルの疑惑をかけられても、なんらおかしくはない。しかも俺は今、さもやましい事があるようにして咄嗟に手を離してしまった。
これが犯行の証明にも繋がりかねないということ。
そして日頃レヤンロさんや町娘の胸部を舐めるようにして見回していたこと。そういう視線に敏感なのが女性というもの。俺はバレてないと思って、というかホントついつい渦にでも吸い込まれるように釘付けになってしまったのだ。仕方の無い事なのだ。そこにおっばいのある限り、別段用などなくても眺めてしまうのがまた男性というもの。いや、むしろおっぱいがそこに二つもぶら下がっているというのに、一瞥もくれず女性を見つめることは「貴女にはどうやら眺める程度のおっぱいすらないようだ(笑)」と目の前で言い切っているという、大変失礼な行為に値するのではないか。よって俺がおっぱいの一つや二つに見惚れてしまっていてもそれは無実の不可抗力、挨拶の一環に過ぎないのだ。
しかしそうして自分がおっぱいを眺める事を正当化すると、今度はこのツインテールのなけなしのおっぱいをどうこうしたことに関して、事実とは無関係でも懐疑の目を向けられる事に繋がるのだ。
この二点から、俺がこの状況で用意できる否定の弁は塵一粒ほどもないと言うわけなのである。たとえそれが紛れもない冤罪であったとしても!
そんな俺の罪悪感に漬け込んでか、赤毛はわざとらしく、しかも限りなくリアルさを追求するようにぱっと俺から離れ、自分の手を胸に当てて丸くなっていた。大事な卵を外敵から守る親鳥のように。
それホントに触られた人がやる奴だから‼︎
やめてよ無駄にリアルだからそれ!
「さ、触るんだったら言ってくれよ。だ、黙ってないでさ」
無駄に横目をちらちらちらちらと右に左に交差させながら、せわしなく指に髪の先っちょを絡めて回していた。
「だから触ってねぇっての!」
しかしこの状況の最終的なジャッジを測れるのは俺でも、目の前の小悪魔でもなく紅一点のレヤンロさんなのだ。
彼女の判定によるとどうやらアウトらしいことが、その若干ぎこちない表情からうかがえた。
「ま、まぁほどほどに……な」
と冤罪事件を有罪判決して、そそくさとその場を去ろうとしていた。
裁判長、待ってください。目の前にいるこの限りなくピュアな男性めは被害者です。これは真っ赤な嘘です。おっぱいに魅了されたのは、純然たる人間の証――。しかしそれと今回の件は無関係であり、私はそれでもやっていない。やっていないのです。
「待ってくださいませぇえええ‼︎」
と俺も不起訴に追い込むべく、彼女の後を追うように大地を蹴り出した。
置いていかれた原告人は、今なお楽しそうにその場でくるくると回っていた。