03 街に着く。そしておかしな無双が始まる。
その後俺は行くあてもまるでないので、女騎士ことレヤンロさんに着いていくことにした。レヤンロさんは少人数のキャラバン隊ともいえる人々と共に行動していたようで、帰りは優雅にも馬車に乗って行くこととなった。自動車での移動にすっかり慣れ浸り切ってしまった現代人の俺にとって、馬車でのレトロな移動は新鮮なものだった。
本当に馬って「ヒヒィン」とアニメや映画みたいに嘶くのだな。揺れも激しいものになると顎の奥を噛み締めて覚悟していたものだが、自動車のそれとほぼ大差ないような、たいへん心地良い旅路だ。程よい揺れのおかげで、危うくうっかり眠りについてしまうところだった。
彼女たちがゴブリンひしめくあの洞窟に行っていた理由は、洞窟内の最深部に自生している薬草を取りに行くためであり、俺はそのついでに助けられたらしい。あの見るからに禍々しい花々や草木の一団は薬草だったのか。いやはや、ファンタジーお馴染みの便利な回復アイテム薬草も、実物は案外グロテスクな物なのだな。
帰路につく道中、パン一で丸腰状態の俺に、レヤンロさんはありがたい事に店で調達した服と食糧を恵んでくれた。それまでは自分の外套を俺に、寒くならないようにとかけてくれていた。優しくされるのはたいへんありがたいことなのだが、もう立場がない。初めからなかったといえばなかったが、もうあの人の中で俺はすっかり守られる側になってしまっている。
このままではいかん。なにかドラゴンとかやってきてそれを退治して早く俺すげー展開に持ち込まねば。
ちなみに頂いたものにケチをつけるつもりは全くないのだが、服は完全に転生時に身につけていたあのオンボロと寸分違わぬもので、食糧のパンはガッチガチに硬かった。
あの女神が転生時俺に拵えた衣服は、やはりこの世界ではどこでも手に入る初期装備だったのか。
いや貰えるだけありがたいものなのだが、まさかこの世界貧乏なのではないだろうか。
異世界名物、クズのゲスい金持ち領主がいたいけな市民から金をせしめて、活きの良い人民が日夜奴隷か馬車馬のようにこき使われ、心身共に貧しくなっていってるやつか。
だとしたら腕が鳴る。練習してきた伝家の宝刀、「きたか……ポキ」を衆目に晒す日がきたのか。
試しに鳴らそうとした手はポキどころかグキっていった。痛い。
「着いたぞ」
などと、くだらない思案を重ねているところでようやく長きに渡る馬車の旅路は終わりを迎えた。
「ここが私たちの目的地、リンシャの町だ」
馬車を降りてやってきた町の情景は、とてもじゃないが美しい町並みとは程遠く、一般的に想像される西洋の石とレンガ造りの建築物たちは見るも無惨な瓦礫と化していた。
そこら中に黒煙と火の粉が立ち込めており、今もなお戦の生傷が絶えない状態であった。
傷まみれの町で唯一被害にあっていない、比較的大きめな聖堂に辿り着いた。
「お帰りなさい。ミュピリポス様」
「アレイン。遅くなってすまなかった」
扉の前でレヤンロさんを出迎えてくれたのは、紺色の絹で作られた装束を身に纏った聖堂女、所謂シスターと呼ばれる者の格好をした女性だった。
足まで覆い隠すほどのロングスカートに、かろうじて痩せ細った手の甲が見える程度の長袖が、全身でその厳しい戒律を表しているように思えた。
周囲の状況を見るに、今この人も大変な状況に置かれているのだろう。目の下にある色白い肌に似つかわしく無い真っ黒な隈が、生活の悲惨さを物語っていた。
レヤンロさんたち戦える強い者たちは、遠征して食糧や衣服などの物資をこの町に届けている。また、町の外からも強力な助っ人を頼んだりもしているらしく、レヤンロさんも元々は外部の雇われ戦士らしい。しかし町中からお金をかき集めても、助っ人一人雇えるかどうかという厳しいものであり、レヤンロさんのように無償で奉仕活動に協力してくれる者は非常に少ない。
頼みの綱の物資配給も、町全体に滞りなく行き渡るかは難しいという。何故なら……
「グリドです。あいつがこの町にやってきてからもう滅茶苦茶なのです。三つ目の化け物で、鬼のようにとんぎった角を生やしているまさにこの世の悪魔のようなやつで、一日数百もの酒や食べ物を要求するに飽き足らず、面白半分で間いている店に火をつけたり、見せ物として大人の男たちを殺してみせたり……反抗する者は容赦なく八つ裂きにされ、奴に立ち向かっていった数多くの戦士たちが犠牲になり、今ではもう対抗しようとする者もいなくなってしまったのです」
「なるほど〜。いやそれはもう悲惨としか言いようがありませんな……」
「ミュピリポスさんは私たちに残された最後の希望なのです」
コップにお湯を注いで持ってきてくれた朱色で長髪の町娘は、か細い声でそう言ってくれた。
珈琲やジュースといった贅沢品なんてない為、本当に単なる暖かいお湯だった。厳しい生活を強いられているのだろう。外にいたシスター・アレインさんと同じく痩せ細っており、血色の悪い肌に浮かぶ目の下には隈があった。やはりシスターも戒律を守って身を切るような節制してる訳でもなかったようだ。それにしてはあまりにも不自然に病的すぎる。
この古ぼけた聖堂は生き残った町民たちにとって言うならば最後の砦になっており、逃げてきたそれぞれが身を寄せ合って生きている、今や無くてはならない場所だった。
人々はどうにか必死で明日を生きているといった様子で、通路で母親らしき人物に抱えられながら泣き出す子供までいた。
「みんな安心してくれ。この通り水や食糧に薬も持ってきた。それに本日中に私があのグリドを倒す。必ずな」
怯える人々の中心に立ち、不安を払拭するかのように激励の一声でまとめ上げ、勇気つけるレヤンロのその姿は戦場の女神のようであった。ステンドグラスの窓から差し込む光を受け、期待の眼差しを一身に浴びて佇むまさしく英雄である。
それまでに充満していた悲壮な雰囲気は消え去り、人々の顔には笑顔が溢れかえった。
すごい……。まあそりゃあこんなに強い人があんな心強いことを言ってくれたなら安心するだろう。
この人になら着いて行ってもいいんじゃないかという気持ちと、どんな悪にも立ち向かっていける勇気が湧き上がってくる。
かくいう俺もその空気にあてられた一人であり、そのグリドとかいう魔物を一目見たくなってきた。
話を聞くに、あの洞窟にいたゴブリンよりも凶悪で強力な魔物であるらしいが、ならばなおのこと倒す価値がある。ここで俺がその悪鬼羅刹をぶちのめせば、町民たちの好感度は爆上がり間違いなし。さらにこれまでレヤンロさんに見せつけてきた情けないイメージを払拭すると共に、新たなイケメン像に魅力された彼女が「素敵。結婚して」となるに違いないのだ。
そうとなれば話は早い。早速準備に取り掛かっていると、レヤンロさんが心配そうな顔つきでこちらを見ているのがわかった。
「き、きみ。一体何をしているんだ?」
「いえねぇ。その……俺もあなたと共に戦うためにですね」
「いや、着いてこない方が良い。これから始まるのは紛れもない死闘、どちらが死んでもおかしくない命の奪い合いになるのだから。そんな戦地にゴブリンにやられていたきみが行くべきではない。無駄に命を落とすだけだ」
こうもはっきり淡々と事実を、それも足手まといな扱いを受けると流石の俺でも凹む。
まぁ誰がどう見てもあの場面では俺が追い剥ぎにあっていたようにしか思えまい。この世界でもまだ下から数えた方が早いワーストクラスの強さしかなさそうなゴブリン程度に好き放題やられていた人間が、屈強な戦士たちを次々と墓場送りにしてきたという怪物、グリドに挑もうなど自殺そのものとしか思えないのだろう。それに戦場において、徒党を組んだ部隊にとってなにより足手まといになるのが実力の大きく離れた弱い者だ。ある程度自分の身は自分で守れる強さはないと、チーム全体がその弱者のカバーに入らなくてはならず、結果として隙が生まれやすくなってしまう。囮として使い潰すにしても、結局は同じくらい強いものが囮役を買えば、お荷物を囮にするより遥かに利便性が高く、リカバリーがいくらでも効くからだ。よくあるギルドやパーティー追放も、クエストや作戦の成功の足を大きく引っ張る雑魚を弾き出して、実力が限りなく近い者同士で組み合いたいからに他ならないのだ。
さらにいえば俺はレヤンロさんの部隊についてほとんど無知に等しい。チームで戦闘する場合、戦術や出方、仲間内での役割を可能な限り熟知している者が部隊に多い方が効率よく、かつ優位に事を運ばせることができる。即席で結成すると、余程のことがないと連携を合わせることが困難になってしまう。わざわざそんなリスクを背負って新入りを使うメリットなんて、やはりそうそうないのである。だとすればどうしよう。こうしてここで大人しく待っているわけにもいかない。道は一つしかない――。
レヤンロさんの一団の準備が整い、グリドを討つべく勇み足で聖堂を後にすると、俺はこっそりとつけていくことにした。
それもただ後ろを追ってもすぐにばれて、連れ戻されかねないので、建物の屋根の上から追いかけることにした。
幸運にもこの聖堂には屋上に抜ける階段があり、そこから俺は隣の民家の屋根から屋根へと渡って行った。
完璧だ。まさか屋根の上から追いかけてくるとは夢にも思うまい。それが証拠にレヤンロさんたちの部隊は誰一人として俺の尾行に気付いていなかった。いける。
どうせ断られて留守番になるだろうことは火を見るよりも明らかだった。ならばと上から追いかけようと即座に切り替えられた頭脳を我ながら褒めたい。
時代劇の御庭番や忍者さながらの屋根渡りを続けていると、まもなく一団が一際大きな店の前にたどり着いたのが確認できた。
目を凝らしてみると、そこには人とは思えないほどの巨体で、黒く長い角を生やした三つ目の怪物が、愉快そうに店に火を放っているのが見えた。不健康そうな真っ青な体色に、ところどころ破けた服を重ねていた。
皆の話を統合すると、あれが件のグリドと呼ばれる怪物だろう。また、奴一匹だけではなく、その配下と思われる羽を生やした小さな化け物たちが複数匹で集まっていた。全員目が三つだったので、もしかしたら同じ種族なのかもしれない。自身の手にある松明で燃え盛る店を、不気味に蠢く三つの目で見つめて小気味良く手を叩いて囃していた。
「燃えろ燃えろ! げげげもっと燃えろぉー! 人間の造った町なんか全部燃やしてしまえー!」
グリドが大きく手を振るうと、それに呼応するように小さな化け物も手を叩いて喚いた。
「やめろ! 貴様がグリドだな!」
怪物たちの大合唱を静めたのは可憐なる女騎士、町を救わんと立ち上がった英雄、レヤンロさんだった。
祭りを邪魔されて不機嫌なのか、グリドと配下の魔物たちは楽しそうな表情から一転、悪魔らしい醜悪で怒りに満ちた表情に変わった。
「あぁん? なんだてめぇらは。人間か?」
「いかにも。ミュピリポス・レヤンロだ。貴様のような非道の限りを尽くす忌むべき悪党を討つべく、こうして参上した。覚悟しろ」
剣を引き抜きながら凛として佇む英雄に対して、悪魔たちはお構いなく攻め上がっていった。
「また命知らずの挑戦者がやってきたか……面白い。遊び相手くらいにはなってもらおうかな」
グリドが合図する前から、小さき悪魔たちは一斉にレヤンロさんたちに襲いかかってきた、
しかしその動きをまるで「読んでいた」とでも言うかの如く颯爽と躱し、鋭い剣の一閃のもとに小悪魔どもを斬り伏せていった。
黄色い悪魔の真っ赤な飛沫が彼女の頬にほとばしるが、気にも留めず鬼神の如く怪物の群を薙ぎ払っていった。
それはかつて彼女が洞窟のゴブリンを一掃してみせた光景の再現であった。小悪魔たちの悲鳴合唱と亡骸に包まれながら、グリドの背後で燃え盛る炎が、彼の内から湧き出た怒りを表すように段々パチパチと激しく音を立てて熱を帯びていった。
やがて雑魚の群れを一掃しきると、レヤンロさんは剣を突き立てて「次はお前だ」とグリドに鋒を向けた。
「小娘風情が! ザコどもを倒したくらいで頭に乗るんじゃねぇぞ‼︎」
グリドが大きく息を吸い込み力を込めて唸ると、大地が激しく揺れ動いた。その集めた力が虚勢ではない証拠に、殴りつけた地面は叩き割れ、風圧がレヤンロさんの部隊を引き裂いた。
負けじと彼女も大きな剣を振りかざしたが、その斬撃が届く前にグリドの大きな手のひらでがっちりと掴み取られてしまった。
白羽取りの要領で掴まれた剣がしばらく離れず、グリドの放った蹴りをダイレクトに受けることになった。
が、剣を咄嗟に手放して受け身の姿勢を取っていた為、衝撃にはなんとか耐えることができた。地面を靴で激しく擦りながら後退させられたが、腰につけていた短剣を手に取り、もう一度攻めに転じるつもりだ。
それは素人目から見ても素早い、むしろ決して遅くない出だしだったのだが、グリドはそれを読んでいたかのように、突撃するレヤンロさんより一手先に巨大な拳を振りかざしていた。
両の腕で覆うように防御の姿勢を取ったものの、グリドが殴りつけてきた時は、鎧が大きく軋むほどの衝撃を受け、外傷こそなかったが、しばらく腕が思うように動かせない様子だった。
「くっ……!」
「ははは! いと脆弱なる人間どもよ。その程度の実力でこのグリド様に挑もうとはな! 散っていたてめぇらの哀れな同胞と同じく、ここで無惨に死ぬが良い!」
「待てぇい!」
と屋根の上から声をあげたのは紛れもない俺だ。
レヤンロさんにとどめの一撃を浴びせようとしていたまさにその時、見せ場はここしかないと派手に大見得を切った。
「何者だ!」
「人呼んで正義の味方。異世界最強の戦士。誰が呼んだか愛と勇気の使者、人類の希望、大英雄。悪を裁く光の鉄槌をくださんとこの世に生を受けしぎゃあああ熱‼︎」
そこまで言ったところでグリドから火炎の攻撃を受けた。
あいつ口から炎も吐けるのかよ。
格好つけた代償か、丸焦げ黒焦げアフロ頭にされて屋根から叩き落とされた。
「なんだこいつ。ただの阿呆か」
全くもってその場の誰もが思ったであろう、至極正当なご感想であった。
「何をしにきたんだ! 危険だから戻っていろと言ったじゃないか!」
「こ、こんなはずじゃなかった」
実は俺には勝算があったのだ。それはあのゴブリンダンジョンにて発動した俺の最強スキル。あらゆる攻撃を弾き飛ばし、傷一つ受けない無敵の能力。あれが発動すれば目の前の怪物など、恐らく屁でもないだろう。あの女神が本当に俺に無双できるほどのチート能力を与えたのなら。
……まさかゴブリン限定の特化スキルではあるまい。
それならなぜ服を裂かれて突然発動したのだ。もしや受けを狙って「ゴブリンに衣服をビリビリに脱がされなければ発動しない最強スキル」を付与したのだろうか。いやいや、状況がピンポイントが過ぎる上に性癖が悪辣過ぎる。
しかし、やはりどうも狙って発動できるものではないらしく、むしろあれが発動していない時はただのクソ雑魚一般人に成り下がっていることが判明し、溢れ出た冷や汗は止まりようがなくなっていた。
完全に失策。アウト。
全滅は必死。やばい。
「ははは余興もこれで終わりだ! 死ねぇ!」
などと、悪役ポイント満点のセリフを件の化け物が叫んだのを聞くと、俺はいよいよこの世の終わりを覚悟した。
嘘だろ。華の異世界ライフ。二度目の人生。こんなにあっさりと終わってしまうのか。ハーレム帝国も俺ツエーも何一つ実践できず。
い、いや待てよ。もしかしたら――。
ダメ元で俺は腕を後頭部で組み、足を交差させてみた。
渾身の力を込めて放ったであろう、グリドの一撃は丸焦げ無一文に等しき人間が喰らったなら、間違いなく即死、いやミンチになっていたことだろう。
だが。
「こ、これは一体……」
その特異な状況に驚いていたのはレヤンロだけではなかった。
殴りつけたはずのグリドの拳は砕け散って倒れ込み、誰もが予想していたおぞましい状況からは大きく外れ、まともに立っていたのは俺だった。
「ぎ、ぎゃああああああっ‼︎ な、なぜだぁあああ! てめぇ、何をしたぁ‼︎」
とめどなく腕から溢れ出す鮮血を抱えながら、地に落ちた巨大な化け物は叫び声を上げて喚いた。
「やっぱりな……」
ようやく俺はこのチートスキルの全貌を把握した。把握してしまった。
このスキル、どうやら俺が「非常にダサいポーズをしている間のみ、絶対無敵の最強になれるチート能力」らしい。
それも、恥ずかしいあられもない格好でやってる時限定で。
「いや、どんなスキル与えてくれてんだあの女神ぃいいいー‼︎」
そんな俺の悲痛な叫びなど届くはずもなく、仕方なく代わりに怒りの矛先を目の前の怯え切った化け物に向けることにした。
「さぁ覚悟しろ……化け物め。俺が相手だ‼︎」
ここでドンッ、と格好良く決まった……はずだった。
ポーズがクソダサでさえなければ。
案の定、レヤンロさんや周りの誰も「スゴイやつが現れた!」とは程遠い、深夜に現れた露出狂の不審者でも見つめるような若干のドン引きを含んだ冷ややかな視線を向けていた。
当然だ。何が悲しくてこんな姿勢続けてないといけないんだ。
黒く焼け焦げた衣装の半裸姿。
いや見ようによっては七十五パーセント全裸のこの見るに堪えない醜態を晒して。
だがその醜さに反して、状況は思った以上に俺の優勢であり、ちょっと前に受けたはずの怪我も、どうやらこの限りなくダサいポーズをとっている間は回復するようで、ボロボロになった痛ましい服に反して、俺の美しくも健康的な肌色と半尻が目立っていた。
さてどうするか。
このまま攻撃が来るのを待って敵の自滅を煽っても良いのだが、目の前の拳が砕けた哀れな化け物は、もう馬鹿正直にこちらを殴ってはこないだろう。
攻撃が通じないとわかってしまえば、俺を狙ってくることはないかもしれない。
なら俺が奴に攻撃するしか道はないのだが、このポーズだとかなり歩きづらい。足を左右にこれでもかと言わんばかりに交差しているため、歩き出そうにも足が出ない。
下手にこの姿勢を解いてしまうと、また元通りのクソ雑魚一般人に戻ってしまいかねないので、しばらくこの変な姿勢でプルプルしているしかないのか。
なんとか震える足を反復横跳びの要領で、交差した姿勢を崩さず蟹のように横歩きしてみた。
どうやらこのチート能力発動中はすごいスピードも発揮するようで、人類の宿敵、唾棄すべき不快感を放つ漆黒の悪魔、蜚蠊のようにカサカサと左右に激しく、光のように早く走り出した。
「ひ、ひいいぃ!」
それは誰がどう聞いても追い詰められた側の者が発する心底怯え切った声色だった。
逃げても追いかけられることが分かってしまったグリドは、本来の体色よりも数段濃ゆい、青ざめた表情でこちらを見つめていた。
「は、ははは! もう逃げられんぞ、覚悟しろ化け物!」
精一杯強気な台詞を吐いてみたものの、その場で誰がどう見ても化け物なのは俺の方だった。
軽快に不快なゴキステップを踏み散らしながら勢いよく距離を詰め、不気味な姿勢を保ったまま体当たりした。グリドは激しく宙を体操選手のようにアクロバティックに空高く舞い上がり、やがてゆっくりと落ちてきた。
「今だ!」
このまま殴る蹴るのとどめなしでは、絵的にも気持ち的にも映えないと思い、咄嗟にブリッジの姿勢を取った。
そして落ちてくる巨体に向けて上半身を曲げた状態で足を伸ばし、ストレッチ体操のようにグリドの巨体を蹴り飛ばした。絵面はバレエや新体操のそれに近い柔らげなものだが、その衝撃はブレーキの壊れた高速走行中のダンプに直撃されるが如く――否、それ以上だった。
青く大きな体は遥か遠くの酒場まで吹き飛び、壁と看板をその身で叩き割って突き破り、ようやく勢いが止まった終着点にて、断末魔の一言も上げず静かに息を引き取った。後世には語り継いでいけないほど、これ以上ない惨めな最期であった。好き放題暴れるだけ暴れ回り、人の世を掻き乱したケダモノに相応しい末路であろう。
あばよ怪物。あの世で女神様に会って心を入れ替えれば、来世には巨乳美少女に転生させてもらえるかもな。
「大丈夫ですか。皆さん」
宿敵は無事倒したものの、この先また何が起こるかわからないので、俺はブリッジ状態を崩すことなくレヤンロさんたちの元へ駆け寄った。
「あっ、ハイ……」
その大変不気味な様を見て、全員が他人行儀とそれなりに距離を取るようにして、ささっと走り避けた。かくいうレヤンロさんも先程までの出来事が信じられないという表情で、徐々に汚物か化け物でも見る奇怪な視線を向けていた。まぁそれは頑なにブリッジの姿勢を崩さず奇妙な左右移動した俺のせいという事情もあるのだが。
それは全ての敵を撃破した勇者の凱旋とは思えないほどおかしな絵面であった。未だブリッジで裏返った俺の腹の上には、激戦の戦果を刻むようにグリドの遺体が乗っかっていた。
このチート発動状態であれば、重さを一切感じなくなりどんな重い荷物でも運ぶことができるようになると分かった。
倒すだけで他になにもしないのは忍びないため、物置としての役割を自ら買って出た次第だ。本当に人間数人に匹敵する巨体が我が腹部に乗っているとは思えないほど軽い。むしろ羽のように軽い。しかもどうやらバランスとか重力とかそういった概念や物理法則の類の一切を無視しているようで、俺の体の上の巨体の上からさらにみんなの荷物を乗せることができた。俺が変な姿勢を取っている間はもうなんでもありのようだ。このおかしすぎる状況を、レヤンロさんの仲間たちはなんとなく笑って受け入れてくれたようだが、当のレヤンロさんはまだ疑惑を隠せないといった感じだった。
しきりに可愛らしくつんつんと乗せている物をつついていたが、微動だにしなかった。まぁ役に立っているならなんでも良いよ。
「皆のもの、ただいま帰ったぞ」
時間にして数分も立っていないだろう。俺たちは町のみんなが待っている聖堂に戻った。誰もが予想していなかった結末だったであろう。みんな驚きを隠せないといった様子だったが、グリドの物言わぬ姿を見ると大歓声を上げた。
泣きながら抱き合うものや、楽しそうにジョッキを投げながら大笑いしているものなど反応は様々だった。久方ぶりの和平を勝ち取ったのだ。無理もないだろう、今日一日くらいは……。
……いや、この人たちの過ごしてきたこれまでの凄惨な日々を思えば、ありのままの平穏な日常が戻ってきた喜びなんて、尋常ならざるものだろう。もう誰も理不尽に殺されなくて済む。そう考えると、いかにこの人たちが置かれていた状況がおぞましいものであったかよくわかる。毎日が紛争状態だ。心が休まる日なんかなかっただろう。いや、本当によかった。
俺が子供を救わんと飛び出したあの日、見たかったのはこの笑顔だ。異世界のあんな形で叶えられたとはいえ、気持ちが良いものだった。
その日は本当に一晩中宴が続いており、レヤンロさんたちが持ってきた食糧なんか一瞬で尽きてしまうほどの大盛況だった。
あるいは無念のうちに死んでいったものたちへの弔いでもあったのかもしれない。天にも届くほどのどんちゃん騒ぎの中、俺は未成年ゆえ酒も飲めないため、ようやくありつけたまともな食事と葡萄のような果物から搾り取れたジュースに舌鼓をうち、思う存分宴を楽しんだ。特に『ポロイポ』と呼ばれる果実から作ったジュースは最高で、表現すると完全にココアの味だった。
いや本当、ココアとしか表現しようのない甘美な味わいで、みんなはそれほど好きでは無いらしく、たくさん余っていたので俺が大体飲み干してしまった。
どうにもココア飲料特有のチョコレートそっくりなまろやかな味で、久しぶりの感触に大変満足した。
「ケイゴは本当に変わっているな。それはギリアグランテの糞の味がする、といって好きな人が少ない珍味なのだぞ」
程よくお酒も回って、それなりに饒舌でご機嫌なレヤンロさんは俺の隣の席で、鯛だかヒラメだかに似てる魚を串刺しにした得体の知れないものを頬張っていた。
「ふ、糞って……」
俺のその困った様子がおかしくてたまらないのか、レヤンロさんは見たこともないほど満面の笑顔になっていた。
考えてみれば俺がこの飲料をココアで美味しい、と断定するに至ったのは、俺が以前の世界でチョコレート風味のココアなる飲み物を比較的「美味しいもの」として認識し飲んでいたからであり、これをもしなんらかの生物の排泄物と教わって認識していたなら、間違っても「美味しい」などといった感想は浮かび上がってこないだろう。文化の違い、と言い切ってしまえばそれまでだが、なんとも面白い話ではないか。
「それにしてもよく食べるんですね、レヤンロさん」
「こう見えても私は大食いでな。いやなぁに、旅先で剣を振るうようなことでもあれば腹が空いて仕方ないのだ。あっ、もう一杯持ってきてはくれないだろうか!」
そういうと彼女は大変満足そうに、今度は大きなトカゲの姿焼きのようなものに齧り付いた。あんなもの、どこにあったのだろうとふと訝しんでみたが、レヤンロさんの仲間が運んでた荷物の中身だったらしいことが、すぐ隣の鉄仮面で素顔を覆った人物から明かされた。彼もどうやらレヤンロさんの仲間であり、一番彼女との付き合いが長いらしい。
「それにしたって食べ過ぎ飲み過ぎだぜミュピリポス。そんなんじゃ身体に毒だよ」
「な、何を言うかセオンツ……食わねば人は死んでしまうぞ」
「セオンツは俺だ。そいつはジュアン。……ダメだなこりゃ。完全に出来上がってやがる」
セオンツと名乗った大男はジュアンと呼ばれた鉄仮面と共に、レヤンロさんの丸まった背中をゆっくりとさすっていた。
「酒豪で大食いの美人強強女戦士なんて萌えるなぁ〜」
レヤンロさんが残した魚の丸焼きのようなものを口の中に入れながら、俺はその様子を見ていた。
途端にジャリっと大きな音と共に口の中で不快な生臭さが広がり、タイヤを溶かしたようなものに蟹の食用ではない部分を混ぜ込んだような食感が溢れてきた。
げほげほと口の中の不快さを取っ払うように咳き込むと、ジュアンが水を持ってきてくれた。
「それは初心者がいただくには向かねえぜダンナ」
「さ、さらにゲテモノ好きなのか……」
どんだけインパクト強いんだこの女騎士は。
戦う様の勇ましさとギャップがありすぎる。ギャップ萌えどころか飛び越えて胃もたれしそうだ。
まだ吐き気が抜けない俺に、ジュアンは近くの宿屋のベッドがへ案内してくれた。一応、グリドたちに焼かれていない宿の中でとても上質な場所を提供してくれた。その証拠に布団はとても柔らかく、ふわっとした花のように良い香りがして、この世の疲れを取り除いてくれる極楽浄土みたいだった。
というかこの人、面倒見良すぎじゃ無いか。
ついさっきも酔い潰れたレヤンロさんを部屋に運んでいったし。
レヤンロさんもそれなりに良い人だったが、その良い人が作ったパーティーはみんな良い人なのか。好意に甘えるよう俺は布団の中に溶け込んでいった。
「明日の朝また起こしに来るよ。今日はとりあえずお疲れ。良い夢見ろよ」
「あ、ありがとう……」
親指で残された力を振り絞って精一杯、グーのポーズを取ると眠りに落ちた。
異世界での初の就寝は、思いの外ぐっすりできた。