第八話 『ようやく家庭教師はじめました』
前回の衝撃が抜け切らぬまま、エリス様のはじめての授業の日がやってきた。
「れきしのおべんきょう?」
難しそう、と顔にありありと浮かべ、エリス様は眉を下げた。とても素直な様子に思わず頬が緩む。わたしは机の上に王国の地図を広げた。
「大丈夫ですよ、歴史といっても物事を覚えていくだけではないのです。エリス様は、建国の英雄王をご存知ですか?」
「しっているわ! みんなをまとめ、この国をつくったさいしょの王よね。小さいころえほんでよんだもの」
「ええ。それでは、そのお后様のことは?」
「おきさきさま…? きいたことがないわ」
髪をふわりと揺らし、エリス様が首を傾げる。
「英雄王のお后様は、エリス様にも関係が深い方なのですよ」
「ほんとうなの?」
「そうなのです。ではまず、マティアス領の成り立ちからお話ししましょうね」
地図上のマティアス領の位置を指し示すと、少し興味が湧いてきたのか、エリス様が身を乗り出してきた。
「――こうして初代マティアス伯爵の助力により、おふたりはご結婚なされました。それ以降、王家の血を引く方々には、英雄王の緑の瞳と、お后様の輝く金色の髪が受け継がれていったと言われているのです」
「まぁ! 大公のおじさまのひとみがみどりなのは、そういうことだったのね」
輝く笑顔でエセル様がわたしを見つめた。それに頷き返す。
「大公殿下も王家の血を引いていらっしゃいますからね。国王陛下と第一王子殿下は、もっと血が濃い直系の方々です。美しい緑の瞳と金の髪を受け継いでおられるでしょう?」
大公家のひとつであるバルハリア家とマティアス伯爵家は親戚筋だ。殿下のお子様は男子しかおらず、エセル様とエリス様を実の娘のようにかわいがっていると聞く。
「ほんとうだわ。……れきしって、古い古いおはなしだとおもっていたのだけど、わたくしともつながっているのね」
「そうなのです。過去に様々なことを成し遂げてくださった方々のおかげで、今のわたしたちがいるのですよ」
「すごいわ先生! とおいむかしが、すぐそばにいるみたい!」
嬉しそうに手を合わせるエリス様に、誇らしい気持ちで笑みを返した。
「ねぇ先生、王さまとおきさきさまのおはなし、わたくしにもよめる本があるかしら?」
「ええ、それでは……、こちらがよろしいと思います。今お話ししたこと、そのあとの続きがわかりやすく書いておりますよ」
本棚から一冊取り出し、エリス様へ差し出す。わたしも幼いころ読んだものだ。絵本よりは字が多く、お堅い歴史書よりは平易に書かれている。
「ありがとう先生! ねむる前によむわ。たのしみ!」
本を胸に抱いて、エセル様が満面の笑みを浮かべる。学ぶことに興味を持ってくださったのは喜ばしいことだ。
「さて、本日はここまでです。次回は筆記と単語のお勉強ですよ」
「もうおわりなの? れきししか、ならっていないわ」
「実は、王国内の地理も同時にやっていたのです。英雄王の旅を、地図に沿って追いかけましたでしょう? 英雄王ご一行が立ち寄った先々での物語には、その土地の気候や特産物が含まれているのです」
「そうだったのね、気づかなかったわ……」
「本当は、地理までやる予定ではなかったのですよ。エリス様はとても吸収が早いので、つい進めてしまいました」
わたしがそう言うと、エリス様は少し照れたようにはにかんだ。とてもかわいらしい表情だ。
「先生、このあとエリスとお茶はいかが?」
大切そうな手つきで本を机の上に置いたエリス様が、地図を畳んでいるわたしを振り返った。
「申し訳ありません。お誘いは嬉しいのですが、この後、我が師の実験を手伝う予定が入っているのです」
「まぁ、ルディ様の! では、次はそのおはなしもききたいわ」
「お話しできる範囲でよろしければ」
「もちろんよ!」
魔法士の実験に興味を惹かれたのか、一瞬残念そうに眉を下げたエリス様が、すぐにほわりと頬を赤く染める。
学問だけではなく魔法にも興味を持っていただけたことに、わたしは更に嬉しくなった。
手早く帰り支度を済ませると、エリス様はわたしの手を握りながら見上げてきた。
「先生、みおくらせてくださいな」
「光栄です、エリス様」
小さな手を柔らかく握り返すと、エリス様が輝く笑顔を浮かべる。ああ、かわいらしいお嬢様と出会えてよかった。
わたしたちは手を繋いで、仲良く玄関へと向かったのだった。
大きな屋敷故、エリス様の勉強部屋から玄関まで結構な道のりがある。
様々なことを質問してくるエリス様に答えながら、和やかに歩いていたそのとき。
廊下の向こう側から、誰かがやってくることに気づいた。
瞬間、握っていた小さな手が強張り、エリス様が僅かにわたしの背へと隠れた。後ろに控えていた侍女も小さく息を飲む。
思わず立ち止まり、エリス様のご様子を伺うと、先ほどまでとは違い表情がとても固くなっている。
それでもエリス様は、空いた手でスカートを摘まみ、向かってきた方へ挨拶をした。
「おねえさま、リンドール先生、ごきげんよう」
「エリスナード様ではありませんか、ご機嫌麗しゅう。そちらのお嬢様はもしや……」
眼鏡をかけた壮年の男性が、口許に笑みを浮かべて挨拶を返す。その後ろには、エセルバート様が無表情のまま立っていた。
「エセルバート様、ご機嫌よう。そちらの方ははじめましてですね。エリスナード様の家庭教師を任されました、シャルティーナ・グランツです」
エリス様をさり気なく庇いながら、わたしは男性へ略式の礼を向ける。
先に名乗らないということは、彼は平民なのだろう。一応こちらは下級男爵家の娘だ。伯爵家へ出入りするだけあって、その辺りの礼儀はわきまえているらしい。
「これはこれは、彼の有名な魔法士ルディ様のお弟子の。ご挨拶が遅れました。わたしはエセルバート様の家庭教師、アルスト・リンドールと申します。どうぞお見知りおきを」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします、リンドール様」
朗らかに挨拶をするリンドール様だが、その目は一切笑っていない。
わたしを上から下まで確認する視線に、好色さと傲慢さが混じっている。はっきり言って不快だ。
「それでは参りましょうかな、エセル様」
「……はい、先生」
わたしたちの傍をとおり過ぎていったリンドール様の後ろ、美しい金の髪をなびかせながらついていくエセルバート様は、まったく生気が感じられない様子で歩いていった。初めてお会いしたときよりも、更に表情がなくなって見えたのは気のせいだろうか。
「ごめんなさい、先生……。わたくし、リンドール先生が、すこしにがてで……」
謝るエリス様の手が微かに震えている。思わず侍女へ視線を遣ると、不安げに眉を寄せて頷いた。いつものことなのだろう。
エリス様が、「こわいかただったら、どうしようかと思っていたの」とおっしゃっていた意味がわかった。家庭教師といえば、リンドール様のような不穏な雰囲気の先生が来るのだと思っていたのだろう。
エリス様の震える手を、優しく両手で包み込む。
「伯爵家ご令嬢の家庭教師という名誉を与えられたのですから、リンドール様も責任を感じ、ああいった険しい雰囲気になっているのでしょう。エリス様はそれを感じ取ってしまっているのですわ。仕方ありません」
「そうかしら……。しつれいではなかったかしら……」
「わたしも少し怖いと思いましたもの。御師様が本気で怒ったときよりも怖いお顔。ですから、エリス様だけではありませんわ」
ますます表情を曇らせるエリス様に、わざらしく肩を竦めて見せた。一瞬目を丸くしたエリス様は、ぎこちないながらも、ゆるゆると笑顔に戻っていく。侍女もほっと息をついたようだ。
それから再び話を再開し、わたしはエリス様に見送っていただいて、伯爵家を後にした。