2.変顔と手加減
『「にらめっこしましょう、笑うと負けよ。きゅっきゅっきゅ」』
そう言うと、あらゆる妖狐の中でも甚大なる力を持つ九尾が変な顔をした。
目を見開いて両耳の先端を両前足でつまみ引き上げる。耳を戻すと目を細める。引っ張る。目を見開く。戻す。細める。引っ張る。見開く。戻す。細める。
これはなんなのか。
二尾は戸惑った。
が、隣でお座りしていた一尾は違った。
しばらく小首を傾げて九尾を眺めていたかと思うと、さっと片前足を伸ばして耳を引っ張る。
『痛い痛い!』
耳を掴んだまま元の位置に座ろうとしたものだから、引っ張られた九尾が悲鳴を上げる。
『あれ、もっと目が大きくなるかと思った!』
当の本人が目を丸くする。
『一尾、きゅうちゃんが痛がっているから、耳を離してあげな』
『はーい』
『もう、これだから、お子チャマは! 加減を知らないんだかラッ』
涙目になりながら九尾が文句を言う。両前足を耳に持っていくが、触れるかどうかのところで彷徨わせる。
『良い? 一尾、ちゃんと手加減しなくちゃ。その者にとってどこまでが痛いのか、耐えられないのか、見極めないといけないよ』
九尾は居住まいを正して末弟に説教する構えだ。
『はーい』
軽い調子で返って来るのに、分かっているのか、と胡乱な目つきになる。
『自分より弱い相手でも、その者を大切に思っている者がいるかもしれない。大切な者を害されようとしたら、抵抗したり報復しようとするかもしれない。そうしたら、予想外の行動に出るかもしれないし、予測以上の力を発揮するかもしれない。自分だけでなく、一尾を守ろうとする一族も巻き添えを食うんだよ』
『二尾にいちゃんも?』
途端に、一尾の顔が曇る。
『そう。二尾もきゅうちゃんもね』
言外に二尾だけじゃないと言うも、眦を下げる一尾はあまり聞いてはいない。しかし、二尾にも弊害が及んではいかぬ、という点では自分の行動に慎重を要とすると悟った様子だ。
『二尾はこれから仕事で出かけることも増えるでしょう。一尾は他の友だちができるかもしれない。そんな時、自儘に振る舞っては、仲良くなれないよ』
『はい!』
自分のことが心配で二尾の仕事に支障があってはいかぬと、きりりとした表情で頷く。
優しい兄は一尾のことを心配するだろう。安心して仕事に専念できるようにしなければ。そうして、八尾様に二尾も褒めてもらうのだ。他の兄弟姉妹たちのように。
『すげえ』
『ん? なにかあった?』
するりと音もなく重力さえ感じさせない身のこなしで五尾が六尾の室に潜り込む。勝手に入って来るのは部屋の主がいる時のみで、六尾も同じことをよくする。力を使う機会を伺う自分は単純な自覚がある。翻って、すぐ下の弟はどこか斜に構える部分がある。それも分かる気はする。
どれほど力を有していても、七尾や伝説の妖狐八尾の前では自分が幼子のように思える。
大妖八尾。
つい、と滑らかかつ急激な動きで首を動かし視線を向けられる。その変幻自在の捉えきれぬ動き、妖しい恐ろしさは得も言われぬものだった。受ける恐怖は絶大だ。周囲の空間を押しつぶさんばかりの威圧感に、身体中が知らず震撼する。
その八尾ですら足元にも及ばぬ九つ尾という存在がいる。
力が横溢すれど、それを振るう機会は滅多と訪れず、更には片鱗くらいしか分からぬ実力の持ち主たちがいる。これが腐らずにいられようか。
しかし、彼らは他者を惑わす妖狐だ。
『いや、さっきそこで一尾が九尾の耳を引っ張って悲鳴を上げさせていた』
九つ尾ですらも、単数の尾の弟にはかなわぬのだ。
「きゅぷっ」
六尾が噴き出す。
『いやあ、あの伝説の八尾よりも力があるって当の本人でさえ認めている九尾をだよ?』
『あー、うちの末っ子は怖いもの知らずだからなあ』
『まあなあ、九尾も八尾も可愛がっているからな』
『七尾も相当なもんだろう』
一尾は風の属性そのままに気儘だ。そして、九尾からもあの八尾からも、許容されている。
胸が空くではないか。
あれほどの力を持つ者が力なき者に翻弄されるなどとは。
とは言え、六尾も一尾とその上の二尾を可愛がっている。自分も、まあ、怪我したら平静ではいられないと思う。
一族は概ね、泰平だった。
夕暮れ時、ぴんと張った三角の大きい耳がよっつ、影を作っていた。
二尾と一尾は連れ立って歩きながら他愛もないことを話し合う。
『にいちゃん、俺もにいちゃんみたいに尾が増えるかなあ』
ふと訪れた沈黙の後、一尾が言う。
『ああ、増えるさ。きっと、もっといっぱいになるよ』
複数尾を持つ白毛の妖狐一族は天狐一族と対抗できるほどの実力の持ち主たちだ。二尾はふたつ尾しかないが、それでも、他の妖狐とは一線を画す。
しかし、末弟は単数しか尾を持たなかった。それを気にしているだろう一尾に、気休め程度の言葉しか言えないのが歯がゆかった。
こういう時、九尾ならもっと心を軽くしたり、力みを取ったりできる。
『きゅうちゃんみたいに?』
『きゅうちゃんのように九本持つのは大変だぞ』
いくらなんでも、それは高望みしすぎだ。あれは既に神の領域だというのは八尾の言葉だったか。
『じゃあ、八尾様みたいに? うーん、無理そう』
すぐにあの域に達するのは生半なことではないと自分で思い至った様子だ。
『七尾姐さんは違う意味ですごそうだしなあ』
九尾よりも八尾を畏れる風なのにおかしく感じながらも、二尾は違うことを口にする。
『六尾ならいけそう!』
一尾が勢い込んで鼻息を漏らす。
八尾には敬称を付け、七尾は姐さんと呼び、五尾、四尾、三尾を愛称で呼ぶのに、六尾だけ呼び捨てである。子供がすることと、当の六尾は気にしていないが、世にも稀なむつ尾を持つ妖狐である。それが他の一族の妖狐であり、呼ばれた時の六尾の機嫌が悪ければ消し炭にされよう。六尾もまた末弟を揶揄いつつも可愛がっていた。
『そうか?』
むつ尾の妖狐に対して随分ぞんざいだと二尾は内心苦笑する。
『いつか、六尾よりも強くなる!』
不遜な子狐は、吊り上がった眦に決意を込め、ぐいと胸を張る。
頑張れよ、と二尾は弟の頭を撫でた。満足げに見上げてくる。
どれほど強くなっても、一尾は二尾の可愛い弟だ。それは変わらないだろう。
今後、尾が増える見込みは大きい。本人のやる気があるならば、その可能性は高まるだろう。
複数尾を持つ者は生まれた当初からそうである者、成長過程で増える者、そして、わが身を鍛えて増やす者がいた。たたき上げというやつである。
複数の尾を持つことへの壁は厚く、二本から三本へ増やす壁は更に厚かった。
単数からここのつ尾までそれぞれの本数の尾を持つ妖狐たちが同じ住処に住まうのはたまたまの成り行きだ。
ふたつ尾を持つ者は群れる必要がない力を有し、独立心が強くなり、自由気ままを求めて群れを出ることが多い。
四尾は三尾を、二尾は一尾の面倒を見るために住処に留まっている。六尾と五尾は派手な悪さをしないように八尾がしっかり監視下に置いている。七尾は普段、天帝宮と人里を行き来して忙しく、滅多に住処にやって来ない。
末弟を可愛がるのは二尾だけでない。
あの伝説の妖狐八尾でさえも表には出していないつもりだが、筒抜けである。だからこそ、他の狐一族も最も力がない弟を狙おうなどという愚を犯そうとはしない。そんなことをすれば、自分とその係累の滅亡が約束されているも同然だ。
他の妖狐にあんなとてつもない存在と同じ住処によく住めるなと言われる。しかし、八尾よりも甚大な力を持つ存在がいた。その威力は普段はなりを潜めている。後は慣れだ。
一尾がいつか同じふたつ尾を持つ妖狐となるのか、と思うとなんだか、今からもう感慨深くなる。そんな兄馬鹿な二尾に一尾が爆弾を落とす。
『二尾にいちゃんも尾を増やそうよ』
『え、俺も?』
『うん、そう! それでね、どんどん増やしてね、姐さん……は無理だけど、六尾を目指そう!』
一尾ならばふたつ尾の壁を乗り越えられよう。
しかし、それどころではなく、みつ尾、よつ尾の壁を乗り越え、更にその先、もうひとつ先を目指そうと言う。
『むつ尾か……』
『うん! やろうよ!』
普段の『遊ぼうよ!』という誘いとなんら変わらぬ声音、一片の曇りない晴れやかな表情で言う。
『そうだな。目標は高くなくちゃな』
『うん!』
ならば、三尾、四尾の壁など軽々と跳び越えなければならない。目標はそのふたつ先なのだから。
その話を聞き、兄六尾は複雑な表情をしたとかしなかったとか。
『これ、尾が増えたら名前はどうするんですか?』
「……」
『え、なに? ネーソスの真似? きゅぷっ』
「いつか、九尾の尾をむしってやりたい……」
『きゅっ! お、悪寒が!』
※ノープランです。