異世界召喚なんてろくなもんじゃない
ぐるるるる、といううなり声が響き、心臓まで震え上がる。黄昏の薄闇の中、爛々とこちらを見つめる4対の瞳。
「ママ……パパ……」
分かってる、自分のせいだ。見知らぬ土地で絶対離れないようにと言い聞かされていたにも拘わらず、繋いだ手を離してしまった、俺自身のせい。
「ごめん、なさい」
これからはちゃんと言うことを聞くから。もう二度と勝手なことはしないから。だからお願い……
「助けて……」
俺の心が崩れ落ちるのを待っていたのだろうか。周りを囲む獣たちがじりじりと距離を詰めつつ、姿勢を低くする。マジで殺される5秒前、俺が死を予期したその瞬間。見計らったかのように、天から光が舞い降りた。
それは今まで見たこともない、不思議な光。赤かと思って目を凝らせば青、青に思えたその色は緑。ただこの圧倒的な美しさを前にして、それが本当は何色かなどと、問う価値のあるものか。俺は半ば放心状態のまま、ふらりとその場で尻餅をつき、光の降り注いでくる方角を仰ぎ見て、さらに呆気にとられた。
俺の頭上を覆うその光の正体は、全身を虹色に輝かせる、冗談みたいに大きな1羽の鳥だったのだ。
* * *
無駄にスタッカートの効いたメロディが流れている。その音は微睡みの世界にいる俺の脳を攻撃し、力ずくで引っ張り出そうとしてくる。無理矢理目覚めさせられた不快感をアラームにぶつけて、ため息をついた。
あれから、そろそろ10年になる。何があったのか詳しくは覚えていないが、虹色の巨鳥のイメージだけは、今でも鮮明に脳裏に焼き付いている。偉い精神科の先生によれば、極度のストレスに晒されたときに、その手の妄想が生まれるのはよくあることらしい。幼い頃こそ夢なんかじゃない、ほんとのことなんだと、何度も食ってかかったものだが、中学、高校と年齢が上がっていくにつれ、現実を受け入れることを覚えた。
それとともに、あの情景を夢に見ることもこの頃すっかりなくなっていたのに。数年ぶりの悪夢は、何かが起きる予兆なのだろうかと、そんな不吉な考えを振り払って、俺はのっそりと立ち上がった。
そんな最悪の訪れ方に反して、その日の朝は驚くほどいつも通りだった。強いて言えば、朝っぱらから母が進路の話をしてきたので、少し喧嘩気味に家を出てきてしまったくらいのものか。
教室の扉を開けると、ガラガラという音に釣られて俺の顔に視線が集まり、一拍おいて散開する。話しかけてくるやつなんてもちろんいないので、悠然と席についてスマホを開き、小説投稿サイトの異世界転生/転移ランキングを漁り始める。これもまた、いつも通りのことである。
「おはよ、東雲くん!」
「あ、おはよ」
隣の席に着きながら声をかけて来たのは、今年から転校してきた女子だ。確か名前は華田千草。クラスの相関図がまだ把握できていないらしく、俺に普通に話しかけてくるほぼ唯一の人間である。
あるいは転校してきたばかり故、クラスの中でなんとなく居心地の悪さを感じていて、孤高を貫く俺にある種の親近感を覚えたのかも知れない。
「東雲くんいっつも何読んでるの?」
「何って小説だけど」
手元のスマホを覗き込んできたので、画面を消してポケットにしまう。
「そうじゃなくてさ! 小説でも恋愛ものとかミステリーとかいろいろあるでしょ! どういうのが好きなの?」
「教えない」
「えー」
華田は不満げに頬を膨らませる。
「華田さんはどういうのが好きなの?」
「あたし? あたしは恋愛小説専門! こないだ読んだのはね――」
適当に話題を振って、長びくであろう華田の話を聞き流す体勢に入ったそのときだった。
白い光。強烈な光。網膜を灼き尽くさんばかりの圧倒的な光が、突如俺の視界を覆う。まるで目の中に太陽が生まれたような、眩しさを通り越して痛みすら感じるほどの光量に、俺は反射的に目を閉じて机に伏せた。
すると今度は地面がぐわんと大きく揺れ、椅子と机の感触が突然消える。尻餅をいた床の感触は固くて冷たく、教室の床とは明らかに違った。同じようにバランスを崩したのか、誰かが倒れ込んできた。元の体勢を考えれば華田だろう。こちらは柔らかくて温かい。
光そのものは一瞬で消え去ったが、目に焼き付いた明るさのせいで周りが見えない。平衡感覚も狂っている上、膝に乗っかった幸せな感触に気が散ってしまい、視覚に集中しづらい。
それでも、必死に視線を彷徨わせるうち、徐々に視界が戻ってくる。はじめに目に入ったのは、そびえ立つような巨大な宝石。他に光源がない暗闇の中、その宝石だけが目が眩むほどの輝きを放ち、呆気にとられたクラスメイトたちのマヌケ面を照らし出している。きっと俺自身、同じような表情を浮かべているに違いない。
「何なんだよ……」
しばしの静寂をつき破ったその呟きは、誰の口から零れ落ちたものだろうか。それを皮切りにして、波紋のようにざわめきが広がってゆく。
「どこだよ、ここ」
「ねえ、何が起きたの」
「ステータスオープン! システムコンソール!」
「ほぇ……? あっ! ごめん東雲くん!」
誰も彼も好き勝手に喚き、その場は完全にパニックの様相を呈している。残念ながら華田も我に返ってしまい、慌てて俺の膝から離れていった。
ずっとそのままでも良かったんだよ、華田さん!
そんな混沌を切り裂いたのは、唐突に響いたバリトンボイスだった。
「異世界からの客人よ、ようこそ」
挨拶と共に暗がりから現れたのは、身長190 cmはあろうかという偉丈夫。腰に巻かれた剣帯には細身の剣が吊り下がっており、柄に埋め込まれた琥珀色の宝石が一際目を引く。穏やかな話し方に反して、全身から問答を許さない迫力を放っており、騒いでいた連中も圧倒されたように黙り込んでいる。
「細かい経緯については後から話すとして、まず要点から述べよう。君たちは我々によって異世界から召喚された。そして元いた世界への帰還は不可能だ」
――帰還は不可能
無慈悲なまでに淡々としたその宣告を耳にしてようやく、絶望的な状況に実感が湧いてくる。どこか他人事のように感じていたことが、現実のこととして感じられるようになってきた。打開の余地がない、糸口すら見えない過酷な状況に、俺の心は早くも折れ始めていた。
「ちょっ……どういうこと? 異世界? 帰れないって?」
「金糸雀ちゃん、落ち着いて」
「はぁ? 落ち着けないわよ! あんた、どこの誰か知んないけど、こんなこと……」
「金糸雀ちゃん!」
ヒステリックに騒ぎ出したのは、山吹金糸雀。今にも男につかみかかりそうな山吹を、華田が羽交い締めにしてなんとか留めている。
「召喚の目的は」
憎々しげに睨みつける山吹を一瞥した男は、何も見なかったかのように淡々と説明を続ける。
「副産物として得られる位置エネルギーの回収だ。比喩的な表現をすれば、君たちは住んでいた世界はこの世界より『上』に位置する。そこから『落下』してきた際のエネルギーをこうして集めるために、召喚魔術を行使したのだ」
位置エネルギー? 召喚魔術? よく分からない単語を並べられても、説明が全く頭に入ってこない。ただ、彼らが至極自分本位な理由で俺たちを召喚したのは間違いないようだ。
理不尽な動機に対して、悪びれない口調に怒りがかき立てられる。
「もう1つの目的は、優秀な人材の確保だ。召喚で生じた位置エネルギーの差分が一部還流する影響で、被召喚者の魔力出力は高くなる傾向にある。我が国では有能な人材はつねに需要過多だ。故に、君たちが自身の有用性を示すことができたなら、我々も相応の待遇をもって応えよう」
男はそこで一度間を置き、傲然と俺たちを見渡した。それから再度おもむろに口を開く。
「現実を受け入れるのに時間が必要なものもいるだろう。細かいことは明日説明しようと思うが、今すぐに質問しておきたいことがあるものはいるか」
何かを叫ぼうとする山吹を制するように、級長の光田が手を伸ばす。男に視線で促されて立ち上がると、見上げるように視線を合わせて、口を開いた。
「我々は完全に無関係な事情で拉致されたということですよね? それについて何か謝罪や補償は――」
「気の毒には思っている。運が悪かったな。他に質問はないか?」
男は質問を最後まで聞きもせず、興味を失ったような顔でおざなりに言い放った。一方の光田は、怒りで顔を真っ赤にしているが、逆上して怒鳴ったりはしない。それは、理性とか状況判断というより、筋骨隆々とした男に刃向かう勇気がなかったためだろう。
とはいえおとなしく座るつもりもないらしく、立ち尽くしたまま正面を睨めつけている。そんな光田を見た男はうんざりしたように、大きくため息をついて続けた。
「理不尽なんてこの世にはありふれている。突然強盗に押し入られて殺された。住んでいた場所が突然魔境化して魔獣に食い殺された。そんなことが毎日どこかで起きているのがこの世界だ。君たちがどれほど恵まれた世界にいたのか知らんが、起きてしまった理不尽を託つ暇があるなら、生き抜く術を考えるほうに頭を使え」
「お前が言うんじゃねえよ!」
あまりの言い草についに怒りを抑えきれず飛び出したのは、瑞垣という男子だ。90 kgの体重を生かしたアメフト部仕込みのタックルは、しかし、男を1 mmたりとも動かすことはできずに跳ね返された。
呆然とする瑞垣を、男は冷たい表情で見下ろす。
「これが現実だ。受け入れるか逃避するかは君たちの勝手だが、何もしないやつらを食わせておけるほど、我が国には余裕はないぞ」
そこまで言われて口を開くことのできるものは、もう居なかった。
俺自身、言語のことや「魔術」「魔境」といった言葉など、気になることはあるが、とりあえず明日に回す方が良さそうだ。
「他に質問は……ないな」
その言葉が合図だったかのように暗がりから2人の男女が現れる。巨大な宝石に気を取られて周りに目を向けていなかった。どうやら俺たちは体育館くらいの広さのホールにいるらしい。
「男子はスマルト、女子はテールベルトが案内する。一晩かけて、現状を飲み込んでおくことだな」
スマルトと名乗った男に連れられて、ホールを出る。なんとなく腹立たしかったので、中央を一度睨みつけてから退出することにした。
最後に華田と目が合って、少しだけ救われた気分になった。
案内された建物には、部屋がいくつか並んでいた。1部屋に全員で雑魚寝というのも覚悟していたので、胸をなで下ろす。
立ち止まったスマルトがこちらを振り返る。
「4人部屋だ。15人いるから、4人班3つと3人班1つ作れ」
……えっ?
……結論だけ言おう。俺は瑞垣と織部と同部屋になった。2人とも少し粗野というか、荒っぽいところがあって敬遠されがちだったので、見かねた俺が自主的に同部屋になってやったのである。
「あいつら、ふざけやがって」
部屋に入るなり、瑞垣が八つ当たり気味に壁を殴り始めた。止めようと思ったが、壁がびくともしていない様子なので放置を決め込み、寝る支度をすることにした。
部屋の設備については思っていたよりもだいぶまともで、簡素ながら軽食が用意されていた上、シャワーや着替えまで準備されている。尤も部屋の照明もシャワーも、何らかの魔術的な機構が使われているらしく、仕組みが皆目分からない。
ベッドに倒れ込んで、今日のことを思い起こす。もとの世界とは時差があるようで、まだ起床してから5時間ほどだが、その間にいろいろなことが有りすぎて疲れきってしまった。
家に帰れないこと。生殺与奪の権が見知らぬ世界の見知らぬ者たちの掌中にあること。
何より、家族ともう二度と会えないという事実が、俺の心を重くしていた。クソみたいだと思っていた家族に、自分がこれほど価値を置いていたとは。会えなくなって初めてありがたみを認識する皮肉に、苦笑を禁じ得ない。
憧れていた。夢想した。こんな世界から逃げ出してしまいたいと、何度も願った。そうしてついに叶った異世界召喚。それがこうもろくでもないものになると、もっと前から分かっていたなら。この世界もそんなに捨てたもんじゃないなと、こうなる前に思えていたなら。
――俺の人生は何か変わっていたのだろうか。
何も見えない暗闇の中、そんな後悔ばかりがふつふつと湧いては弾け、頬を流れ落ちた。