童貞killer
「克彦さん」
薔子は変わりなかった。相変わらず美しくてまばたきする様子はあどけない子どものように愛らしかった。
「もういらしてくださらないと思っていたの」
そう言って目を伏せる様には、あのときの痴態を微塵も感じさせない。そのまぶたは白百合のように清い。
「そう、お金を渡していなかったんだわ。待っていてね」
翻るスカートを見て、白い踝を見て、克彦は、ふとあれは夢ではなかったかと考える。あのような痴態をこの美しい薔子が演じるだろうか。薔子が自分と同性であるなど――自分の妄想の産物かもしれないのだ。この低い声に魅かれていたから。そう、思いたかった。けれど、克彦の体に残る、疼くものは決して空想などではなかった。何度かここのあたりをうろついて――ようやく門を叩いたけれど、やはり疼きは止まらなかった。お金を取りに来たわけじゃない――間もなく薔子があの聖女の顔で戻ってくる。
「薔子さん、お金はいりません。僕は何もしてないんですから」
「まあ、謙遜なさらないで。わたくしあれから、勉強が楽しくなってきましたのよ。以前は義務そのものだったのだけれど」
薔子は茶色い封筒を手渡してきた。厚みのある感触。
「ね、受け取ってくださるわね。でないとわたくし、納得がいきませんわ」
「でも、こんなには困ります……」
「よろしいのよ。どうぞ受け取って……」
薔子の白い指が、しっかりと克彦の手をとる。その指の爪に、赤いエナメル。
「地下室の工事は終わりましたか」
なんとなく居心地悪く思って、克彦は聞きたくもないことを尋ねた。薔子は大きな目を二回瞬きさせて答えた。
「ええ、もう完成していますわ」
それが起こったのは、その日から一月ほど経ったあとだった。
『又しても猟奇の殺人』
新聞が騒々しく書き立てるには、事件が起きたのは深夜0時ごろ。被害者の若い男性は、例のごとく絞め殺されて、局部を著しく傷つけられて放置されていたらしい。
「二週間で三人だ。警察は何やってんだ」
「ずいぶん近いじゃないか」
「かわいそうに、俺らとそう変わらん年の奴じゃないか。犯人はいったいどこの変態だろう」
「犯人は男色趣味の中年と見たね。僕は」
現場が近いせいと、被害者がことごとく若い男性であるため、克彦の学校ではこの話題が絶えなかった。次に殺されるのはこの学校の人間ではないか――という噂さえ立っていた。
「君はどう思う?」
話を振られて、克彦は少し考えてからこう言った。
「なんにせよ、こういう快楽殺人の類はよっぽど変態の仕業だね。用心しないといけない」
「そうだな。僕なんておかげさまでアルバイトをやめてしまった」
いくじなし、いくじなし。とやんやと騒がれて、友人はうるさい、と返した。
「ええい、僕だってやめたかないが、こんなことでは夜も歩けん。実際アルバイトの収入がないと死活問題だがね」
「困ったもんだね。警察も近頃じゃぴりぴりしてやがる。この頃じゃ、ちょっとしたことですぐ呼び止められる」
「おまえが犯人面してるからさ」
どっと沸いたところで、教授が入ってきてこの話はお開きとなった。克彦は授業の間もずっと考えていた。……現場がここから近いということは、薔子の家からも近いということだ。
『わたくしはいつかきっと、この地下に童貞の王国を作って、そこを支配する王様になるんだわ』
『もう完成していますわ……』
薔子の声は頭にこびりついて離れなかった。変態的な嗜好を持っていた薔子。普段の清楚さからは微塵も感じられない淫乱を持っていた薔子。彼女の周りでの猟奇殺人――
「そういや、藤原のお嬢さん――薔子さんの屋敷はこの辺りじゃなかったかね。気の毒にね、彼女もろくに外も歩けまい。もっとも、女性はまだ被害にあっていないが」
そう言う級友の声に、克彦は再び彼女の家に足を踏み入れることを決意した。鞄に閉まったままの、この封筒を返すためにも。
彼女の家へ道のり、いつもと変わらない商店街を通り抜けてすれ違ったのは警察と黒猫。警察は、この付近をうろつかないように、と言って去った。黒猫は一度通り過ぎたあと、こちらを振り向いて、にゃあ、と赤子のような甘えた声で鳴いた。この辺りに被害者の血が撒かれていたのだろうか。あの黒猫はそれを舐めただろうか。ぞっとして、早足になる。カラカラ鳴る自分の下駄の音に加えて、もう一人ヒタヒタと洋靴の音をさせてついてくるものがいるような気がした。この、あやかしの足音は、薔子のものだ。女でも男でもない、存在できないものの足音――あの奇矯な獣が若い男の局部を貪り食っている……そんな想像をかぶりを振って払った。
「克彦さん」
辿りついた屋敷の門を叩くと、薔子が以前と同じようにブラウスとスカートの洋装で迎えた。しかし、今日の薔子は克彦を見るなりさっと顔色を変えて、「何をしているの!」と克彦の腕を取って中へと無理に入れた。常ならぬ態度だった。
「薔子さん、いったい……」
「知らないの! このあたり、とんだ殺人鬼がいるのよ」
その顔は青ざめて、指は腕に食い込んだ。
「ばかね。ばかね。貴方なんて格好の餌食なのに」
その尋常ならぬ態度に、克彦も抵抗を忘れぼんやりと薔子を見つめる。やがて、薔子も落ち着いたように一度息を吐いた。久々に見下ろす、その冴え冴えとした黒い瞳。
「どうしていらしたの……」
そのまま抱きすくめられて、その細い体を感じた。呼吸が荒い。冷えた水のような体温だったはずの薔子が、今日はどうしてか熱い吐息をしている。
「薔子さん、薔子さん何があったんです……何をそんなに怯えて……」
思わず花の香りのする髪を撫でる。薄い、肩甲骨の浮いた背中に手を回すと、頼りなく肺の辺りが上下するのがわかった。
「克彦さん、お願いがありますの……」
「なにを……」
「わたくしを縛って、どこかに繋いでおいて……お願いよお願いよ、わたくし、変なの、ここのところ、おかしいの……!」
それだけ言って、薔子はずるずると崩れ落ちて、床にはらはらと涙の跡を残した。
「薔子さん、いったいどうしたんですか」
薔子に目線を合わせるように、しゃがみこんで床に手をついた。薔子の湖のように凪いだ黒い瞳が、熱を帯びてねっとりと光り輝いている。白い肌に赤くなった瞼は化粧のように映えた。
「部屋へ行きましょう」
そう言ったのは間違いなく克彦自身だった。あんなにも恐ろしく思っていた薔子の部屋。あまりに趣味の悪い、年増の夢想めいた部屋。そこに今、再び足を踏み入れようとしている。
「いいの……?」
「だって、具合が悪いんでしょう」
「優しいのね」
薔子の微かに笑う声は低く消えた。
薔子は背負ってもまるで人間の体重でないようだった。上背は薔子のほうが高いくらいなのに、克彦だって決して屈強ではないのに、それよりもずっと軽く思えた。
「薔子さん、食事は相変わらずですか」
「ここのところ、前にも増して食べる気がしませんの」
「いけませんね、それは」
「いいの。わたくし、本当は食事をしないで生きていたいのだもの」
薔子はそう言って克彦の首に顔を寄せた。背中から伝わる体温と、首筋にかかる熱い吐息。薔子は確かに、生々しいくらいに『生物』なのだった。ぬめぬめとした粘膜を持つ、生物であるのだ。
相変わらず、そこだけ切り取って貼り付けたような、風流のかけらも見当たらない部屋へたどり着くと、薔子はベッドに横になった。
「今日は泊まるんでしょう。泊まってくれますわね。泊まらなくっちゃ駄目」
ベッドの上から、子どものように言ってくる。以前のきちんとした和装と違って軽い洋装なので、そのまま寝転ぶことに抵抗はないようだった。
「僕は……」
「外は、怖い変態が出るのよ」
不意に猫の鳴き声が聞こえて、克彦は総毛立つのを感じた。ああ、あの、夕方見かけた黒猫が、また血を舐めようと蠢いているに違いない。
「薔子さんは、なにかご存知なんですか。例の殺人鬼のこと……」
薔子の黒い黒い瞳が揺れた。
「わたくしが殺したんだわ」
そう言う声には少しも揺らぎがなかった。ふるえた白い手が克彦に伸ばされた。
「わたくしはきれいな少年が好きなの。それも童貞の……あなたみたいな人……」
手を取ると、その手は乾ききった、蛇の感触だった。
「殺された三人もきれいだったわ。うぶでかわいくって……三人が直前に会っていたのはわたくしなの。わたくしは王様だから、何をしてもいいのよ……でも、殺すつもりなんて少しもなかったわ。かわいくって仕方なくって……食べてしまいたいとは思ったけれど……」
手はふるえているのに、薔子の表情は変わらなかった。きっとこうやって一人で感情を押し殺すことに慣れているのだろう。男でもなければ女でもない、妖怪変化として生きなければならない薔子という人は。
「でも、帰り道でみんな死んでしまったわ。わたくしがやったんだわ、わたくし、きっと少しこころがおかしいのよ……ねえ、眠っている間に、勝手に動きまわってしまうこと、なんて言ったかしら」
「夢遊病」
「そう……わたくしはきっとそれなんだわ。警察が来たとき、心臓が止まるかと思った……この辺は物騒ですから気をつけてくださいとだけ言って帰ったけれど……でもきっともう駄目ね。わたくしは汚い塀の中で一生過ごして、最後には首を吊って殺されるんだわ。もう駄目よ、駄目……」
薔子の嘆きは、警察に捕まることそのものよりも、汚い塀の中に閉じ込められることにあるようだった。もしも塀の中が美しいものであれば、薔子は喜んで入ったことだろう。
「薔子さん、何をそんなに思いつめているんです。たまたま、貴方の家の帰りに殺された……それだけの話じゃないですか」
「克彦さん。最初の事件でいちばんに死体を見つけたのはわたくしなの。それで、警察に通報したのもわたくし。その時、わたくしはある偽装をしたのよ。――死体の横に、彼自身の血で、こう書いてあったの。……ふじわらしょうこ」
「ふじわら、しょうこ……」
「わたくしの名前だわ。わたくし、その名前を足で消して……それから警察に知らせたの。どうして死ぬ人間が犯人以外の名前を書くかしら。だからきっと、わたくしが殺した――」
「他の二人は……?」
「知らないわ。わたくし、それ以来……情けないことにね、立つことも億劫になってしまって、学校にも行ってなかったの。周りの人たちは死体を見たのが衝撃だったのだろうって心配してくれたけれど……心配して見に来てくれたかわいい子が二人も殺されていたのを知ったのは、今日、警察が来てから……新聞に目を通すことすらわたくしは嫌だったの……」
「でも、それで逮捕されなかったのだから、きっと二人のところに貴方の名前は書いてなかったんです。最初の少年だって、もしかしたら貴方のことを慕って、貴方の名前を最後に書いたのかもしれない」
「そうだとしても……わたくしは恐ろしい。昔からそうだったわ。わたくしの中にもう一人いるような感覚があるの。それはきっと、獣のような人間なのよ。抑圧されているわたくしの男としての性……それはきっと、暴力的で野性的なものに違いないのだわ」
「薔子さん」
相変わらず真っ白な雪色の手は、克彦のものよりずっと繊細だった。しかしこの手は男性を秘めている。――この細い手の内には男の骨が入っている。
「そこにわたくしの帯があるわね」
薔子が視線で示す先には、薔子らしくない、だらしなく椅子にかけられた着物帯があった。
「それで、ベッドに縛ってほしいの。わたくしが自分でやるのではだめ……解けてしまう」
克彦は着物の帯を取ると、ゆっくりとそれを薔子の手首に巻きつけた。
「うんときつく縛ってね……」
「血の巡りを止めてはいけません。きつかったら言ってください」
「わたくしに血など巡っていないのよ。だから大丈夫」
「ばかなことを言う……」
薔子の虚ろな目は、以前のような知性を宿していなかった。絶対的に支配者だった薔子。圧倒的に強者であった薔子。そうなることで異端である自分の矜持を保ってきた薔子。そんな微妙な均衡で成っていた存在は、僅かな誤差で崩されてしまった。
「あなたは、人間で、そして健全な日本男児であるはずです。少し特殊な生い立ちなだけの」
なるべく手首に負担にならないよう優しく帯を縛る。今まで、薔子のことを妖怪変化だ、朽ちない造花だと思ってきた克彦だったが、思いもしない弱さに触れ、なんとも言えない感情が沸いてくる。これはたぶん、憐憫であり同情だ。
「きつくないですか」
「腕は大丈夫だけれど、克彦さん、頭が痛い……」
「熱があるせいですよ……薬はありますか。ああ、でも、その前に食べなけりゃ……」
「苦しい……」
いつもよりも掠れた声は、消えていくようだった。浅い呼吸を繰り返す薔子は、先ほどから瞼を持ち上げることすらままならないようだった。闇を練りこんだ瞳は、長い睫に隠れてしまうことのほうが多くなった。額に触れると、明らかに異常な体温を伝えてきた。手はこんなに冷たいのに。
「医者を呼びましょう」
「……だめ、だめ……医者は呼ばないで……」
「どうして? ひどい熱なんですよ」
「あの医者、わたくしのことを辱めるのよ……女みたいに扱うのよ……わたくしは女じゃないのに……女よりも、男よりも、ずっと高等な生き物なのに……秘密を知っているからっていい気になって……わたくし医者にはかかりません」
息を吐き出すように、微かな声で言って、薔子はそっと目を閉じた。その姿は、まるで子どものように頼りない。髪に触れると、さらさらと解けていった。絹糸の感触。
「死んでしまいますよ」
「いいのよ……もういや。何もかも。死にたい。死んでしまいたい――もういや……」
本当に小さな子どもに見えた。駄々をこねる子ども。きっと薔子が一度も見せたことのないだろう、余裕のない態度。薔子の精神は確かに尋常ではなく、薔子が犯人であっても克彦は少しも驚かないだろう。しかし、殺されたものたちは快楽の中死んでいったのではないだろうか。薔子という美しい花のような人間に殺されることを、愉しんでいたのではないか――こういう想像が出来るのは、克彦自身がそういう人間だからだ。薔子は思うに、その本能で被虐気質の強い人物を見抜くのではないだろうか。しかし人間は被虐心があるのと同様に加虐心も持ち合わせている。弱いものよりも強いものを征服したとき、より強い快感が巡るのは、男性特有のものだろうか。今の薔子の弱さは、克彦の加虐心を満たすに十分だった。それすらも薔子の罠なのかもしれない。こんなに怯えたふうをしながら、実際には笑いながら人を殺したのかもしれない。
「克彦さん――」
呼んで、二本の腕をそっと克彦に向けた。その瞳に引かれるようにして、克彦は薔子の寝ているベッドに横になった。薔薇の芳香。白い天井。熱い吐息――
「わたくし、こうして、誰かの横で眠るのは初めてよ」
薔子は、子どものように克彦の腕にしがみついて離れなかった。薔子が何を考えているのかはわからない。しかし、今ここにいるぬくもりが愛しいのは確かだった。克彦は、薔子に結んだ帯を自分の腕へと結んだ。
深夜すぎ、なにかが体を這う感触で克彦は目覚めた。
「克彦さん」
掠れた声は薔子のもの。寝ぼけた頭で返事をする。「わたくしの遊びに付き合ってね。あなたはなにもしなくっていいから。ね……いい子ね」
薔子の蛇のような腕、その忠実な僕の五本の指が背中から回されて胸の辺りをまさぐる。「わたくしは男の子の×××が大好きなの。美しい少年にあのグロテスクなものが生えているなんて扇情的でしょう。特に立ち上がったのが好きよ、よりグロテスクなんですもの……」克彦は恐怖に依ってようやく覚醒して、声を上げた。「やめてください。あなたは病人なんですよ……大人しくしていないと」「あら嫌だ! わたくし、あんなのいつものことよ……わたくしの体温を普通の人間と同じにしてもらっては困るわ。わたくし変温動物なのよ!」薔子は、水を得た魚の慣用句のごとく、生き生きとして克彦に触れた
「夜中に目覚めたら……あなたったらかわいいこと!」
薔子は克彦の腕に巻かれている着物の帯を引いた。それは薔子の腕へと繋がっている。
「わたくしが好きなのね。わたくしを愛してくれるのね。嬉しいわ、嬉しいわ克彦さん……」
薔子の口づけは、外国の挨拶などというものではなく、閨の技術だった。口内を蹂躙されただけで、力が抜けていく。
「んっ……」
「克彦さん、息は鼻でするのよ……ねえ、もう一度」
息をついて、克彦は目を閉じた。
「克彦さんは睫が長いのね……肌が健康的な色で、声が低くて、礼儀正しくって、わたくし好きだわ。唇が薄いのも。好き……」
言い終わると、薔子はまた克彦の唇を貪った。克彦の栄養不良の腕が行き場を求めて空を切る。その間にも薔子の腕は克彦の体を這っていく。
「かわいいわ、本当にかわいい……ねえ、殺して標本にしたいくらいよ。蝶のように、ピンでとめたいくらいよ……」
克彦の体が揺れた。遠くの猫の声にも思い出す。薔子の周りで殺人が起こっていたことを。
「どうしてふるえているの?」
「薔子さんは、例の、犯人ですか……」
「わたくしじゃないわ、これは断じて。ええ絶対よ……あなたの×××に誓ったっていいわ」
言った瞬間に、薔子の指が克彦のそれに触れた。
「かわいそうに、ズボンの中で張り詰めているわよ……痛いでしょう? 今出してあげる」
「あっ……」
言ったとおり、薔子はあっという間に下着までも暴いてしまった。「ああ! なんて素敵! かわいい殿下のおでましだわ!」薔子はそれをいとおしく撫でつけて、それから口に銜えると、喉で愛撫をした。
「薔子さん、やめてくださ……ん」
「口を押さえなくたっていいの。声を聞かせて。あなたの声は心地いいわ。ああ……しばらく自慰もしていなかったのね。すごく濃い! わたくしにとって、これが最高の妙薬なのよ!」
「あ……あ」
がくがくとふるえて、克彦は脱力した。久々のこうした行為に、すべての力が持っていかれる気がした。もっとも、例え力が残っていたとしても、薔子の華奢な白い体に何かしらの暴力を加える気にはまったくならないのだった。薔子は成長を止めるために食事制限をしているし、無駄な筋肉をつけていないから、克彦が殴ればきっと倒れてしまうだろう。薔子は、克彦が臆病な――優しい人間だと見極めてこういうことをするのだろう。
「嫌です、断じて嫌です。こんなのは……」
「あら。泣かないで……ねえ、あなたに楽しんでもらいたいのよ。ねえ……わたくし、なんだってするわ……」
「薔子さんは、どうして僕のことが好きなんですか。あなたなら、もっとたくさんの人と遊べるのに……もっとこういうことが好きな人もいるだろうに……」
「あなたがわたくしに似ているから」
「僕が、薔子さんに? そんなこと……」
「いいえ。あなたは似ているわ。わたくしが真っ当に男性であれば、あなたのようになったはず。眩しい光の中で、空を眺めて、友人を作って、夢を抱いて……すべてすべて、わたくしがやりたいと思ってどうしても出来なかったことよ」
「薔子さん……」
「次は、お嫁さんを貰うのね。わたくしも、あなたのように光の中を生きたかったわ。汚いものを嫌だと言いたかったわ。あなたを見ていると、夢を見ているみたいになるの……世の現がわたくしの夢なのよ」
うっとりと呟いた薔子の爪は爬虫類のようにテラテラと光っている。蝋燭の明かりに、白い横顔が照らされる。西洋人形、アンティーク、ドレスに囲まれた部屋において、薔子一人が日本人形のように異質だった。しかしその異質は讃えられるべき種類のものだった。そのブラウスも、そのレースのついたスカートも、薔子の日本的な美を覆うものではなく、むしろその美を強調するものでしかなかった。覗く指先。足首。鎖骨。不安定な照明のせいで睫毛がゆらゆらと揺れる。しかしそれはやはり作りものじみていて、克彦に美術品を鑑賞する以上の感情を起こさせない。この飾り立てられた扇情の中において、克彦の心は冷えていくばかりだった。克彦は自分の心の健全なことを改めて思い知る。自分に必要なものはもっとあからさまな情欲であった。肉体であった。有り体に言えば女であった。
薔子の肩に手をかける。この薄い肩は自分と同じ硬さをしている。
「あなたの手はあたたかいのね……わたくしとは逆」
「きちんと食べて、きちんと寝て、運動をしているからです。薔子さん」
「健全なのね」
「健全な精神は健全な肉体に宿ると言います」
「馬鹿馬鹿しい、昔の妄言ね。不健全な肉体にこそ不屈の魂が宿るのよ。……ああ、でも、健全とは違うから、やっぱり合っているのかしら」
薔子の指が克彦の指へと絡まる。片手、両手。唇に接吻。
「克彦さん、あなたが好きよ、好きよ、そうやって、わたくしに染まらないところが好きよ。闇にまぎれないのが好きよ。ねえ、わたくしがこうやって、口づけをしたら、あなたは死んでくれるかしら」
「お断りです」
「でしょうね! 嬉しいわ! ああ、馬鹿と罵るでしょうね! けれどね、前の三人はこれで死んだのよ、本当よ。だからわたくしは殺してないの。自殺したんだもの」
その、何気ない会話のように成された言葉の羅列にも、克彦はさして驚かなかった。
「わたくしがしたことは、彼らを外に捨てることと、そう――×××を傷つけてやることだけかしら。彼らの純潔だものね。晒されたりしたらかわいそうだものね」
やはり、最初の態度は演技であった。薔子とあろうものが――あの程度で揺らぐはずはなかったのだ。薔子にとって、自分以外の人間は玩具に過ぎない。それは薔子自身が性を超えた存在――男でも女でもない、つまり人間ではない生き物だからだ。人間はそれを神と呼ぶのかもしれないし、また鬼と呼ぶのかもしれなかった。
それでも――薔子はまだ若く無邪気で、ひどい残忍を知らない。これから知識を蓄えて、より一層残酷を重ねれば、彼女は完全に神か鬼になるだろう。
「克彦さん。地下に秘密の部屋があるの」
蝋燭の炎のように、薔子の声は揺らいで聞こえた。
「そこでもっと楽しいことをしましょう、ね、もっといやらしいこと、残忍なこと……」
克彦は今度こそその手を取った。
「本当、あなたかわいいわ。剥製にしてしまいたいくらいよ……」
薔子の顔が歪んだ。それが笑みだと理解するのに数瞬を要した。
「お金をたくさん使って、この美貌をたくさん使って、夜ごと楽しいことをしましょう。きれいな童貞の少年ばかりを集めて踊りましょう」
蝋燭の明かりが消えた。視界から何もかもが消えた。触覚と聴覚の夜。それはしばらく明けそうになかった。
了