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 電話の向こうで、あいつが笑った。


(ほう。まだ俺のことを兄と呼んでくれるのか)


 昔と変わらない低く重い笑い声が響いて、杜夫は返す言葉に窮した。


 新美初。

 この人の父親に拾われた杜夫は初を兄のように慕えと言われ、他の同輩たちもそう呼んでいたから、この人のことを「兄さん」と呼ぶようになった。

 しかし、今となってはこの人を兄と呼ぶことに喉の奥が焼けるような抵抗感があった。

 そもそも血はつながっていないし、慕っていたわけでもない。

 しかし、それ以外の呼び方をしたことはなく、今さら他に適当な呼び名も思いつかない。


 きっと初も杜夫のことを弟だと思ったことはないだろう。

 せいぜい、舎弟が良いところだ。

 事実、杜夫は初に顎でこき使われていただけだったのだから。


「ご無沙汰しております」


 何とか絞り出した言葉がこれだった。

 これ以外には見当たらなかった。

 誘拐犯から次の指示がいつ入るか分からないこの状況では一刻も早くこの電話を切ってしまいたいが、杜夫は金縛りにあったように携帯電話を耳に当てたまま突っ立っている。


 もしかしたら……。


 もしかしたら、莉奈の誘拐はこの人の仕業なのかもしれない。

 そうでなければ良いと祈っていたし、これまで頭の中でその考えを無理やり否定し続けていたのだが、その可能性は十二分に考えられた。

 そもそも莉奈が誘拐されたと知って杜夫の頭に最初に浮かんだのがこの人の顔だった。

 この人には杜夫を苦しめたいという明確な動機がある。

 身代金の要求が拍子抜けするほど安価なのも、金目当てではなく杜夫自身をさっさとおびき寄せることが目的だということであれば納得がいく。


(あれからもう何年になる?)


 初の口調はのんびりとしている。

 本当に昔を懐かしんでいるような朗らかな声。

 しかし、一切の油断はできない。

 杜夫は緊張で全身の毛を逆立たせながら、言葉を選んで会話を続けた。


「十六年です」


(十六年?そうか。そんなにもなるのか。元気にしてたか?)


「まあ、何とか」


 愛想笑いもできない。

 元気にしていたか、と問われて「はい、おかげさまで」とは答えづらかった。

 この問いかけの裏には、自分は苦労してきたという思いがこの人にはあるはずだった。

 俺が艱難辛苦を味わっている間に、お前は甘く幸せな生活を送っていたのか、と言いたいのではないか。


 しかし、仕事を失敗して人を傷つけた挙句警察に捕まり、懲役の実刑を喰ったのは初自身のミスが原因だ。

 ひがむのは辞めてもらいたい。


 だいたい何なんだ、この会話は。


 杜夫はイライラしていた。

 今さら旧交を温めるような間柄ではない。

 こんなくだらない身の上話をしている間にも、この携帯電話には犯人からのメールが届いているかもしれないのだ。


(そりゃ、けっこうなことだな。しかし、こんな夜更けに血相変えて、お前は何してるんだ?ん?)


 ぎゅんと心臓を鷲掴みにされたような痛み、苦しみが杜夫の胸を圧した。

 熱いようで冷たい汗が頬を伝う。


 やっぱりあんたなのか。


 女を盗られた仕返しなのか。

 刑務所暮らしの腹いせなのか。

 この人は父親の死も俺のせいにして恨んでいるのだろう。


 八つ当たりだ。

 思い違いだ。


 杜夫は声の限り、そう叫びたかった。

 しかし、足元から這い上がってくる、これまで感じたことのない恐怖心に金玉は縮みあがり、喉がひりついて言葉が出てこない。

 出てきたとしても何の効果も期待できないだろうが。

 土下座して額を地面にこすりつけても、この人の怒りは一ミリも鎮まらないだろう。

 きっとこちらの弁明など耳には入らないに決まっている。


(何か困ったことが起きたんじゃないのか?そういう時はな、お兄ちゃんに相談してみたらどうだ?ん?)


 そう言いながらあいつはまた笑った。

 見下したような、勝ち誇ったような、聞く者に苛立ちを覚えさせずにはおかない笑いだ。


 やはりこの人が莉奈の誘拐について何かを知っているのは間違いないだろう。

 初がかつての力をまだ保持しているのならば、それも難しい話ではない。


 どこまで知っているのか。

 あるいは誘拐を指図した張本人が初なのか。


「私を監視してるんですか?」


 どこだ。

 どこから見ている?

 杜夫は意識を電話から離し、周囲の闇に向けた。

 しかし、どこを見ても先ほどからずっと同じ、人気のない、わずかに羽虫が飛び交う郊外の駅の風景だ。


 と、そのときどこからともなく夜の駅に足音が響いた。

 コツーン、コツーンと革靴の音が近づいてくる。


(監視?そんな怖いこと言うなよ。俺はただ捜してただけだ)


 駅舎からの階段を誰かが降りてくる。

 鈍く光る茶色い革靴が見え、折り目がピシッと入った光沢のあるスラックスが見え、ノーネクタイのワイシャツの胸元が見え、そして顔が見えた。


(見つけたぞ、六郎)


 初の声が杜夫の腹を揺するように響く。


 声だけではなく姿をも見せるのか。

 杜夫は目の前に広がる風景が絶望の図に見えた。

 携帯電話を持つ右手がだらりと落ちる。

 へなへなと腰が抜けそうになるのを何とか膝を震わせて堪える。

 自分が生まれたてのか弱い仔馬のように思えた。

 凶暴な獣の前に今の自分はあまりに非力だ。


 初の後ろに眼光鋭いスーツ姿の男が付き従っている。

 冷静さを漂わせつつも明らかな闘争心を宿した目が炯々と光っている。

 まるで獲物を狙って少しずつ間合いを詰める肉食動物のようだ。


 かつて一味にはこういう雰囲気を持った人間が少なからずいた。

 何を考えているか分からないが、与えられた任務はどんな手を使ってでも確実に成し遂げる。

 そういう怜悧な空気を持った男だ。

 目を合わせているだけで息苦しさを感じるような圧迫感を放っている。

 まだ三十歳を少し超えたぐらいだろうが、かなりの場数を踏んできたようだ。

 そして杜夫を敵と見なした殺気立った目をしている。


 徐々に近づいてくるその男の顔にどことなく見覚えがあるように思った。

 何だろう。

 この見知っている感覚。

 そうか。

 あいつはオヤジに拾われた時の自分に似ているのだ。

 そう思い至ったとき一人の少年のことを思い出した。


「トラ……か?」


 杜夫が思わずそう口にすると、男はほんの少しだけ眼光を翳らせたように見えた。


 杜夫の十メートル手前のところで初は携帯電話をスラックスのポケットに仕舞い、仁王立ちで「実に久しぶりだな」と笑いかけてきた。


「お元気そうで」


 率直な感想だった。

 目の前の人からはうんざりするぐらいに意気軒高な覇気がビリビリと伝わってくる。

 十六年前と比べ、少し肌の色が黒いが、その分精悍さが増したように見える。

 恰幅も良くなって、さらに威厳に満ちたようでもある。


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