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勇んでドアを開くといきなり四つの眼、一組の若い男女の視線と至近距離でぶつかった。
ぽかんと呆気にとられたような表情の二人を見て、自分も同じ顔をしているのだろうと杜夫は思った。
その男女は犯人が指定した座席に座っていた。
しかし、「一組」という表現は、特に女性の方が納得しないだろう。
組としてくくるにしては親密な雰囲気が全く感じられないからだ。
男性の方は積極的に女性にまとわりつこうとしている様子だ。
角刈りが少し伸びたような髪をツンツンに立て、肌はムラのない人工的な日焼けをしている。
くっきりとストライプの走った派手なスーツは堅気には思えない。
街ですれ違ったら絶対に目を合わせたくないタイプだ。
血走って濁った目をしており、おそらくだいぶ酒が入っている。
ますます関わり合いたくない。
一方、女性の方はその男を明らかに嫌がっている。
青ざめた表情ながら手で男の腕を押し、距離を取ろうとしている。
脇に置いた大きめのバッグには参考書やノートの類がのぞいており、膝の上には医療に関するテキストが置かれているところからして大学生か専門学校生というところだろう。
ここに来させた犯人の意図は何だろうか。
もしかすると、この酔っぱらいと酔っぱらいに絡まれている女性という構図はカモフラージュで、二人から杜夫にブロックサインが出て、金の渡し方を指示してくるのかもしれない。
しかし、もっと目立ちにくく穏便な方法がありそうなものだが。
携帯電話を確認しても犯人から新しいメールはない。
ずっと突っ立っているのも変なので杜夫は首を傾げながら二人の向かい側の座席に腰を下ろした。
もちろんこの車両もガラガラなのだが、一番後ろの座席が犯人からの指令なのだから仕方がない。
ちらっと二人を見ると、女性の方が縋りつくような眼差しで、男性の方は威圧的かつ好戦的な目つきで杜夫を見つめてくる。
杜夫は金が入っている内ポケットをスーツの上から押さえながら、素知らぬ振りをしてスーッと車内の前方へ目をやった。
本当ならこの二人とは関わり合いたくない。
しかし、犯人の指示なのだから仕方がない。
もしかしたら、この座席そのものに何か犯人からのメッセージが隠れているのかもしれない。
私は何も関わるつもりはありません、という意思を彼ら側に向けた横顔に必死に込めながら、杜夫は犯人からの次のコンタクトを逸る気持ちで待った。
「何か用か、おっさん」
不機嫌さを隠そうともしない、威嚇するようなどすの利いた声が杜夫の耳に届いた。「あんたのことだよ、おっさん」
無理とは分かっていながら無視を続けてみる。
一ミリも動かなければ、もしかしたら座席と同化して見えて、このヤクザ風の男も興味を失ってくれるかもしれない。
「シカトすんなよ、おっさん。聞こえてんだろ?」
やはり無理だったようだ。
これ以上無視を続けると、無防備に晒している横顔をいきなり殴りつけられそうだ。
「ぼ、僕のことですか?」
杜夫は渋々顔をその男に正対させた。
「そうだよ。他に誰がいるんだよ」
確かに。
この車両には向かい合うこの三人以外は最前列の方に一人だけ、眠っているのか眠っている振りをしているのか、目を閉じているサラリーマンがいるだけだ。
「何でしょう?」
「どっか他の席座れよ。おっさんがここにいると迷惑なんだよ」
こっちだって好き好んでこの席に座っているわけじゃない。
ここにいないと娘の命が危険にさらされるのだ。
「迷惑はかけませんから。あっち向いてますんで」
杜夫は車両の前方を指差して視線もそちらへ向け再び二人に横顔を見せた。
「おっさん、舐めてんのかよ!そこにいるだけで迷惑だって言ってんだよ!」
男は膝をバシンと叩いて立ちあがった。
杜夫の胸倉に腕を伸ばし、強い握力でねじり上げるようにして杜夫を立ち上がらせる。
杜夫は男にされるままにしながら、ポケットから携帯電話を取り出し、その画面が電話やメールの着信を示していないことを確認してがっかりする。
犯人はこの様子をどこかで見ているのだろう。
杜夫がこんなトラブルに巻き込まれていても新たな指令を寄越さないということは、この事態も犯人にとっては筋書き通りということか。
だとすればやはりこのいざこざはカモフラージュで、杜夫の胸倉を掴んでいるこの男が「例の金を出せ」と耳元で囁くのかもしれない。
そうか、そういうことか。
杜夫は身体を捻り男に耳を近づけた。
「なんだ、おっさん。やんのか、こらぁ!」
杜夫の動きは男を挑発する結果しか生まなかったようだ。
どうやらこの男は犯人とは全く関係ないらしい。
至近距離から発せられる息の尋常ではない酒臭さは紛れもなくこの男が酔っ払いであることを証明している。
「お嬢さんは僕がここにいると迷惑ですか?」
胸倉を握られた状態で、杜夫は座っている女性に問いかけた。
この女性からも迷惑だと言われるとさすがにつらい。
それでも娘のためにはここに座り続けなければならないのだが。
女性は杜夫の酔っ払いに反抗する様子に驚きながらも縋るように見上げてブルブルと首を横に振った。
杜夫が正義心、義侠心に駆られ酔っ払いを追い払おうとしてくれている、と勘違いしているのだろう。
「少なくとも僕はこの女性からは迷惑がられていないみたいですよ。あなたの方が迷惑がられてるんじゃないんですか?」
「なんだと、こらぁ!ぶっ飛ばされてぇのか!」
男が杜夫の耳元で怒鳴り、鼓膜にビリビリ響く。
「ぶっ飛ばされても僕はここから動くわけにはいかないんです。殴りたかったら殴ってください」
杜夫は静かに少しうんざり気味に言った。
肋骨の二、三本ぐらい折れたとしても、この座席だけは守らなくてはならない。
それが娘を守ることなのだから。
「何だよ、こいつ」
男は杜夫の無抵抗な様子に気勢を殺がれたのか、掴んだ胸倉を放りだすようにして杜夫を解放した。
杜夫は尻から座席に着地した。
ギシッと座席のスプリングが大きく軋んだ音がする。
男は「何か、きもっ」と言いながら杜夫に背中を向けて、後ろの車両に去っていった。
殴られることを覚悟していた杜夫は全身から力が抜けるようだった。
大きく息を吐き出し、座席の背もたれに身を委ねた。
「ありがとうございましたっ!」
見れば酔っ払いに絡まれていた女性が立って杜夫に頭を下げている。「私、怖くて、怖くて……」
彼女は目に涙を浮かべて杜夫に礼を言う。
「いや、僕も怖かったんだけど、行きがかり上仕方なくね」
杜夫としては複雑だった。
犯人からの指令がなかったら彼女には可哀そうだが絶対に首を突っ込むような真似はしていない。
誘拐犯と関係ないのなら、よりによって今日この電車で酔っ払いに言い寄られるような状態を作り出さないでほしかった。
彼女は何も悪くはないのだが、そう思わないではいられない。
胸のあたりがヒリヒリ痛む。
シャツのボタンを外して覗き込むと先ほど掴まれた時に引っかかれてできた爪痕が赤く滲んでいる。
明日には腫れ上がっているだろう。
何日も痛みが続くに違いない。
うんざりした気持ちでボタンをはめていると、携帯電話にメールが届いた音がした。
次の駅で降りろ
丁度車内に駅に到着する旨のアナウンスが流れる。