6
駅に着いた。
あの改札を馬のように飛び出したのは、つい先ほどのことだ。
まさか今日のうちにここに戻ってくるとは。
俺はこれから何をすることになるのだろうか。
電車に乗るのか。
誰かと話すのか。
犯人の次の指示はどのようにしてもたらされるのか。
色々な疑問が次々と湧いてきて、パニックになりそうで、杜夫は自分自身に落ち着け落ち着けと言い聞かせた。
下り列車がホームに到着する。
十一時を過ぎているのに結構大勢の人数が、と言っても十五人ほどだが、ベッドタウンのこの駅で電車を降りた。
杜夫は人待ち顔で駅舎の壁にもたれ、改札を通り過ぎる一人ひとりの動きに集中した。
赤ら顔のサラリーマンが多い。
制服を着た高校生も目立った。
女の子も二人いる。
帰宅時間として今の時刻をどう考えているのか知らないが、彼女たちはそれぞれ特段焦る様子もなく、携帯電話をいじりながら慣れた足取りで外の暗闇に消えていった。
昨今の物騒な世の中において、その後ろ姿は無防備に過ぎるようで、娘を持つ親として杜夫は不安と憤りを禁じ得ない。
莉奈も彼女たちと同じような感じなのだろう。
あんな風に隙だらけでは誘拐など簡単なことなのかもしれない。
せめて彼女たちは無事に家に辿りついてもらいたい。
視線を戻すと細身の身体には不釣り合いな感じの黒いフルフェイスのヘルメットを脇に抱えた大学生風情の男が目の前を過ぎて行った。
肩にかかりそうなサラサラの長い髪の向こうから神経質そうに細められた目が覗いている。
こいつ、怪しくないか。
あてにはならないが直感がそう言っている。
一度そう思うと疑わしく見えてしかたがない。
少し首の伸びたみすぼらしいロングTシャツ。
ファッションなのか履きすぎなのか、膝の擦り切れたジーンズ。
栄養状態の悪そうな落ちくぼんだ頬。
無精を絵に描いたようなまばらな髭。
こいつなら三十万円は喉から手が出るほど欲しいだろう。
じろじろと見る杜夫の視線に気が付いたのか、その男はギョッとした顔を杜夫に向け、すぐに目をそらすと背中を丸めて足早に出口に向かった。
あのオドオドとした様子。
やはり怪しい。
ちょっと声を掛けてみようかと足を踏み出したときに携帯にメールが入った。
犯人からだろうか。
前回の電話で少しペースを乱されたと感じて、メールでのやり取りに切り替えてきたのか。
指示を出すだけならメールの方が確実で安全かもしれない。
やはり犯人は頭が切れる。
メールを開くと、案の定発信元は莉奈の携帯電話だった。
十一時七分発の上り電車
これに乗れと言うことだろう。
ハッと構内の壁時計に視線を飛ばす。
十一時六分。
間もなく電車がやってきてしまう。
杜夫は慌てて自動券売機に駆け寄った。
背後で電車の到着を知らせるアナウンスが響く。
早く買わないと乗り遅れる。
杜夫はポケットから財布を取り出し五百円玉を投入した。
金額が表示されたボタンに灯りが点く。
いくらの切符を買えば良いのか。
どこで降りるかは指示がない。
悩んでいる時間はない。
取りあえず四百七十円のボタンを押す。
もぐように切符を取り、お釣りの三十円は無視して改札に向かって駆け出した。
ホームから電車のブレーキ音が聞こえてくる。
三十万円の入ったレジ袋を握りながら電車目がけて杜夫は走った。
杜夫の行く手を阻むように乗客が降りてくる。
杜夫は人の波に逆らい、泳ぐようにして前へ進んだ。
発車予告のジングルを聞きながら漸く電車の最後尾に飛び込んだ。
すぐに背後でプシューっとドアが閉まる音がする。
「駆け込み乗車はご遠慮ください」
車内アナウンスで不機嫌さを隠さない車掌の声が流れ、大儀そうにゴトンゴトンと電車は動き出した。
杜夫は心の中で謝りながら、膝に手を当て懸命に空気を肺に取り込んだ。
杜夫はレジ袋をスーツの内ポケットに仕舞い、ズボンの後ろのポケットからハンカチを取り出し額を拭った。
汗を拭きながら車内に視線を飛ばす。
この時間の上り電車はガラガラだった。
見えるのはくたびれた様子のサラリーマンが二人に初老の品の良さそうな女性が一人だ。
どの人も杜夫の中で犯人と結び付くようなイメージは浮かんでこない。
しかし、犯人はどこかで杜夫の行動を見ているに違いない。
隣の車両からこちらを盗み見ているのだろうか。
少し落ち着いて考えてみよう。
発車一分前のメールでは杜夫はこの電車に乗れない可能性があった。
事実、杜夫がこの電車に乗り込めたのは扉が閉まる寸前で、そのために車掌から注意されるような有様だ。
メール着信のほんの少し前に第三者から電話が掛かってきていれば、メールの内容を読む前に電車が発車してしまっていることも十分ありえた。
杜夫が乗車できなかったら犯人はどうしただろうか。
きっと駅に取り残された杜夫に対して何らかの手は用意していたはずだ。
となると先ほどの駅で杜夫の行動を確認している人間が必要だ。
そしてこの電車の中でも。
つまり犯人は複数人いることになるのではないだろうか。
身代金の額からすると二人か、多くても三人。
とにかく杜夫が乗車したことを犯人は何らかの方法で承知しているだろう。
しかし、次の指示はまだ来ない。
車内の座席は全て窓に沿って向かい合う形で並んでいる。
杜夫はドアの一番近く、車両最後尾の座席に座り込んだ。
そのまま座席に倒れ込みたい気分だった。
身体が疲れている。
膝が笑っている。
もう二度と立ち上がりたくない。
杜夫は首を伸ばして車内を見渡し、不審な人物がいないことを確認して一気に座席に身体を横たえた。
心地良い。
寝そべって電車の天井を見上げるのも背中から車輪の振動が伝わってくるのも初めての体験だ。
意外に座席のクッションは悪くない。
中吊り広告がゆらゆらと揺れて、眠りに引きずりこもうとしてくる。
身体が疲れている。
莉奈。
ここで眠ってしまっては莉奈は帰ってこない。
それどころか郁子が怖くて杜夫自身も家に帰れない。
そうは思っても中吊り広告が一定のリズムで揺れ、背中から等間隔で心地良い振動が伝わってきて、催眠に掛かったように瞼が重くなる。
まさに魔法のように眠りが素早く重くのしかかってきた。
そこへまた携帯電話にメールが飛び込んできた。
反射的に杜夫はハッと身体を起こした。
後ろから二番目の車両の一番後ろの席
犯人からだ。
眠気が一気に吹き飛ぶ。
二番目の車両の一番後ろの席がどうした、と文句を言いたくなる。
しかし、一人娘を奪われている立場上そんな返信ができるわけもない。
犯人が言いたいのは、ここから一つ前の車両に移動しろということに違いない。
その一番後ろの席でまた何か指示が来るのだろう。
金の受け取り役がいるのか。
それとも金の入ったレジ袋を網棚の上にでも置くことになるのか。
とにかく今は従うしかない。
重い身体を引きずるようにして手すりを掴んで立ち上がる。
杜夫は乳酸の溜まった足を懸命に動かした。
のっしのっしと重々しく足を踏みしめて漸く連結部分にあるドアの前に到着する。
このドアの向こうに何があるのか。
犯人の指示が少しずつ具体的になってきている。
金の受け渡しが迫っているのだろう。
この三十万円が相手に渡ったとき、莉奈はどうなる。
無事に我が家に帰ってこられるのだろうか。
強い不安に疲れとは関係なく足が震える。
しかし、いつまでもドアの前で突っ立っているわけにはいかない。
杜夫は気合いを入れるため頬を両手で強く叩き、一つ息を吐いてドアに手を掛けた。