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「一つ、確認しておきたいんだけどさ」


 郁子が下唇に拳を押し当て般若の面の形相で何も映っていないテレビの画面を睨み付けているから、話し掛けるには少し勇気が必要だった。


「何?」


 案の定、郁子は苛立ちの籠った低い声で不機嫌さを隠さずこちらを見る。


「連絡……する?」


「どこに?」


「その……警察に」


 警察に連絡することが芹沢家にとってプラスかマイナスか、どちらにつながるのか杜夫には判断がつかなかった。

 しかし、犯罪に直面している以上、この選択は重要に思えた。

 ここは郁子の考えを確認しておきたい。

 単純にそう思ったから問いかけたのだが、杜夫の言葉に郁子の目尻がさらにピクッと吊り上がった。


「したいの?」


 杜夫の意思を訊ねるというのではなく、そこには明らかに否定的な響きが込められていた。

 まさか、したいわけじゃないでしょうね。

 そんな感じだ。


「いやいや。したいわけじゃない。もちろんしない」


 慌てて否定するが、郁子は訝しむような目でこちらを見て、その視線を壁の時計にずらした。


「そろそろかな」


 言ってから郁子は自分の言葉に緊張したのか、一つ大きく息を吐き出した。


 郁子の言葉に杜夫が連想したのは鍋だった。

 このダイニングテーブルにガスコンロを置き、その上に大きな土鍋をセットする。

 蓋をした土鍋から湯気が立ち上り、莉奈が、もう待てない、という感じで「そろそろかな」と言う。

 ほんの半年ほど前の冬の我が家の情景だ。


 しかし、今、杜夫と郁子の前にあるのは三十万円が入った封筒とコンビニの白いレジ袋とFAX付き電話だ。

 待っているのは誘拐犯からの次の指示。

 何がどう転んでも目の前で温かそうで幸せそうな湯気は浮かび上がってこない。

 そして、この場に莉奈がいない。


「そうだな」


 前回の連絡から三十分以上経過した。

 先ほどの電話連絡の間隔が三十八分であったことから、もう掛かってきてもおかしくはない。


 郁子は服のポケットから携帯電話を取り出す。

 次のやり取りを録音する準備だろう。


 そこへ案の定電話が鳴った。

 十時四十九分。

 前回から三十六分。


 杜夫は郁子と顔を見合わせ、反射的に電話のスピーカーホンのボタンに手を伸ばした。

 しかし、電話は杜夫の指の前で静かに鎮座し、着信音は違うところから聞こえてきていることに気付いた。


 この音、どこかで……。


 思い至って杜夫はその場で腰を浮かせ、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。

 鳴っていたのは自分の携帯電話だった。

 液晶の表示を見て心臓がギュッと縮まる。


「莉奈からだ」


 いや、正確には莉奈の携帯電話からだった。

 莉奈が誘拐されているのなら、この携帯電話も犯人の手中にあるはずだ。「どうしよう。携帯電話のスピーカーホンってどうすればできる?」


 固定電話には「スピーカーホン」と書かれたボタンがあるから容易に分かるが、携帯電話ではそうはいかない。

 同じ機能が備わっているかどうかも判然としない。

 「どうしよう、どうしよう」と杜夫は慌てた。


「とりあえず出て」


 郁子は落ち着いた様子でテーブルを回って自分の携帯電話を杜夫の顔に近づけた。


 杜夫は未確認の生命体に触れるように恐る恐る指を伸ばして通話ボタンを押し、音量を最大にした。


「もしもし?」


(カネハヨウイデキテルナ)


 声の主はやはり莉奈ではなく先ほどと同じ機械的な低音だった。


 嗚呼(ああ)

 杜夫は心の中で嘆息を挙げた。


 すがっていた淡い期待が容赦なく押し潰された瞬間だった。

 でっちあげなどではなかった。

 誰かが莉奈をかどわかしたのは事実だ。

 その証拠に犯人は莉奈の携帯電話を持っている。


「ああ。金はここにある」


 このボイスチェンジャーの声とやり取りしていると、この世のものとは違う異次元の世界の生き物と話をしているような不思議な気分になってくる。

 人間との会話にある息遣いや体温が一切感じられない。

 こちらの言っていることが相手に伝わっている手応えがまるっきりない。


(シュウゴウポストノナカヲミロ)


 低音はロボットのように躊躇いも淀みもなく平板に指示してくる。


「ちょっ、ちょっと待ってくれ」


 このままではまた犯人の一方的なペースでやり取りが終わってしまう。

 何か一言でもこちらからの問いかけに答えさせなければ。「娘は。娘は本当にそこにいるのか。声を聞か……」


 そのとき電話の向こうで、おとうさーん、と女性の叫ぶ声がした。


「莉奈!」


 娘の名前を叫んだのは郁子だった。

 妻に寸刻先を越された杜夫はただ開けた口を静かに閉じた。


 既に電話は切れていた。


 莉奈らしき少女の声が聞こえたことで、さらに追いつめられた気分になる。

 莉奈の身に危険が及んでいることが具体的な切迫感として胸にせり上がってくる。

 口が乾き、息が浅くなる。


「あれは莉奈の声だったかな?」


 娘の声かどうか今ひとつ自信がない。

 電話越しで少し不明瞭だったし、その響きには囚われの身になった切迫感が欠けていた気もする。

 あの声だけで莉奈と決めつけてしまうのは危険ではないか。

 疑ってしまうのは、そう思いたいだけなのかもしれないが。


 しかし、妻は他の可能性を全て否定するように力強く頷いた。


「莉奈よ。間違いないわ」


 これだから男親はあてにならない、とその目が言っている。「何が入ってるのかな」


「え?」


「集合ポストの中」


 郁子はそう言い残して、キレのある身のこなしでリビングを出て行った。


「ああ、そうだった」


 玄関に向かう妻の背中を追いながら、杜夫は彼女の落ち着きに感心していた。

 女は度胸というところだろうか。

 いや、彼女はどんな時でもどっしり構えていた気がする。

 昔からそうだった。

 いつもぶるぶると震える足を懸命に動かして仕事をしていた自分とは肝の据わり方が全然違うと認めるしかない。


 二人で階下へ移動する。

 集合ポストの前に来ると蜘蛛の巣が張った蛍光灯の頼りない灯りに照らされて、我が家のポストの扉の隙間から白いものが覗いていた。


 躊躇なく妻が扉を開ける。

 白いものは封筒だった。


 杜夫はポケットからハンカチを取り出し、指で直接触れないようにしながら、その封筒を慎重に取り出した。

 コンビニで手に入りそうな、ありきたりな封筒だ。

 表面には何も書かれていない。

 切手も貼られていない。

 裏に返しても文字は何一つ見つけられなかった。

 そして封さえされていない。

 犯人が自らこのポストに投函したのだろうか。

 だとしたら何と大胆な。


 弾かれるように杜夫は団地の前の道路まで駆け出た。

 街灯の少ない夜の深い暗がりに視線を飛ばす。

 樹の植え込み、電柱、曲がり角。

 しかし、怪しい人影は見当たらない。


 集合ポストに戻り「今日はいつこのポストを見た?」と訊ねると、郁子は「んー」と小首を傾げた。


「パートから帰ってきたときだから、五時半ごろかな。そのときはピザ屋のチラシが入ってただけ」


「さっきコンビニに行ったときは?」


「こんなのなかった」


 郁子は間髪入れずに答えた。


「言い切れる?」


「チラッと見ただけだけど、間違いない。こんな目立つ封筒見逃すはずがない」


「ふーん」


 妻の言葉を信じればこの封筒は投函されてからまだ三十分と経っていないということになる。

 そして犯人は我が家の住所を知っているということも分かる。

 莉奈から聞き出したということも考えられなくはないが、莉奈が本当の住所を喋るとは限らないのだから犯人は事前に知っていたと考える方がしっくりくる。

 となると、やはり今回の犯行は計画的だ。

 そして犯人は芹沢家と何らかの関係のある人物の可能性が高い。


 杜夫は封筒の中を覗き込んだ。

 中には白い紙片が一枚折りたたまれて入っていた。

 それだけを確認して二人は部屋に戻った。


 再びダイニングテーブルに着くと、郁子がピンセットを持ってくる。

 それを封筒の中に突っ込み、紙片を取り出す。


 出てきたのは、これまたどこにでも売っていそうなルーズリーフのノート用紙だ。

 ルーズリーフは莉奈も使っている。

 これは莉奈のものかもしれない。


 そのノート用紙には新聞紙から切り取られた文字が幾つも貼り付けられていた。



 金と携帯電話を持ってすぐに駅に向かえ



 杜夫は三十万円の入ったコンビニのレジ袋を掴んで立ち上がった。


「行ってくる。君はここで待っててくれ。念のため謙さんに来てもらおう」


「私のことは大丈夫よ。誘拐されてるのは莉奈なんだし。莉奈のことだけを考えて」


「それはそうなんだが……万が一、犯人の目的が身代金じゃなかったとしたらと思って」


「それって……」


 表情にサッと怯えの色を浮かばせた郁子は口元を手で押さえた。

 杜夫が何を怖れているのか思い当たった様子だ。


 杜夫は郁子に一つ頷いてみせて玄関に向かう。

 ドアを閉め、携帯電話に「次郎吉」の番号を表示させ耳に当てながら、杜夫は再び走り出した。


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