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杜夫はリビングに駆け戻った。
けたたましく鳴る電話に手を伸ばそうとしている郁子を制して受話器に手を掛ける。
ここは俺の出番だと思った。
郁子もこのために俺を呼び戻したのだろう。
「前回の電話は何時だった?」
「九時三十五分」
郁子は杜夫に挑みかかるような顔つきで、その質問を待っていたかのように即座に答えた。
今は十時十三分。
つまり間隔は三十八分。
郁子が自分の携帯電話を固定電話に近づける。
なるほど。
それで会話を録音するということか。
杜夫は受話器から手を放し、スピーカーホンのボタンを押した。
「もしもし?」
(ケイサツニハ、レンラクシテナイダロウナ)
郁子が言ったとおりボイスチェンジャーを使った奇妙に低く抑揚のない声が部屋に響く。
まるでロボットのような、一語一語ぶつ切りの話し方だ。これでは確かに性別も年代も分からない。
隣に立つ郁子が全身を緊張させたのが分かる。
携帯電話を握る手が小刻みに震えている。
やり場のない怒りが彼女の身体に充満して、どこか出口を探している。
「ああ。もちろんだ。娘はそこに……」
(ムスメヲブジカエシテホシケレバ、サンジュウマンエンヲシロイレジブクロニイレテ、テモトニヨウイシロ。マタカケル)
「三十万?」
三千万円じゃなくて?
しかし、杜夫が訊き直そうとしたときには、すでに電話は切れていた。
郁子がすぐに携帯電話を操作し今のやり取りを再生する。
もしもし
ケイサツニハレンラクシテナイダロウナ
ああ。もちろんだ。娘はそこに
ムスメヲブジカエシテホシケレバ、サンジュウマンエンヲシロイレジブクロニイレテ、テモトニヨウイシロ。マタカケル
三十万
音量を大きくして何度も繰り返し聞いてみる。
声の向こう側に何かヒントとなる音はないかと耳を欹てた。
しかし、そういう音は見事に皆無だった。
強いて言えば、やり取りの途中で何となく引っ掛かりを覚える箇所があった。
杜夫が莉奈の安否を確認しようとしたところを無視して誘拐犯が要求を述べている。
どうもそこのやり取りが不自然だ。
「録音しておいたのを流したのかな。会話の間が噛み合ってない気がする」
さすが郁子だ。
幾つもの修羅場をくぐりぬけた鋭い観察眼はいまだに健在だ。
「俺もそう思った。録音しておいたのを流すだけなら、余計なことを喋らないし、居場所が分かるような雑音を防ぐことができるもんな」
録音した言葉を流すのは賢いやり方だと思う。
要求額も拍子抜けの三十万円だが、下手に法外な金額を要求すれば、こちらの警察に連絡したい気持ちを高めてしまうということを考えると実に現実的な金額だと言える。
三十万円なら今からコンビニのATMで下ろせる。
取りあえずは用意してみようか、それで娘が帰ってくるなら取られても構わない、と大抵の親は思うだろう。
やはり犯人は計画的に実行している。
そして我々はとにかく三十万円を用意するしかない。
三十万円なら決して豊かではない我が家の家計からでも捻出するのは難しくない。
郁子は先日スクラッチ宝くじで二十万円当てている。
スクラッチは郁子の趣味みたいなもので、しかも十万円から三十万円ぐらいの当たりくじを毎年のように引くという強運を持っている。
そろそろ当たりそうな気がする、などと言って本当に当てるから、カードを削る郁子を傍で見ている杜夫は怖いような、頼もしいような気になる。
そして杜夫自身も最近ひょんなことから三十万円の臨時収入が入ったばかりだ。
ひょんなこととは謙さんと一緒に受けた人間ドックでの出来事のことだ。
検査先の病院でミスが二つ起きた。
まず一つ目が胃のバリウム検査。
バリウムを飲みゲップを必死に堪えて何とか検査終了となったのだが、検査台から降りようとしたとき、操作ミスで検査台が突然動き出して転げ落ちてしまったのだ。
検査の苦痛とそれからの解放で気が抜けていた杜夫は受け身も取れず床に額を打ち付け出血し、青黒い大きなたんこぶを作ってしまった。
さらにその病院で個人情報の取り扱いに不手際があり、その二つのミスについて病院から謝罪金の提供があったのだ。
三十万円ももらえるのか、とは思ったが遠慮はしなかった。
額の傷は泣けるほど痛かったし、一旦は心臓の働きに懸念がありすぐに精密検査を受けるよう指導されて大いに肝をつぶしたのだから。
「コンビニに行ってくる」
郁子は財布を手に夫の言葉を待つことなくリビングから走り出ていった。
杜夫は妻を止めようかと思ったが、やめた。コンビニならこの団地を出てすぐのところにある。
彼女はこの部屋でずっと悶々としているよりは、短時間でも外の空気を吸った方が良い。
それに杜夫自身今は身体を休めて体力を回復させたかった。
きっとまた三十分ほどで犯人から連絡が入るだろう。
泥棒ならどんなものか想定できるが、誘拐犯となると未知だ。
これからどんな戦いが待っているのか想像がつかない。
杜夫はとりあえずダイニングテーブルの椅子に腰を下ろした。
杜夫は少しホッとしていた。
三十万円を要求してきた犯人はあいつではなさそうだ。
もしあいつだったら莉奈だけでなく、郁子や自分自身の命さえも窮地に立たされていることを覚悟しなければならないところだ。