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「一体、どうした?」
後ろ手に玄関のドアを閉めながら杜夫は妻の言葉を待った。
まだ心臓は早鐘を打っている。
呼吸も落ち着いてはいないし、全身が汗でべっとりしているが、浴室に向かうのは郁子の用件を聞いてからだ。
前を歩く郁子の背中はいつになく小さく見えた。
リビングに入ったところで彼女は立ち止まり、力なく左手の方を見下ろした。
「変な電話があったの」
妻の視線の先には固定電話がある。杜夫はその電話を指差した。
「こっちに?」
「そう」
郁子は弱々しく頷いた。
つまり郁子の携帯電話に掛かってきたわけではないということだ。
最近は杜夫にも郁子にも用事があれば携帯電話に掛かってくることがほとんどで、家の固定電話が鳴るときは家庭教師のあっせんや宗教の勧誘、光回線の営業など迷惑と言って良い類のものばかりだ。
郁子が言う「変な電話」もその延長線上なのか。
いや、郁子はその程度の「変な電話」にダメージを受けるようなやわな女ではない。
これが五分おきの無言電話や夫の不倫を告げる怪電話でも、あるいは冥界からの心霊電話であっても楚々(そそ)と受け流し、夫に帰宅を急がせるような真似はしないだろう。
郁子はそういう精神力の持ち主だ。
「どんな電話?」
杜夫が訊ねると郁子は表情を強張らせた。
頭に浮かんだ言葉を口にすることさえ忌み嫌うような眉の顰め方だ。
「娘を預かってるって」
「預かる?」
預かるとはどういうことだ。保育園じゃあるまいし。
「これって……」
郁子は足元が覚束ない老人のようにゆっくりとダイニングテーブルの椅子に腰かけた。
「誘拐よね」と呟いた後、ため息とともに両手で顔を覆う。
「ゆ……」
誘拐?
まさか、莉奈が。
しかし、郁子の暗い眼、落ちた肩を見ればこれが冗談ではないことは確かだ。
愛娘の莉奈は郁子の唯一の弱点と言っても良い。
夫が突然蒸発してもこんな憔悴したような表情は見せないだろう。
誘拐という言葉を口にした途端、まるで玉手箱を開けたかのように郁子が一気に年老いたように見えた。
「莉奈の携帯電話は?本当に連絡がつかないの?」
「電源が入ってないってメッセージ。何度も掛けたんだけど」
むぅ、と杜夫は言葉にならない声を漏らし顎に手を当てた。
莉奈はこの春から高校生。
身代金目当てに誘拐するなら抗う力のない幼稚園児や小学生だろう。
自分が犯人だったら、身体的にほぼ大人で、大声を出し暴れる可能性が高い高校生は狙わない。
それに莉奈は幼いころから水泳をやっていて腕力もそれなりにあるはずだ。
むざむざ犯人の手に落ちたとは考えにくい。
しかし、娘を預かっているという内容の電話が掛かってきたということは、そういうことなのだろうか。
あの馬鹿娘が。
口には出さないが心の中で思わず罵る。
あれは数か月前。
中学校の卒業式のあたりだったろうか。
莉奈は急に素行が悪くなった。
髪を茶色に染め、耳にピアスをし、遊びに出ると十時、十一時ぐらいまで帰ってこない。
塾や部活なら分からないではない。
しかし、中学校を卒業したてのまだ小便臭いガキが年頃の背伸びか何だか知らないが、生活を乱して親の言うことを聞かずに連絡もなく深夜と言っても良い時間まで遊び呆けている。
しかもそれを少し注意すると自室にこもって出てこなくなる。
顔を合わせると常にムスッとしていて眉間に皺を寄せている。
あんなに四六時中不機嫌そうに顔を歪めていては疲れて仕方ないだろうと彼女の顔面の筋肉が可哀そうになるぐらいだ。
最近は小遣いのレベルでは買えなさそうなアクセサリーやバッグなども身につけている。
何度か説教をしたが娘の態度は父の期待を裏切り続けていた。
相談すると郁子はあまり気にする様子もなく「バイトして買ってるんじゃない?」とあっけらかんとしたものだ。
「俺はバイトなんて認めてないぞ」
学生の本分は勉強だろう。
そして部活によって仲間との絆を強めていくのだ。
そういう普通の高校生活を送ってもらいたい。
それがまともに高校に通うことができなかった杜夫の娘への願いだ。
しかし、そんな杜夫の熱い主張も妻の「私が認めたの」で一蹴された。
まあ、いい。
部活ではなくアルバイトでも職場の仲間との絆はできる。
そう思って改めて莉奈の様子を観察してみたが、彼女が汗水たらしてアルバイトに精を出しているとは思えなかった。
これまで彼女を一人娘として甘やかして育ててしまった。
きっと莉奈につらい仕事をする根性などありはしない。
そもそも仕事をするのならあんな派手なネイルは邪魔でしかないし、まだ幼さの残る顔にどぎつい化粧は不釣り合いで仕事には向かない。
男がいるのだ。
莉奈のためならせっせと貢ぐ男が。
郁子に言ったら卒倒してしまいそうだから言わないが、きっとそうだろう。そんなふしだらで隙だらけの生活態度だから、まんまと誘拐されてしまうのだ。
いや、誘拐されたと決めつけるのはまだ早いのかもしれない。
時計に目をやる。
十時を過ぎたところだ。
この時刻なら最近の莉奈は帰宅していないことも珍しくない。
そういう意味では、あと五分もすれば平然と帰ってくるということがないとは言えない。
悪意ある人間に担がれているということはないだろうか。
杜夫の頭に「オレオレ詐欺」という言葉が浮かぶ。
今回の件も新手の詐欺なのかもしれない。
莉奈の素行の悪さを知っている人物がそれを利用して誘拐をでっちあげ、親から金銭を騙し取る。
なくはない。
「電話を掛けてきた奴は他に何か言ってた?」
「警察に連絡するな。また電話する。それだけでプツン」
「それだけ?身代金の要求は?」
郁子はテーブルの上に視線を落としたまま首を横に振った。
「どんな奴だった?歳のころとか……。そうだ。性別は?」
「それが、ボイスチェンジャーを使ってたの。昼のワイドショーとかで、すりガラスの向こうで喋っているような感じの低くてぼわんとした声。それにわざと片言っぽい喋り方してた。だから性別も何歳ぐらいかも全然……」
畜生、と妻は悪態をついた。
莉奈が生まれる前は妻から度々この「畜生」を聞くことがあったが、今日ほど憎悪のこもった響きを耳にしたことはない。
「相手も周到だな……」
ボイスチェンジャーは今時ネットで簡単に手に入る。
しかし、それを使って接触してくるということは犯人も前もって準備をしていたということだ。
計画だった犯行。
急に娘を誘拐されたという実感が湧いてきて全身に悪寒が走る。
莉奈がさらわれた。
一人娘の莉奈が。
あの目に入れても痛くないという意味を教えてくれた可愛い莉奈が。
低体重児で生まれた莉奈。
小さくて、小さくて、ぶるぶる震えて。
こんなにか弱い生き物を世間のことを何も知らない自分たちが育てられるのかと不安だった。
気管が弱くすぐに熱を出し、小学生に上がるまでは何度も入退院を繰り返した。
それが近所の友達に誘われ水泳を始めると急に身体が丈夫になっていった。
ちび、ちびと言われ続けていたが、小学校を卒業するころには学年で一、二を争う高身長となった。
中学校に入った途端、雑誌のモデルをやらないかと声を掛けられるほどの容姿に変貌を遂げて、親として鼻の高くなる想いだった。
当時本人は水泳以外に興味がなく、その話をあっさり袖にしたが、あのときモデルやっとけば良かったかも、と三年生になってから言い出してもそれは後の祭だった。
「時間って一方通行なんだね」と哲学ぶったことを口にした娘に夫婦で顔を見合わせて吹き出したのはついこないだのことだ。
莉奈の姿が走馬灯のように眼前を駆け巡る。
莉奈が誘拐された。
今頃彼女はどこにいるのか。
きっと見たこともない廃墟の一室に押し込められ、凶暴な犯人に脅され、不安で、不安で仕方がないだろう。
何と不憫なことか。
もしかしたら……。
誘拐は犯人側にとってもリスクが高い犯罪だ。
人質に顔、背格好を見られるし、人質を連れての移動は困難を極める。
だから早い段階で人質を殺してしまうことが多いと聞く。
だとすれば莉奈はもう……。
杜夫の心臓が再び早鐘を打つ。
いてもたってもいられなくなってくる。
どうしよう。
どうしよう。
何をすれば良い。
莉奈が死んだら、明日を生きる理由を見失いそうだ。
「ぶっ殺してやる」
妻の一言で杜夫は我に返った。
突然テーブルをボカンと殴りつけて立ち上がると郁子は鬼の形相で壁を睨みつける。
まだ見ぬ犯人の顔をそこに思い描いているのだろう。
妻がこれまで見せたことのない憤怒の表情を浮かべている。
基本的にはドライでクールな性格の郁子だが、今回は犯人をその手で捕まえたらどういう仕打ちをするか分からない。
本気を出したら素手で人間の首の骨を折ることぐらい造作もない彼女だ。
郁子は今、頭に血が上っている。
その分今は自分が冷静になって、物事を客観的に見なくてはならない。
「とにかく待とう。そのうちひょっこり帰ってくるかもしれないぞ」
少しでも気休めになればという思いで言ったのだが、妻の射るような視線を浴びて杜夫は逃げるように寝室に向かった。
全身を濡らしていた汗が冷えて嫌な寒気が身体を支配し出していた。
とにかく今は莉奈の生還を信じて為すべきことを一つずつやっていこう。
おそらくこれから長く険しい戦いが始まるのだろう。
まずは、シャワーを浴び、着替えを済ませて少しでもさっぱりしたい。
その杜夫の背後で電話が鳴り響いた。