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鴻池は困惑の顔で莉奈を、そして向い側に座る杜夫と郁子を見た。
莉奈が何を考えているのか分からないという目だ。
しかし、そんな目で見られても杜夫もさっぱり莉奈の行動が理解できない。
鴻池は結局その視線を莉奈に戻した。
「莉奈ちゃ……」
バチン。
ビシャッ。
ボタボタボタ。
杜夫は目の前で起きたことが信じられない思いだった。
愛娘がいきなり男の頬を平手打ちし、その顔にコップの水を掛けたのだ。
「莉奈!」
杜夫と郁子は同時に娘の名前を呼び、立ち上がっていた。
鴻池は自分に何が起きたのか分からない様子で呆然と莉奈の顔を見ている。
莉奈だけは平然とした表情でオレンジジュースのストローを口に銜えた。
杜夫はポケットからハンカチを取り出して、鴻池に差し出した。
しかし、魂の抜けたような顔をしている鴻池はハンカチが見えていないのか、受け取ろうとしない。
仕方なく杜夫が手を伸ばしてテーブルの向こう側にいる鴻池の顔を拭いてやる。
「莉奈。訳を言いなさい。理由もなくこんなことしないでしょ?」
郁子がソファに座り直し、莉奈の顔を覗き込んで「ねえ。莉奈」と優しく問いかける。
「浮気よ」
「浮気?」
鴻池の肩を拭いていた杜夫が手を止める。
「そう。はやちんは私という彼女がいながら、よその女に手を出したのよ」
「ちょ、ちょっと。それは何かの間違いだって。俺、そんなことしてないよ」
浮気の嫌疑を掛けられて漸く鴻池の目に生気が戻り、顔から水を滴らせながら莉奈に熱い口調で否定する。
「二月十五日。誰だかの送別会でぐでんぐでんに酔っぱらって、あんたはどこぞの女の家に泊まったんでしょ?」
莉奈の指摘に鴻池の顔がみるみる青ざめる。
これは助け舟の出しようがないと杜夫は口をつぐんで天井を見上げた。
郁子が射殺すような目を鴻池に向けているのは見なくても分かる。
「お前。莉奈の言っていることは本当か?」
郁子の押し殺したような声はもう爆発寸前だ。
「いえ。その。本当は本当なんですけど、記憶がないって言うか。気がついたら、女性の先輩の家で寝てたって言うか……」
「で?」
郁子が瞬きもせず鴻池を睨み付けて話の続きを促す。
「その先輩に告白されまして、それで、僕には彼女がいますってお断りしました」
「何もなかったって言いたいのか?」
「何もありません」
鴻池が断言したところで、莉奈が目を朱く染めて鴻池の方を向いた。
「その先輩とかいう可愛くて背が高くて胸も大きい人が私んところに来てさ、鴻池君と別れてくれって、一晩共にしたから、妊娠したかもしれないって言いやがったのよ。私、むかついたから、はやちんとは別れる気はないって、そんで、中絶費用は責任もって私が払うって言ってやったの。私、その人と張り合うためにお年玉とバイトしたお金で可愛い服を買って化粧も頑張って覚えた。でもね。はやちんに浮気されたかと思うと、どうしても悔しくて、悔しくて……。だから、中絶費用の三十万円を手切れ金にはやちんとはきれいさっぱり別れようと思ったの」
「莉奈……」
莉奈が急に派手になった理由はこれだったのか。
杜夫は全てに納得がいく思いだった。
高校一年生の娘が妊娠だとか中絶だとか浮気だとかいう言葉を口にするのは父親としては耳を覆いたくなる気分だが、この小さな胸に大人でも辛い悔しさ悲しさを抱いていたのかと思うと不憫でならない。
涙ぐむ愛娘の姿にこれまでには経験したことのない愛しさが込み上げてきて無性に抱きしめたい気持ちが募る。
「莉奈ちゃん……。その人、妊娠なんかしてないよ」
鴻池が諭すように言う。
「そんなの関係ない!」
ぼたぼた零れ出した涙を拭うことなく莉奈は鴻池を睨み付けて叫ぶように言い放った。
「莉奈。あなたはまだ高校一年生なんだから、これからどんどん綺麗になるわ」
郁子は全てを悟っているような柔らかい表情で莉奈に声を掛ける。「大丈夫よ。私とパパの子なんだから、自信持ちなさい」
「え?」
杜夫と莉奈の驚きの声が重なった。
郁子はテーブルに頬杖をついて微笑んだ。
「だから。さっきのは、はったり。二人はちゃんと実の親子よ。あいつとの子だと疑われるのは癪だからと思ってDNA鑑定もしてあるから安心しなさい。でも本当に役に立つ日が来るとはね」
郁子の言葉に杜夫は一瞬にして身体が軽くなるのを感じた。
胸の痞えがとれて、肋骨の痛みまでも失せたようだった。
「でも、私、パパの人間ドックの結果の紙、見たよ。あれに血液型がO型って書いてあったもん」
莉奈が手の甲で涙を拭いながら反駁する。
「あれはなぁ」
杜夫は思わず頬が緩むのを堪えられず、郁子と笑い合う。「病院が俺と謙さんのデータを間違ったんだよ。だから、あのドックの資料は住所と名前以外は謙さんのものなんだ」
「えぇ?」
莉奈は力が抜けたように椅子の背もたれに身を委ねる。「なーんだ。私、馬鹿みたい」
「そんなことないぞ。莉奈が俺やママの命を救おうと必死に頑張ってくれたこと、俺は一生忘れない」
「私もよ。莉奈」
「パパ。ママ……」
莉奈の目に再び涙が溢れた。
莉奈はギュッと下唇を噛みしめて俯いた。「ごめんなさい。私、パパとママにひどいことした。私はパパの子じゃないんだ、パパとママは私を騙してるんだって思って、二人を困らせようとしたの」
「莉奈……」
杜夫は言葉を詰まらせた。
莉奈はこの春、親の知らないところで同時に二つの葛藤を抱えていたようだ。
しかも、高校一年生の華奢な身体にはどちらも重すぎるものだった。
「莉奈。ごめんね。謝らなくちゃいけないのは私たちの方なの。たくさん隠し事をしてたから」
「そうだ。悪いのは俺たちの方だ。莉奈。ごめん」
杜夫は郁子と並んで莉奈に頭を下げた。
莉奈は強く首を横に振って、店のおしぼりで目尻を拭った。
「僕もごめんなさい」
鴻池も声を震わせて涙を流している。「本当にごめんなさい」
深々と頭を下げる鴻池を見る莉奈の目にはもう険しさはない。
「はやちんのことは、簡単には許さないわ。顎でこき使ってやるんだから、覚悟しなさいよ」
莉奈が泣き笑いで鴻池の背中をバシッと叩いた。
「痛っ。痛いよ、莉奈ちゃん」
鴻池が叩かれた背中を反らし情けない声を出すと、郁子がプッと吹き出すように笑った。
郁子も鴻池を許してやる気になったのだろう。
「その手切れ金でしっかり別れてくるのよ」と言った郁子の声から怒りの響きが消えていることで漸く場の緊張感が緩んだ。
「よし。じゃあ、とにかく今日は帰ろう」
杜夫は三人を促して立ち上がった。




