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十六年前。
逃亡生活を続ける杜夫と郁子は間もなく肉体関係を持つようになった。
男と女が常に時間を共にしていたのだから当然と言えば当然の成り行きだ。
そして連絡をくれた謙さんのもとに身を寄せている間に郁子の腹が膨らみ始め妊娠が発覚した。
郁子はそれまでに自分の身体の変化に気が付いていたはずだが、何故か自分からは言い出さなかった。
戸籍や住民票がなく、大手を振って産婦人科を受診することができなかったから遠慮していたのだろうと思っていた。
それからすぐに謙さんが戸籍を用意してくれて、二人は海外生活から久しぶりに帰国した芹沢夫婦として太陽の下を歩けるようになった。
そうして初めて郁子は産婦人科に行き、妊娠六月と診断された。
日数は微妙だった。
郁子のお腹の子の父親が自分ではない可能性を杜夫は否定できなかった。
今思えば、そこを曖昧にするために郁子は産婦人科に行くのを渋っていたのかもしれない。
妊娠の月齢は郁子の申告一つで少しぐらいずらすことができただろう。
当時も杜夫は子供の父親が自分でなければ、それは初ということになると考えていた。
杜夫はそれを思うと吐きたいほどの嫌悪を覚えた。
あの男の子供の世話をするなんてまっぴらだと思った。
最終的に、杜夫はもやもやした気持ちを整理するため郁子に問い質した。
お腹の子の父親は初なのではないのか、と。
郁子は顔色一つ変えず「絶対にそれはない」と言下に否定した。
「それなら中絶してる。あの男の子供を産むのなら、そもそも逃げるわけがない」と言い切った。
逃亡する随分前から初とのセックスは拒否していたとも答えた。
杜夫は郁子の言葉を信用した。
いや、郁子のことを愛している以上、信用するしかなかった。
どこまでいっても郁子にしか分からないことだし、自分の子供である可能性が残っている以上、そう割り切るしかなかった。
そして生まれてきた子供についてDNA鑑定は絶対にしないと心に誓った。
家族三人で暮らしていくと決めた以上DNA鑑定で得るものは何もない。
だが、莉奈が自分の子供だと一点の曇りもなく言い切る自信は今日に至るまで杜夫は持ち合わせてはいなかった。
莉奈がオヤジの娘?郁子が言うのなら、そうなのかもしれないと杜夫は思った。
郁子は杜夫に初の子ではないと断言した。
オヤジの娘ということであれば、詭弁ではあっても、そこに嘘はない。
杜夫の心中は複雑だった。
莉奈が初の子だという最悪の説は否定されたものの、同時に自分と最愛の娘との血のつながりも否定された。
驚きで麻痺している部分があるものの、父親としての立場と莉奈と積み重ねてきた年月が一気に瓦解して、やり場のない空虚感が徐々に心を侵食しつつある。
いたたまらなさで莉奈の顔をまともに見ることさえできない。
気が付けばサイレンの音がさらに近づいていた。
まるでこの神社を目指してきているように確実に音が大きくなってきている。
「はったりだ!」
初は吐き捨てるように言った。
オヤジの血を自分以外に引き継いでいる人間がいる。
一味の頭目として、オヤジの後継者として、そのことを認めるわけにはいかないのだろう。
確かに郁子のはったりである可能性は高い。
オヤジが実の息子の女と契るような真似をしたということが杜夫には信じられなかった。
「初。今日まで黙っていたが、お前はな……」
半死半生の身体で横たわっている謙さんが突然口を開いた。
どこにそんな力がと思わせるような力強い声だ。「オヤジと血のつながりはない。お前も皐月や六郎と同じ拾い子だ」
え?
この場にいた人間は一様に驚きの声を漏らした。
杜夫も、郁子も。
もちろん初も。
トラでさえもが難しい顔をして俯いた。
「何言ってる、じじい。殴られ過ぎて頭がおかしくなっちまったか」
天を仰ぐようにして空虚な笑い声を響かせる初に先ほどまでの余裕は微塵も感じられない。
初としては笑い飛ばすしかないだろう。
謙さんの言葉が真実なら、オヤジの実子というカリスマが霧散してしまう。
その時、初に残るのは力をもって部下を従えようとする強引な手法だけだ。
その力もオヤジの唯一の血縁だからこその力だ。
その裏付けが根底から覆されるとなると、ありもしない力にひれ伏していたことに嫌気が差す人間が今この場からも出てくるはず。
初のやり方に疑問を感じていた人間は一人や二人ではないだろう。
一味はオヤジが作り上げた組織だ。
少なくともオヤジが生きていたころから一味にいた人間はオヤジに恩義を感じていたからこそ、その恩義を実子の初に対して忠誠という形で報いようとしてきたのだ。
オヤジは後継者を指名せずに亡くなっている。
初がオヤジと血がつながっていないのなら、初に従う理由などないに等しい。
オヤジに養われた時間が長い短いだけの話で、初も郁子も杜夫もトラもオヤジの養子という意味では横一線ということになる。
「ある仕事からの帰り道。踏切に飛び込もうとしていた女を助けた。その女の腹の中にいたのがお前だ。女はお前を産むと、乳飲み子のお前を残して姿を消した。オヤジは残されたお前に不憫な想いをさせたくないからって、お前を実の子として育てたんだ。オヤジの愛情に感謝するんだな」
「黙れ、じじい!」
初は声の大きさでその場の全員の口を塞ぐように怒鳴り、謙さんに向かって銃を向けた。
本気だ。
杜夫は痛みを忘れて飛び出していた。
引き金を引こうとしている初の右腕に飛びかかった。
初が銃を持っていない左手で杜夫の動きを押さえつけようとしてくる。
杜夫は何とか銃口を謙さんから逸らさせようと必死に手を伸ばし初の腕を手繰った。
バン、と鼓膜が破れそうなほど激しく銃声が響き渡り、社殿の何かがビシッと抉られる音がした。
「どけ、六郎。あのじじいをぶっ殺す」
「させるか!」
二人は砂利敷きの境内をもつれながら転がった。
杜夫は必死に初の腕に食らいつき、何とか銃を奪おうと拳を振る。
初の肘打ちが杜夫の鳩尾に入り一瞬呼吸ができなくなる。
それでも杜夫は初の腕から手を離さない。
「トラ!六郎を殺れ!」
初の指令に呼応するように杜夫の背後に駆け寄ってくる足音が聞こえる。
同時に左の腕を初に絡めとられ、脇の下に組み伏せられて杜夫は動きを封じられた。
杜夫はゾクッと身体を震わせた。
自分の背中の無防備さに怖れ戦いた。
杜夫は鋭利で冷たい感触を背中に予感して目を閉じた。