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「にしても、今時、泥棒とはね」


 頭の後ろで手を組み、莉奈が疲れの滲んだ声を出す。


「泥棒じゃない。盗人だ」


 杜夫は語気を強めて修正するが、言葉を返さない莉奈の横顔は、そんなことはどっちでも良いわ、と言っていた。


「これ、どこに向かってるの?家からはどんどん離れてってるみたいだけど」


 ぼんやり窓の外を見ながら莉奈が訊ねてくる。


「家には帰らない」


 杜夫は待ち合わせ場所の神社の名前を莉奈に告げた。


「じゃあ、ママはタクシーで来るの?」


 郁子は車の免許を持っていない。


「謙さんが車を出してくれてる」


「謙さん?謙さんまで巻き込んじゃったの?」


 莉奈は咎めるような口調でこちらを見た。


 謙さんのことは莉奈も良く知っている。

 謙さんは幼いころから莉奈をかわいがってくれて、度々おもちゃや服を買い与えてくれた。

 二親を知らない杜夫と郁子の間に生まれた莉奈にとって、謙さんは祖父のような存在であったろう。

 天涯孤独の謙さんにとって莉奈が孫のような存在になれば、と杜夫は郁子と相談して莉奈が小さい頃はできるだけ莉奈を謙さんのところへ連れて行くようにしていた。


 杜夫も郁子も謙さんのことはオヤジの次に世話になった恩人だと思っている。

 謙さんがいなければ、家族三人での落ち着いた生活など築くことはできなかった。


 その謙さんは杜夫よりも前に一味から離れていた。


 ある仕事で一味は大のつく失敗をした。

 逃げようとしたときには警察に大方取り囲まれている状態だった。

 そこで謙さんは警察の目を引く囮となるため、その包囲網の正面突破を試みた。

 密集する警官たちの間を驚くべき身体能力で、まるで漫画のようにかいくぐり、謙さんは追手を引き連れるようにして広い幹線道路を走り抜けた。

 その間に一味は一人の逮捕者も出すことなくアジトに帰ることができた。

 謙さんも最後は橋から川に飛び込み、まんまと逃げおおせたのだが、その時に足を怪我し一生癒えない傷を負った。


 足の障害を苦にして謙さんは一味からの脱退を申し出た。


 謙さんの知識と経験は一味にとってなくてはならないもので、アジトにいてくれるだけでも安心できる存在だった。

 仕事に出なくても良いから、とオヤジを始め仲間全員が、初までもが口をそろえて謙さんを引きとめた。


 しかし謙さんの意思は固かった。

 現場に出られない人間は一味には足手まといで、重荷になる、と強く言い張った。

 そして、謙さんはどこへ行くとも言わずにアジトを後にした。


 その後、謙さんの消息は見事に分からなくなったが、謙さんは一味の様子を遠くから眺めていたようで、命からがら逃げる六郎と皐月に救いの手を差し伸べ匿ってくれたのだ。

 裏のルートにも顔が利く謙さんは二人のために他人の戸籍を用意してくれて、六郎は芹沢杜夫、皐月はその妻の郁子として新しい人生を始めることができた。

 芹沢家として家族三人暮らしてこられたのはひとえに謙さんのおかげ。

 我が家の人間は謙さんに足を向けては寝られない。


「謙さんも昔は一緒に仕事をしていたんだ。仲間というか大先輩だな。すごく俊敏な人だったんだけど、仕事の最中に足を大怪我したのがきっかけで、足を洗ってこの街で雀荘を始めたんだ。俺たちが一味を脱け出したときに声を掛けてくれて、この街で生活できるように面倒見てくれた恩人でもある」


「えー、謙さんが泥棒?信じらんない。っていうか、あの足ってそういうことなの?」


 莉奈は今日一番の驚きを示した。


 確かに今の謙さんの姿からは昔の勇姿は想像できないだろう。

 莉奈にとってはいつも柔和で優しく、最近はすっかり白髪だらけ、皺だらけの好々爺だ。

 謙さんは足を引きずってゆっくり歩くから、莉奈は良く「謙さん、遅いよー。もっと速く歩けないの?」と無理を言って謙さんを、そして杜夫と郁子を困らせたものだった。


「びっくりしたか?」


「うん。でも……」


 莉奈は少しずつ表情を曇らせた。「今回も巻き込んじゃって良いの?」


「良くないな。謙さんは新しいリーダーに憎まれてるわけじゃないだろうけど、俺たちのことを逃がす手伝いをしたことがばれたら、謙さんの立場もまずいことになる」


「だったら見つかる前に手を引いてもらわないと」


「そうだな」


 本当にそうだ。

 謙さんには郁子から離れてもらった方が良い。

 その方が、何かと安心だ。


「何?」


 怪訝そうに莉奈がこちらを見る。


「ん?」


「何か隠してるでしょ?」


 鋭い。

 グサッと鋭利な刃物が刺さった音が自分の胸から聞こえてくるようだ。

 図星をつかれて杜夫は莉奈の方に顔を向けられず、前方を見据えて運転に集中しているふりをした。


 莉奈が苛立ちを隠さず「ちょっと、何なの?はっきり言っちゃってよ」と催促してくる。


「別に何も」


「嘘。パパ、謙さんのことでまだ絶対に何か隠してる。何年パパの娘、やってると思ってるのよ。私に隠し事なんてできないのよ」


 なるほど。

 十五年も家族として暮していれば、しかも冷静で深い洞察力を持つ郁子の娘であれば、杜夫の嘘を見抜くことなど簡単なのかもしれない。

 杜夫は観念して口を開いた。


「隠してるっていうか、疑ってるんだ」


「疑う?」


「本当に味方なのかどうか分からないってことだ」


 口にして、自分に嫌気がさした。

 あの謙さんを疑うなんてどうかしている。

 しかし、今は普通ではいられない。

 ゼロではない可能性を無視することはできない。


「謙さんが?これまで散々世話になってきたのに?」


「これまではこれまで。今日はどうか分からない」


 莉奈は「何それ」と怒ったように言う。

 謙さんが自分に害をなすようなことをするはずがないと信じ切っているようだ。


「パパって意外にドライなんだね」


「ドライじゃない」


 杜夫は下唇を噛んだ。「今、俺たちを追っているあの人はそれだけ怖い人だってことだ。誰だって命が惜しい。それは謙さんも同じだろ。謙さんが俺たちのために命を賭ける理由なんてない。そして俺は家族を守らなくちゃいけない」


「でも、人を信じられなくなったら終わりだよ」


 十五年しか生きていない小娘が一人前のことを言う。


「親を騙した奴の言う台詞か」


「あれもパパとママを信じてのことだよ」


「どういうことだ?」


「可愛い娘のためなら、お金を出してくれるって信じてたの」


 杜夫はすました顔の莉奈の言い草に呆れて言葉を失った。


 いつの間にか車は目的地の近くにまで来ていた。

 杜夫は路肩に停車し、ライトを消してエンジンを切った。

 そしてポケットから封筒を取り出して、助手席に座る莉奈に「ほら」と差しだした。


「何これ?」


 そう言って受け取った莉奈は封筒の中を見て固まった。


「お前にやるよ。今晩無事生き延びられたら使え」


 莉奈は「パパ……」とすがるような目で見てくる。


「パパ、あのね、私……」


「どうした?」


 莉奈は杜夫に向けていた視線を手元に落とし「ううん。何でもない」と助手席に小さく座り直した。

 その姿はやはりただの高校一年生の少女だ。

 狂言誘拐を企てて親から金をせしめようとした稀代の親不孝娘ではない。

 目に入れても痛くない、可愛い愛娘だ。


「変な奴だな」


 杜夫は微笑した。

 莉奈も何か隠しているようだが、残念なことに今は込み入った話をしている時間はない。「莉奈。さっき交番の前を通ったのを覚えてるか?」


 莉奈は小さく頷いて「ガソリンスタンドのそば」と呟いた。


「そうだ。まず、俺が神社の様子を見てくる。お前はここに残って、何か異変を感じたら、あの交番まで全速力で走れ」


 頼んだぞ、と言い残して杜夫はドアを開けた。

 初相手に交番のお巡りさんがどれだけ役に立つかは分からないが、女子高生にできることと言えばそれぐらいだろう。


「パパ!」


 莉奈の声が杜夫を呼び止める。


 杜夫が振り返ると、心なしか瞳を潤ませて莉奈がこちらを見つめている。


「どうした?」


「パパのこと今日、ちょっと見直したんだよ。いつもママの言いなりで冴えない人だって思ってた。でも今日電車の中で怖そうな酔っ払いから女の人を守ってくれた。私のために逃げずに戦ってくれた」


 杜夫の脳裏に、誘拐犯からの指示に踊らされて不本意ながらも対峙したヤクザのような酔っ払いの顔が浮かんだ。

 胸に残った爪痕がまだヒリヒリと痛む。


「あれはお前の仕業か」


 杜夫の軽く睨むような視線に莉奈はいたずら好きだった小学生の頃のような眼差しで頬を緩めて見せた。

 その顔に思わず見惚れてしまうのは、親馬鹿なのだろうか。

 いつまでも莉奈の顔を見ていたい。

 しかし、今は早く郁子と合流しなくてはいけない。


 ドアをゆっくり閉め、掌で頬に二発気合を入れて杜夫は歩き出した。


 振り返るとフロントガラス越しに不安そうな莉奈の顔が見える。

 巣に置き去りにされる雛鳥のような心細そうな瞳だ。

 しかし、一緒に連れて行くことはできない。

 莉奈だけは何としてでも生き延びさせなければならない。


 杜夫は胸を張って歩いた。

 これが愛娘に父親として見せる最後の背中となるかもしれないのだから。


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