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麻雀を謙さんと交代して杜夫は家路を急いだ。
「麻雀を途中で抜けてまでして会いたい奥さんがいるなんて、うらやましいねぇ」という他家の嫌味に「どうも、すいません」と自分でも何を謝っているのか分からないがペコペコ頭を下げながら雀荘を後にした。
杜夫は自分のことを恐妻家だと言うことがある。
しかし、それは世間一般の定義とは少し外れている。
つまり、恐い妻の尻に敷かれて頭が上がらない、というのとはちょっと違うのだ。
杜夫は深く妻を愛している。
だからこそ妻に愛想をつかされたくないので、妻の機嫌には敏感で発言に対し従順だという意味で恐妻家なのだ。
もちろん従順な夫に郁子は日ごろあれこれ指示を与えてくる。
朝のゴミ出しや仕事帰りの買い物などは当たり前で、トイレや風呂の掃除も杜夫の日課だ。
こんな風に色々と妻からの任務をこなす毎日ではあるが、杜夫にはそれを厭う気持ちはない。
役割分担というやつだ。
適材適所とも言えるかもしれない。
杜夫はなかなか決断できない優柔不断な性格で、しかもそうやって時間をかけた末に決めたことが期待とは裏腹な結果をもたらすことがよくある。
一方、郁子は直感的だがバランス感覚に優れていて、天才的にその判断に誤りがない。
つまり、郁子が考え、杜夫が動くという役割分担が効率的で経済的なことが多いし、何よりも郁子の機嫌が良い。
であれば、その構図で何も問題ない。
夫としての立場に起因するちっぽけなプライドや世間体よりは芹沢家の幸福と平和の方がはるかに重大事である。
それに、恐妻家と自認するような夫を持つ妻には、往々にして家の内外で主人面し公然と夫を馬鹿にするような人が多いが、郁子はそういう妻ではない。
この家の舵取り役は自分だという意識が彼女にはあるだろうが、だからと言って杜夫を嘲ったり蔑んだりはしない。
ただ、杜夫に的確な指示を与えてくるだけだ。
それが分かるから杜夫も妻の指示に唯々諾々と従っている。
もちろん結婚当初から今のような関係性で生活を送ってきたわけではない。
若い時はしょっちゅう喧嘩をした。
売り言葉に買い言葉で郁子が出て行ったきり帰ってこない日もあった。
こんな妻なんかいらないと離婚を意識したこともある。
そういう様々な山や谷を乗り越えて十六年の間夫婦をやってきて作り上げた芹沢家の形が今のあり方だ。
また時間が過ぎれば夫婦や家族の形も変わっていくだろう。
自然な流れに逆らわず、水のように雲のように柔軟に次の形に変化していけば良い。
それにしても……。
郁子が先ほどのように理由も言わず、こちらに有無を言わせず帰宅を求めるようなことは今まで一度もなかった。
つまり、先ほどの電話は我が家にとってかなりの、それこそ夫婦になって最大級の問題が発生したと考えるべきなのではないか。
郁子が理由を言わなかったのには、きっと理由がある。
電話で話すべき内容ではない、それよりも一分一秒でも早く夫を帰宅させなければならない、と判断したからだろう。
そして芹沢家と長年の付き合いの謙さんも杜夫の表情や雰囲気から事の重大さを瞬時に理解してくれたようだ。
「帰らないといけなくなった」と伝えただけで、何も訊かずに代番として卓に着いてくれた。
礼儀として事の次第だけは後で報告しなくては。
電車で家の最寄りの駅まで、と言っても一駅の区間だけなのだが、移動した。
自動改札を出ると目の前のゲートが開いた競走馬のように猛然と駆け出した。
家のある団地までおよそ1.5キロ。タクシーを使う距離ではない。
娘の莉奈が生まれてからは自分のことが二の次になり、めっきり運動不足で身体がなまっている。
全盛時なら四分を切れたがな、と昔を懐かしみつつたるんだ腹をさする。
足が思うように前に出ず、腕の振りが鈍い。
すぐに息があがってくる。
そもそも革靴とスーツでは走りにくい。
走り出して三十秒も経たないうちに、団地まで走り切れるだろうか、という不安が胸に充満する。
走る苦しさから気を紛らわせるために、郁子が電話を掛けてきた理由を考えた。
きっと一人娘の莉奈に関係することだろう。
最近莉奈の素行が急に悪くなってきているのだ。
何か学校で問題を起こしたのだろうか。
もしかしたら警察に厄介になったのかもしれない。
しかし、事故に遭ったり他人に傷つけられたりして怪我をして病院に運ばれたということではなさそうだ。
それなら郁子は家の電話ではなく移動のタクシーの中で自分の携帯から掛けてきただろうし、搬送先の病院名を伝えたはずだ。
怪我をしていないのなら良い。
成人するまで健康を守ってやる。
それだけは親としての責務だ。
それ以外のことはきっと何とかなる。
そこまで思い至ると杜夫は呼吸と足の運びにだけ気持ちを集中させた。
何とか五分で団地の敷地内に駆け込んだ。
しかし階段を前にして耐えきれずにしゃがみ込む。
ハァハァと、と懸命に肺に酸素を取り込む。
舌の奥で血の味が広がっている。
口の中が乾いて不快に粘つく。
汗が一気に体中から噴き出してきた。
スーツのポケットからハンカチを取り出し、額や顎、首筋を拭うが、幾ら拭ってもきりがない。
「何やってんの?」
頭上からの声に顔を起こすと、階段の踊り場で手すりに頬杖つきながら郁子が見下ろしていた。
「ちょ、ちょっと、走って、帰って、きたら、息が、切れ、ちゃって……」
ぜぇぜぇ言いながら答えると、妻は無表情のまま階段を上がって行ってしまった。
無様に蹲る夫に、肝心な時に役に立たない奴だ、と呆れてしまったのか。
杜夫は身体に鞭打って右手を壁につきながら立ち上がった。
ふわっと延髄のあたりから意識が遠のくような感覚に襲われる。
これはまずい、と全身を壁に預ける。
部屋は二階。
二十段ほど上がれば我が家だ。
しかし、その二十段が切り立つ岩壁のように見えて、すぐには一段目に足を掛ける気力が湧いてこない。
階上からサンダルの音がして、妻が再び現れた。
右手に水の入ったコップを、左手にタオルを持っている。
その様子はまさに女神のような神々しさだった。
引っ手繰るようにコップを受け取り、水を喉に流し込む。
単なる水道水だが、えも言われぬ美味さだ。
飲み終わると首筋が急にひんやりした。
郁子が水で湿らせたタオルをあてがって冷やしてくれているのだ。
「大丈夫?」
そう訊ねてくれる妻の眼差しには愛が滲み出ている。
杜夫は首を縦に振り懸命に笑って見せた。
妻に先を促し一段一段必死に上る。
団地の階段に据え付けられている頼りない蛍光灯の明かりでも妻の顔が青ざめているのが分かる。
しかし、平常心は保っているようだ。
今は無闇に焦ったり興奮したりすることは何の解決にもならない、と理解しているように表情を消している。
しかし、この郁子が夫の帰りを待ちわびて外まで様子を見に来るとは、やはりただ事ではない。