19
「何か臭くない?」
ファミレスを出てからずっと黙りこくっていた莉奈が漸く発した言葉がそれだった。
怪訝そうにクンクン鼻を動かす。
神妙な顔つきだから、鴻池に別れを告げて、彼女なりに心を痛めているのかと思っていたのだが、どうやらそうでもないらしい。
「そうか?この車がおんぼろだからかな」
「車のにおいかなぁ。私は汗のにおいのような気がするんだけど。お父さんの加齢臭じゃないの?」
そう言いながら莉奈は携帯電話を取り出し何やらいじり出した。
「俺?」
言われてみればそうかもしれない。
結局今朝から一度も着替えておらず、色々なことがあって汗だけはどんどんかいている。
赤信号で車を停車させ、自分の脇のあたりに鼻を近づけると確かに汗臭い気がする。
その時、エンジンがブルン、ボロンと怪しい音を出して、大きく車体を振動させた。
この軽自動車は定員が一名なのかもしれない。
体重の軽い莉奈が乗っただけでエンジンの動きが前よりも明らかにおかしくなってしまった。
心臓発作がいつ起きてもおかしくない。
エンストを起こし、そのまま二度と動くことがない。
今にもそうなりそうな気がする。
「ちょっと、大丈夫?この車、やばいんじゃない?」
莉奈が驚いたように携帯電話から顔を起こす。
「あまり大丈夫じゃないかもな……」
軽自動車なら車体が軽いのでスタートダッシュが速いし、小回りが利いて逃げやすいかと思ったのだが、このエンジンでは少し負荷を掛けただけでボンネットから煙が出そうだ。
郁子と合流すれば、さすがにこの軽自動車に頼ることは不可能だろう。「今のうちに他の車に乗り換えるか」
「それってまた盗むってこと?」
冷たく目を細めた莉奈の口調は非難めいている。
「ちょっと借りるだけ」
「屁理屈」
莉奈は不満そうだ。
屁理屈は莉奈の専売特許ではないか、と思うが、車の寸借が他人に迷惑をかける行為であることは間違いないので黙っておく。
深夜の道は空いている。
しかし、あまりスピードは出せない。
莉奈が乗り換えに消極的である以上、このオンボロが動かなくなってしまっては元も子もない。
深夜を主戦場にしているタクシーや運送トラックに何度となく抜かれながらも慎重なアクセルさばきに神経を集中させて走っているとじりじりしてくる。
また一台太いマフラーのやんちゃそうなクーペが惚れ惚れするようなスピードでこのおんぼろを抜き去っていった。
あんな風には走れなくても、もう少しスピードを出して神社に向かいたい。
先ほどファミレスを出たときに郁子には電話をしておいた。
出るや否や「今どこ?もうとっくの昔に神社に着いてるんだけど。って言うかこんな暗くて寒いところでじっと待ってられないわ」と明らかに怒気をはらんだ声で責められ慌てて弁解した。
寄り道はしたが無事莉奈と合流できた旨を伝えると、郁子は急に機嫌が良くなり「慌てずに安全運転でね。私たちはこの周りを少しドライブしてるから気にしないで」と助言までいただいた。
しかし、あまり待たせるとまた叱られてしまうだろう。
莉奈との合流の経緯は電話ではあえて説明しなかった。
時間がもったいなかったし、正直に伝えるべきか迷ったからだ。
郁子に何をどこまで話すかについては、なかなか答えが出せない。
今日のことは莉奈が考えた狂言誘拐だった。
そう言ったときに妻はどういう反応を示すだろうか。
ファーン。ウウー。
考えに耽っている杜夫の頬を叩くように、前方で突然耳障りなサイレンが湧きおこり、赤色灯が発現した。
脇道からパトカーが踊り出てきたのだ。
先ほどのクーペが赤色灯に絡みつかれた。
スピード違反の鼠捕りに捕獲されてしまったのだろう。
もちろんこちらは制限速度を遵守しているが、思わずアクセルから足を浮かす。
今日は警察が出張っているのか。
亀のようなのろのろ運転でも、スピード違反であんな風に停められるよりはましだ。
そう思うと少し気持ちが落ち着く。
しかし、このまま直進して警察官の脇を通るのは躊躇われた。
こちらは無断拝借した他人の車を運転している。
スピード違反よりも罪が重い。
まだ盗難の届は出ていないだろうが、急がば回れということもある。
杜夫はハンドルを左に切って、細い道に入った。
「もう長いのか?」
「ん?何が?」
「その、なんだ。鴻池君と付き合い出してからの期間だ」
杜夫は鴻池のことが気になっていた。
付き合っている女性にあんな風にいきなり別れを切り出されたら、たまったものじゃない。
父親としては娘に彼氏がいるという事実そのものが気に入らないが、一人の男としては鴻池に対して同情を禁じ得ない。
その別れの理由が自分にあるのだから、なおさらだ。
「何よ、突然」
その突き放すような莉奈の話し方が郁子にそっくりで、杜夫は瞬時言葉が出なくなる。
しかし相手は妻ではなく娘だ。
下手に出る必要はない。
「父親としては気になるもんなんだよ」
莉奈は少し押し黙ったが、減るものでもないと思ったのか、あっさり答えてくれた。
「三年かな」
「え?」
三年?
三年前といえば莉奈は中学一年生だ。
鴻池もまだ高校生だっただろう。
高校生の女の子が背伸びをして大学生と付き合うという話は聞かないでもないが、中学一年生が高校生と付き合うということがあり得るのか。
中学一年生といえば、ほんの数か月前はまだランドセルを背負う小学生だ。
鴻池はロリコンなのか。
それとも莉奈がそれだけ大人びていたということか。
そう言えば雑誌のモデルをやらないかと声を掛けられたのは確か莉奈が中学に入ってすぐだった。
一つ屋根の下に暮らす家族は彼女を幼く見ていたが、他人の目には十分に魅力的な女性に映っていたのかもしれない。
「びっくりした?」
「あ?ああ」
「そうよね。私も自分でびっくりするもん。最初は三年も付き合うことになるなんて考えもしなかったな。何だかんだで、つまりは今が潮時ってことなのよね」
酸いも甘いも嚙み分けたような顔つきの莉奈の言葉に杜夫は曖昧に頷いた。
彼女の驚きの対象は年齢ではなく、鴻池と過ごした年月の長さのことらしい。
そしてどうやら莉奈は本気で鴻池と別れようとしているようだ。
「潮時」という言葉が決して強がりではなく、前々から別れを考えていたということが彼女の淡々とした口調で分かる。
女とはこういう生き物だ。
自分の中で区切りをつけると、まるで他人事のように冷静に分析を行う。
「潮時って、そんなの別れる理由にならないだろ」
そんなあやふやな理由での別れでは、告げられた男も身の処し方に困惑するに決まっている。
他に好きな人ができた、と言われれば納得して諦めようとするだろうが、潮時などという職人の目利きのような曖昧なニュアンスでは、まだよりを戻すチャンスが残っているのではないかと期待するだろう。
少なくとも、ああそうですか、とは引き下がれない。
「もう気持ちが離れてるの。私だけじゃないわ。きっと、はやちんもよ。マンネリなの。一緒にいても面白くないのよね」
恋愛に面白さが必要だという感覚が杜夫には理解できなかった。
だが、自分だって十代の頃はそうだったかもしれないとも思う。
刺激や興奮、ドキドキ感。そういう類の心揺さぶるものに飢えていたような気がする。
それは概して若い人間によく当てはまることだとは思うが。
しかし、十代も最後の方になると杜夫は日常的に盗人稼業を通じて心を揺さぶられていた。
いつ逮捕されるともしれない、下手をすれば命を落とす危険性があるという緊張感がいつも杜夫の心を支配していた。
焦燥や高揚、覇気と怯懦、恐怖心に達成感。
杜夫にとってそういうものはごく身近に、手を伸ばせばすぐそこに存在した。
だから二十歳にもなるともう杜夫は安定や平穏を欲していた。
ないものねだりと知りつつ喉の奥から手が出そうなくらいに静かな暮らしを求めていた。
莉奈にはまだ胸が痛くなるような、心を炙られるような経験が足りないのだ。
そこまで考えて杜夫は一つの推測に行き当たった。
「まさか刺激を求めて狂言誘拐をでっちあげたってことなのか?」
娘がそんな浅はかな人間だとは思いたくないが。
「それは、お金が欲しかったからよ」
娘は指で髪を梳かしながら平然と言う。
他に理由があるか、という感じで。
「お金ってお前、三十万円も何に使うつもりだったんだ?」
「別に……。三十万ぐらいなら警察に通報せずに出してくれるかなって思ったから」
「三十万ぐらいって、お前……」
杜夫は娘のお金に対する考え方に怒りとともに怖れを抱いていた。
莉奈の感覚は社会常識とかけ離れている。
いつの間にこんなずれた考え方が彼女に備わってしまったのだろう。
やはり鴻池の存在が悪影響を与えているのか。「簡単に言うがな、父さんが一ヶ月働いても、手取りではそんなにないんだぞ。分かってんのか?一度自分で働いて三十万円稼いでみろ。どんなに大変か分かる。それに遊ぶ金なら鴻池君に出してもらえばいいじゃないか。相手は大学生なんだし、あんなバイクに乗ってるんだから、それなりに金持ってるだろ」
「はやちんは全然駄目よ。少しでもお金ができたらバイクに使っちゃうもん。バイクのことになると人が変わっちゃうんだから」
そう言って莉奈は窓の外に目をやった。「それに、うちにはお金がいっぱいあるじゃん。私、通帳見たんだからね」
「通帳?うちの通帳なんてどれだけ掻き集めても二、三百万円が限度だろ。お前の教育資金にこれからいくら掛かると思ってるんだ」
「え?知らないの?」
杜夫の顔を覗き見る莉奈の目が少しつり上がっている。
郁子そっくりだ。「ママ名義の通帳があるんだよ。そこには二百万円じゃなくて、二千万円入ってるんだから」
「二千万?」
何かの間違いではないのか。
郁子がそんな大金を持っているとは……。
仮に事実だとすればどうやって貯めた金なのだろうか。
そしてその存在を何故夫に黙っているのだろうか。
結婚してからの日々のやりくりの中から紡ぎ出したへそくりと言うには額が大きすぎる。
あるとすれば一味にいたときか。
しかし、当時の杜夫はそんな大金を積み上げるだけのギャラはもらってはいなかった。
皐月はそれだけのものを受け取っていたということだろうか。
初の女だから特別だったのだろうか。
「あれ?ショック受けてる?」
黙り込んだ杜夫の顔をにやけた目で莉奈が見てくる。
娘という生き物は両親の確執を好むものなのか。
あるいは単純に父親が困惑している状況が面白いのか。
「いや。それだけのお金があるんなら心配いらないな。お母さんと合流したら高跳びして優雅な海外生活を送るとするか」
杜夫が強がってそう口にすると「だったらイタリアが良いな。ご飯美味しそうだし」とまるで旅行の計画でも語るような口ぶりの女子高生。
「ねえ、そうしようよ。イタリア旅行!」
彼女は命の危険が差し迫っているということが、多分しっかりとは理解できていないのだろう。
それも仕方あるまい。
この平和な国に生まれ、大した苦労も知らず、まだ十五年と少ししか生きていないのだ。
理解しろと言う方が無理な話だ。