16
「まず一つ目だが」
杜夫は人差し指を一本立てて、莉奈と鴻池を順番に見つめた。
莉奈は痛いほどの鋭い視線を浴びせてくる。
トイレから戻ってきた鴻池はどこか吹っ切れたような落ち着いた表情になっていた。
杜夫は心の中でため息をついた。
話すときが来なければいいな、とずっと願っていた。
莉奈が生まれて以来、それが郁子との共通の想いだった。
話すにしても夫婦二人でゆっくりと時間を掛けて伝えたかった。
しかし、現実は杜夫一人。
逆に聞く方は莉奈だけではなく、先ほど会ったばかりの莉奈の彼氏らしき人間までも同席。
しかも深夜のファミレスで初の来襲に怯えながら時間に追われて。
こんなことになるとはついさっきまで、少なくとも麻雀をしているときは思いもよらなかった。
あのときは鮮やかな「緑一色」をテンパって胸を轟かせていたのに、今は初に、トラに、娘に追い詰められて胸の裡が灰一色に染まってしまっている。
「ねえねえ、早く!」
莉奈が苛立った声で急かしてくる。
杜夫は唾を飲み込んだ。
郁子に後で責められないような上手な説明ができるだろうか。
今度は本当にため息をつく。
これを話したら莉奈は人間不信に陥ってしまうかもしれない。
親としても立つ瀬がなくなるだろう。
それでも話さなければならないのか。
答えはすぐに出た。
話すしかない。
どんな最悪な状況になっても死ぬよりはましだ。
今はとにかく時間がない。
杜夫はこじ開けるように口を開き、絞り出すように言葉を発した。
「俺もママも昔、……盗人をやっていたんだ」
「へ?」
鴻池はビクッと肩を震わせ声を裏返らせたが、莉奈に険しい眼で睨みつけられ慌てて手で口を抑えた。
「何それ。時代劇みたい」
莉奈は馬鹿にしたような口ぶりだ。
しかし、それは悪い気分ではなかった。
「そうだ。まさに時代劇さ。やってることは泥棒なんだが、俺たちは自分たちの仕事を盗人稼業と呼んでいた」
あの頃はまさにテレビの中の時代劇のストーリーを地で行くような感覚を胸に抱いていた。
弱きを助け、強きを挫く。
人様の物を盗む以上は勧善懲悪とは言わないが、少なくとも金に困っている人間に追い打ちをかけるような真似は絶対にしなかった。
そして「ぬすっと」という音の響きに滑稽さと優しさを感じていた。
「泥棒と何が違うのよ」
よくぞ訊いてくれた、という思いで杜夫は前傾して二人の顔を見つめた。
「鼠小僧を知ってるか?」
「えっと。ミッキーマウスのことっすか?」
冗談かと思ったが、鴻池は真面目な顔だ。
「なわけないじゃん。ディズニーはアメリカだよ」
鴻池に突っ込みを入れる莉奈も鼠小僧のことは良く知らないようだ。
「知ってるか」と訊ねはしたが、杜夫としては当然知っているものと思って挙げた例示だった。
まさか本当に知らないとは。
「鼠小僧っていうのはな、悪事に手を染めて大金を手に入れた大名や悪徳商人から金を盗み、貧しい人に分け与えた江戸時代の義賊のことだ。俺たちが現代版のそれだったと言うつもりはないが、盗みに入ったのは悪名の高い金持ちだけで、こそっと盗みだしたのは仲間が食べていけて、少しばかり慈善団体なんかに寄付できる程度の金額だった。だから盗まれた方も盗まれたことに気付いていないこともあったし、気付いたとしてもこれぐらいの金額ならと警察に届けないケースがほとんどだった」
「なんか、かっこいいっすね」
鴻池がうっとりしたような口調になる。
「何言ってんの。犯罪は犯罪じゃない」
鴻池を馬鹿にして突き放すように言った後、莉奈は怜悧な目で杜夫を見る。「私は泥棒の娘ってわけね。だから、今回みたいな誘拐事件を思いついちゃったりするんだ。血は争えないわ」
「莉奈……」
目の前にいる莉奈が遠くへ行ってしまう感覚があった。
「寄付とか何とか言ってるけど、そんなもの結局、犯罪者が自分の罪悪感を少しでも軽くしたいがためにやった偽善行為じゃん」
「もちろん堂々と日向を歩けることをやっていたつもりはない。犯罪に手を染めていることに対する息苦しさみたいなものをいつも感じていて、毎日警察という存在にびくびくしてたよ。寄付をしていたのも今思えば莉奈が言うとおり、贖罪の心理なのかもしれない。でもな。金にきれいも汚いもないとも思っていた。寄付を受けた方にはどういう金なのかは分からないんだからな。それで少しでも救われる人が世界にいるのなら、自分たちだけで使い切るより寄付した方がいい。単純にそういう気持ちだったんだ」
「あっそ」
そんな自分勝手な言い訳は認めない。
莉奈はそういう顔で杜夫から視線を落としホットココアのカップを両手で持った。「昔っていつまでよ」
「それが要点の二つ目だ」
言いながら改めて店内に視線を飛ばす。
客は少しずつ減っている。
出入り口にはずっと注意を払っていたが、新たに入ってきた客はいない。
窓の外にも初の一味かと疑うような目つきの鋭い輩は見当たらない。
まだこの店に危険は迫っていないようだ。「莉奈が生まれる前の年に俺と郁子は一味から脱け出した」
「私が原因なの?」
莉奈が驚いたように目を見開き、すぐに迷惑そうに眉をひそめる。「そうなの?」
「いや、違う。原因は他にある」
「何っすか?」
何、と問われるとグッと胸が詰まる。
中年と呼ばれるような年齢になった今でも、思い出せばあまりの悲しさに震えが身体を支配する。
今でもそれは認めたくない事実だ。
しかし娘の前で泣くわけにはいかない。
杜夫は一呼吸、二呼吸おいてから口を開いた。
「オヤジが死んだんだ」
「親父?パパって小さいころは施設で育てられたんじゃなかったっけ?」
そのことは娘に伝えてあった。「どうして私にはおじいちゃん、おばあちゃんがいないの?」と小学生に入りたての莉奈がべそをかきながら訊ねてきて、堪らず郁子が「私もパパも今の莉奈よりも小さい時に両親が死んでしまって施設で育ったのよ」と説明したのだ。
その説明はほぼ正しい。
両親が死んでしまったかどうかは確認できていないが、名前ももちろん知らないし、写真すら見たことがないのだから、生きていようが死んでいようが大きな違いはない。
「ああ、そうだ。だけど施設にもなじめなくて、逃げ出したんだ。その俺を拾ってくれたのがオヤジだ。オヤジは俺を拾った一月前にママも同じように拾って育てていた。そのオヤジが盗人一味のリーダーだったってわけだ」
「じゃあ、その人に出会わなければ、パパもママも泥棒になってなかったってこと?」
「それは分からない。施設を飛び出した俺はゴミを漁ったりコソ泥をしたりして何とか食いつないでた。ホームレスみたいなもんだ。オヤジに拾ってもらえなかったら、もっとひどいことをしてたかもしれない。今頃はどこかで野垂れ死にしていた可能性もある」
理念だけは一丁前だが、まるで奴隷のように扱われる施設を抜け出し、路頭を彷徨い、ゴミ箱を漁りレストランの残飯に群がっていた時期はまさにホームレスだった。
食べられそうなものなら何でも、それこそ野良猫やカラスと争って食べた。
あのときは常に空腹だった。
とにかく何でも良いから腹に入れたかった。
そんなときに現れたのがオヤジだった。
「じゃあ、そのオヤジって人は、命の恩人ってこと?」
命の恩人。
軽い口調でそう訊ねる莉奈はこれまで命の危機に瀕したことなどないに違いない。
その莉奈が言葉の意味や重みをどこまで理解できているかは分からないが、杜夫は娘にそう言われて改めて、まさにオヤジは俺にとって命の恩人だったんだ、という思いに至った。
オヤジがいたから生き長らえることができた。
オヤジがいたから家族を持つことができた。
オヤジがいたから、と考えるだけで、目の奥がじわじわと熱くなってくる。
オヤジの恩に報いるためにも、この家族を守り切らなくてはならない。
「まさにそうだ。オヤジが俺を今日まで生かしてくれた。俺はオヤジを実の親以上に大切に思ってる」
実の親っていうのを良く知らないけどな、と杜夫は照れ隠しで笑った。