15
こいつ、目にしたこと耳にしたことを全て莉奈に伝えているのだろう。
まぁ、それは良い。
事態は深刻だ。
莉奈にはある程度のことは伝えなければならないと思っていたところだから、色々手間が省けるというものだ。
杜夫はゆっくり座り直した。
「あの人が『兄さん』だったのは昔のことだ」
「ふーん。とにかく、知り合いだったわけじゃん。そして、この鴻池君はその『兄さん』のお仲間に……」
莉奈は言葉を区切ってあたりを見回し声を張った。「殺されるところだったんだけど」
再び店内の視線がこちらに集中する。莉奈は店内の聴衆を味方につけたようだ。
「すまなかった」
取りあえず場を鎮め、莉奈に聞く耳を持たせるには謝るしかない、と杜夫は頭を下げた。
言いたいことはいくらでもあるが、ここで不毛なやり取りをしている間にも刻一刻とまさに絶体絶命の危機が迫ってきている。
「私じゃない。鴻池君に」
莉奈は杜夫の謝罪に気持ちがこもっていないことを見透かしているかのような冷たい口調で受け流した。
十五の小娘が親に意見とは。
生意気言うな、とその幼さの残るすべすべした横っ面を張り倒したい衝動が瞬間的に右手に漲るが、店員が湯気の立ち上るココアとコーヒーを持って現れ、杜夫はわずかに残っていた理性をフル活用して自重した。
コーヒーカップが目の前に置かれ、店員が立ち去ると杜夫は初めてしっかり鴻池に向きあった。
「すまなかった」
杜夫は鴻池に頭を下げた。「怪我はありませんか?」
すると、鴻池は慌てたように自分の眼前で手を左右に振って「何てことないっすよ。楽々逃げ切りましたから。莉奈ちゃんが大げさなんですよ」と肩をすくめる。
「事実は事実でしょ」
莉奈は今度はその怜悧な視線を鴻池にぶつけた。
鴻池は「そりゃ、まあそうだけど」と莉奈と杜夫の顔を交互に見やり、太腿の間に両手を差し込んで細い身体をさらに細める。
「どういう状況だったのかな?」
「いや、その、駅からバイクで逃げようとしたら後ろから猛スピードで車が追いかけてきて、だから僕は捕まらないように細い道を選んで走ったんっす。それでもしつこく追っかけてくるから、入り口に車止めのポールが立っている公園に逃げ込んだら、背後で銃声がして、周りの土が抉れた音がしたって感じっす」
淡々としたその口調は嘘をついているようには思えない。
嘘をつくメリットもない。
それにしても、初の部下は本気で鴻池を捕まえるつもりだったはずなのに、「楽々」かどうかは別にして、事実逃げ切ったのだから彼のバイクの腕前は相当なのだろう。
「大したもんだね。警察から逃げ回ってた口?」
暴走族の活動で警察とチェイスを繰り返して鍛えた腕なのだろうか。
「いえ。そういう奴も知り合いにはいますけど、自分は単純に走るのが好きなだけっす」
鴻池はバイクの話になると急に声に張りが出て、なよっとした感じが消える。
「莉奈は一緒に乗ってたのか?」
杜夫の問いかけに莉奈は「私はここで待ってたから」と首を横に振り、涼しい顔で温かいココアを啜った。
つまり莉奈は銃声を耳にしたわけでも抉れた土を見たわけでもないようだ。
従って実際は拳銃ではなくモデルガンだった可能性もある。
しかし、初なら部下に拳銃を持たせていてもおかしくはない。
あの人はオヤジや杜夫と違って昔からそういう道具に興味のある人だった。
どういう手を使ったのかは分からないが、その昔も拳銃を手に入れ、仲間に見せびらかしているところをオヤジに見つかり、こっぴどく叱られ、取りあげられていたことがあった。
オヤジは「殺す」や「犯す」ということを極端に嫌っていて、一味の人間に武装させることを決して認めなかった。
仕事の途中に予期せぬトラブルや邪魔者が現れたとき、オヤジは必ず全てをかなぐり捨てて逃げることにしていた。
初はそういうオヤジを見て、武器を使えばより安全に早く仕事を実行できるのに、と陰でその姿勢を唾棄するタイプの人間だった。
初が一味を率いているのなら、その部下が様々な凶器で武装していることは想像に難くない。
三段ロッドなどかわいいものだ。
初はこの青年に対して殺意はなかっただろうが、莉奈の居場所さえ聞き出すことができれば死んでもらっても良いと思っていたのだろう。
深夜とは言え拳銃をぶっ放すことさえ認めていたということは、何が何でも莉奈を掌中に収めるつもりだったということだ。
やはりいつまでもここでこうしてはいられない。
「で」
莉奈はココアをテーブルに戻すと少し父親に顔を近づけた。
目が輝いているように見えるのは気のせいだろうか。「パパを狙ってるのは誰なの?何で狙われてるの?」
それは一言では説明できない。
オヤジに拾われたのは今の莉奈と同じ年ごろだった。
あれから三十年近いときが流れている。
その間、色々なことがあった。
「昔の知り合いだ」
「どういう知り合いだと拳銃を持ってるのよ」
娘は天真爛漫に問いかけてくる。
「声が大きい」
杜夫はもう意味がないとは思いつつも娘を窘めた。
すると莉奈が「パパが隠し事をするからでしょ」と口をとがらせる。
確かに莉奈には隠し事をしてきた。
郁子と二人、過去のことは墓場まで誰にも見せず、誰にも話さずに持っていこうと約束していたが、この期に及んでは莉奈にも事情を話し事態の切迫度を理解させないわけにはいかない。
しかし、何から話すべきかと口が重くなる。
杜夫はコーヒーを一口飲んで口の中を湿らせた。
「莉奈。今は時間がない。色々と伝えなくちゃいけないことがあるが、今は要点を三つだけ話す」
杜夫は顔の前に右手を出し三本の指を立てた。
その指に莉奈と鴻池の視線が熱く絡まってくる。「三つ全てを聞いたら納得できようができまいが、俺と一緒にここから逃げると約束してくれ」
莉奈は神妙な顔つきで小さく頷き、鴻池は表情を強張らせて「僕は席を外しましょうか」と腰を浮かせた。
「君も既に我が家の騒動に巻き込まれ、危ない目に遭ってしまったんだから聞く権利はあるだろう。無理にとは言わないが」
杜夫が重々しくそう伝えると、鴻池は怯えたように口元を引きつらせたが、莉奈に腕を掴まれ仕方なさそうに腰を下ろした。
「やっぱ、トイレ行かせてください」
鴻池はそう言って莉奈の手を振り切るようにして席を立った。
その背中に「逃げちゃだめよ」と莉奈に声を掛けられ、鴻池は振り向くことなく二度頷いた。