14
深夜のファミリーレストラン。
既に日付は変わっている。
杜夫にしてみれば普段なら既に就寝している時間なのに、半分近く席が埋まっている店内の様子にギョッとする。
皆、こんな時間にここで何をしているのか。
大学生風情のにぎやかなグループがいる。
空のビールグラスを正面においてぼんやりと中空を眺めている中年の男性がいる。
郁子と同年配の女性がイヤホンを耳に差し込み黙々とパソコンに何かを打ち込んでいる。
なかなかの騒々しさなのに一人静かに読書に耽っているリクルートスーツの若い男性もいた。
友達とのお喋りは別にして、ビールを飲むのも、パソコンで作業をするのも、読書をするのも家ですれば良いではないか。
そう思える自分は幸せなのだろうか、と杜夫はふと思った。
きっとみんな家よりも、このファミレスの方が居心地が良いのだろう。
帰る家がファミレスよりも落ち着けるということは案外貴重なことなのかもしれない。
突然ケタケタと若い女性の哄笑が店内に響き、化け物を見るような気持ちで視線を飛ばすと、中高生と思しき二人のジャージ姿の女性客が何が楽しいのか携帯電話の画面を指差して腹を抱えるように笑いあっている。
周囲への配慮に欠けたこの振る舞いは、この時間を目一杯楽しんでいる自分たちの姿を周囲にアピールしたいという自己顕示欲の現れだろう。
はしたない。
思わず顔を顰める杜夫の背中に「ちょっと、こっちこっち」と面倒臭そうな声が投げかけられる。
振り返ると店員を呼ぶような気安さで、こちらに向かって手招きしているブレザー姿の莉奈がいた。
臆面もなく、そして悪びれもせず、少し不機嫌そうな表情で父親を呼ぶ。
あいつは狂言誘拐を企図し、親に寿命が縮むような思いをさせて走り回らせた罪の重さをどこまで理解しているのか。
そうは思うが、一時は永遠に言葉を交わすこともできなくなるかもしれないと危ぶんだ莉奈の顔を直に見ることができて、杜夫の胸を占拠したのは安堵の二文字だった。
狂言だったのだから当然だが、怪我もなく元気そうだ。
つられるように手をあげて応え、娘の方へ一歩足を進めた杜夫は、あるものを見つけてしまい次の一歩が踏み出せなくなった。
莉奈の向かい側に男が座っていた。艶やかに輝くサラサラの髪が印象的で、腕も肩幅も細く華奢だが、まばらに生えた無精髭で女性ではないことは分かる。
このハリガネ男、どこかで……。
そう思ったとき、男が座っているシートに黒いフルフェイスのヘルメットが置かれているのを見つけて、杜夫は思わず「あっ」と声を漏らした。
駅で怪しいと感じて声を掛けようとしたあの男だった。
やはり貴様だったのか。
お前があのボイスチェンジャーの男なのか。
お前のせいで俺たち夫婦はどれだけ不安で苦しい思いをさせられたことか。
そう思うと悔しさ、腹立たしさが胸の中でまるで電気ケトルで沸騰する湯のようにゴボゴボと熱く滾った。
思わず怒鳴りつけたくなるが、店に迷惑がかかると思い杜夫は拳を強く握り締めてこらえた。
男は杜夫の声に一瞬肩をビクッと強張らせ、チラッと杜夫の顔を見上げると、怯えた様子でゆっくり会釈をして見せた。
「はやちん、こっちに座んなよ」
莉奈が窘めるような口調で自分の座っているシートの隣を手でポンポンと叩く。
すると、男は「すいません」と消え入りそうな声とともに腰を屈めて杜夫の前を横切り、従順な犬のように莉奈の隣に着座した。
二人の向かい側のシートがぽっかりと空き、深夜の客に対しても柔和な表情を浮かべる男性店員が慇懃に注文を取りにきたので、杜夫は仕方なくほんの数秒前までハリガネ男がいたところに腰を下ろした。
しかし、そこに男の温もりが残っていて、気持ち悪さに杜夫は何気ない感じで尻をずらした。
こんなところで悠長に構えてはいられないが、テーブルの脇に控えている店員の視線が鬱陶しくてホットコーヒーを注文する。
すると莉奈も「私は、ホットココアお代わりね」とのんびりした声で付け足す。
店員は微笑を浮かべ、丁寧にお辞儀をして帰って行った。
深夜に制服姿の莉奈がここに座っていても店員は何も注意していなかったのだろう。
そういうものなのか。
この店は、現代社会は深夜に女子高生がふらふら歩いていることを、咎めるのではなく許容している。
だから日本は駄目になるんだ。
娘が親を騙して金をせびり取ろうとする。
「莉奈」
視界の中で隣の男を風景と同化させて、杜夫はテーブルに前のめりになって口を開いた。
言いたいことはいくらでもあった。
しかし、今は時間がない。
とにかく一秒でも早くここを出て郁子と合流し、明るくなるまでどこに潜むかを話し合わなければならない。
「こちらは鴻池隼人君。大学生よ」
杜夫の言葉を遮るように莉奈が隣の男を紹介してくる。
鴻池っす、と男が頭を軽く下げ、その拍子に長いサラサラの髪が彼の顔を隠すのが視界の隅に映る。
鴻池。
雅な名前だ。
金持ちの坊ちゃんか。
周囲に傅かれて育ち、世間知らずで、善と悪、常識と非常識の区別がつかず、自分が何をしているのか分かっていない。
そういう類の思慮の浅い男と認識しても大筋を外していないだろう。
とにかく今はこのくだらない男にかかずらってはいられない。
「莉奈。行くぞ。話は車の中でだ」
そう言って席を立とうとする杜夫に娘は冷ややかで白けた目を向ける。
良く見ると莉奈は化粧をしていた。
目の輪郭を黒く縁取り、まつ毛が不自然なほど長い。
頬は人工的な朱色に染められ、朱色の唇はいやらしい程艶々している。
「挨拶もできないの?非常識人間」
カチンときた。
十五の小娘が背伸びして大学生と付き合い、似合わない化粧をして悦に入り、挙句の果てに金に困って親を陥れようとする。
そんな愚かな女にどうして非常識と罵られなければならないのか。
しかし、ここで親子喧嘩をしている場合ではない。
刻一刻と初の無慈悲な触手は今晩の生贄を求めてこちらに伸びてきている。
「時間がないんだ、莉奈」
杜夫は周囲に視線を飛ばし、声を潜めた。「これは命に関わる問題なんだ」
しかし、愛娘には杜夫の切迫感と焦燥感はもどかしいぐらいに伝わらない。
大きく息を吐き出したかと思うと「こちらは鴻池隼人君」と懲りもせず隣の男を紹介する。
「君が誘拐犯か」
杜夫は仕方なく鴻池という名の青年を一瞥してやった。
すると鴻池は「さーせんっした」と軽く顎を突き出し、頭を上下に揺らした。
詫びたつもりなのだろうか。
こいつは自分が犯した罪の重さを理解していない。
どちらが書いた筋書きかは知らないが、大学生にもなっているのなら、少しは分別のある行動をすべきだ。
「ちょっと、何よ、その言い方」
莉奈は鴻池を庇うように大きい目をさらに大きくして父親に食って掛かってきた。
何よ、ではない。
娘の誘拐をでっちあげた男にどんな挨拶があるというのか。
「いい加減にしろよ、莉奈。俺か郁子が警察に連絡していたらどうするつもりだったんだ。誘拐は重罪だぞ」
思わず怒鳴り散らしたくなるのを懸命にこらえ、周囲に聞こえない程度の声を保つ。
嗚呼。
今にも血管が切れそうだ。
いっそ切れてしまった方が楽になれるのかもしれない、と本気で思ってしまう。
「別に本当に誘拐されたわけじゃないもん。罪にはならないわ」
きっと想定問答が出来ているのだろう。
ふてぶてしく娘は無罪を主張した。
この態度で分かった。
今回の狂言誘拐は莉奈が発案したに違いない。
「誘拐をでっちあげて金をせしめるつもりだったんだろ。新手の詐欺だぞ、これは。誘拐詐欺だ」
「私が親子喧嘩なんですって言えば警察は相手にしないわよ。民事不介入。知ってるでしょ?」
「お前なぁ」
屁理屈だけは一人前で反省の色の全く見えない莉奈に、杜夫の憤りは高まる一方だった。
犯罪かどうかという問題以前に、親を騙し、その心を翻弄したことを率直に詫びる気持ちにはなれないのか。「親に心配かけて、お前は自分のやっていることが分かっているのか!」
「いいじゃない。たかが三十万ぐらい」
娘は不貞腐れた表情で腕を組んで視線を脇に泳がせた。
「何だとぉ!」
我が家で十五年以上生活していてお前は何を見ていたのか。
杜夫の一ヶ月の手取りよりも多い金額を「たかが」呼ばわりするとはどういう料簡か。
杜夫は立ち上がってテーブル越しに手を伸ばし莉奈の腕を捕まえる。「さあ来い、莉奈」
「撃たれたの!」
莉奈は怒りのこもった目で父親を見上げてくる。「殺されそうだったのよ。誘拐どころの話じゃないでしょ!」
店内が静まりかえった。
杜夫は店内全員の視線が自分の全身に突き刺さるのを感じ取った。
「撃つ」とか「殺す」とか「誘拐」とか。
そういう凶暴な言葉は平和な日本の、牧歌的なこの田舎街では恐慌を来す。
杜夫はさらに身体を莉奈に近づけ声量を抑えつつも語気を強めた。
「俺が撃ったわけじゃないだろ。俺に文句を言うのはお門違いだ」
「本当にそう?」
「何がだ?」
「撃ってきた奴等と何の関係もないって言うの?そいつらと親しそうに喋ってたみたいじゃない」
「親しくなんかない」
「へー。『兄さん』って呼んでたのに?」
杜夫はじっと娘の顔を見つめた。
そしてゆっくり鴻池に視線を向ける。
鴻池は照れたように頬を緩めて頭を掻いた。