13
杜夫は電話を握り締めたまま暫く動けなかった。
これは誰からの電話なのだろうか。
その答えが今後の杜夫の行動に非常に大きな影響を与える。
これまでは誘拐犯のボイスチェンジャーの声が電話の主だった。
今回もそうであってほしい。
そうであれば誘拐犯に今の状況を説明し、莉奈を連れて追手から逃れるよう説得することができるかもしれない。
誘拐犯に、何を口から出まかせを、と思われないよう説き伏せられるかどうか自信はないが、そこにはまだ莉奈の生還と我々夫婦の生存に一筋の光明を見出せる。
そう思うのは誘拐犯がどんな奴であれ、初よりはましだろうという推測があるからだ。
実際のところはどんな奴が莉奈の自由を拘束しているのかは分からないのだが、杜夫が知る限り最低最悪の人間は初だ。
しかし、もし電話の相手が初だったら。
それは誘拐犯ごと莉奈が初の手に落ちたことを意味する。
これはいわゆる絶望というやつだ。
そうと分かれば郁子を連れて一刻も早くあの人の前に額づき莉奈の助命を嘆願するか、あるいは刺し違える覚悟で斬り掛かるしかない。
莉奈が初の手に落ちている状態で警察を頼ることはできない。
警察に連絡したことが知れたら、あの人は躊躇なく莉奈の命を切り捨て、さっさと姿をくらましてしまうだろう。
そしてほとぼりが冷めたころに再度こちらの命を狙いに来る。
警察は図体のでかい組織だ。
そこにはあの人の息のかかった人間が入り込んでいるかもしれないし、情報のやり取りをする無線が傍受されているかもしれない。
事実、杜夫が六郎として活動していたころは、同様のことを一味の仲間がやっていた。
警察の利用価値があるとすれば武器の調達先としてだけ。
交番を襲って拳銃を強奪する。
二丁手に入れられれば郁子と二人で突撃して敵将を慌てさせることぐらいはできるかもしれない。
その隙に莉奈だけでも逃してやることはできないか。
胃が捩じられているようにギリギリと痛む。
携帯電話を操作する指が震える。
しかし、誰が相手でも出ないわけにはいかない。
出なければ杜夫の次の行動は決まらない。
杜夫は通話ボタンを押し、ここから最も近い交番はどこか考えながら携帯電話を耳に近づけた。
「もしもし?」
(何なの?)
それを訊きたいのはこっちの方だ、と声を最大にして叫びたかったが、それは不可能だった。
意外な人物の声に杜夫の胸は熱く滾り喉が詰まって、出したくても言葉が出てこない。
涙腺が痛いほど刺激されて涙が幾筋にもなって一気に頬を滑っていった。
「莉奈か?」
漸くそれだけ声にできた。
嗚咽を悟られないよう杜夫は電話を少し離して手で口を覆った。
莉奈が生きていた。
もう二度とその声を耳にできないかもしれないとさえ思っていたのに。
郁子にもこの声を聞かせてやりたかった。
しかし、天にも昇るようなこちらの感動とは対照的に、莉奈の態度は深く暗い井戸の底のような冷やかさだった。
相変わらず手の届くところにはいないらしい。
(質問に答えて。パパって一体何者なの?)
最近の莉奈の定番となったあの眉間に皺を寄せた不機嫌そうな顔が目に浮かぶ。
「何者って……」
長い年月をかけて育てた娘に何者かと問われたことのある父親はそうはいないだろう。
莉奈が電話を掛けてくること自体が驚きなのに、そんな問いかけを浴びせられるとは思いもよらず二の句が継げない。
どうやら莉奈はいつも以上に怒っているようだ。
誘拐されたことへの不安や恐怖、寂しさといった負の感情は微塵も感じさせず、メラメラと燃え上がる憤りだけを声に充満させているように聞こえる。
杜夫は感動で破裂しそうなほど膨らんだ胸が急速に萎んでいくのを感じた。
空気が抜け、張りを失い、ゴミ箱に捨てられる風船のような惨めな気分だ。
やるせなさが腹の底で冷えて固まる。
「お前こそ何をやってるんだ?」
今、はっきりと分かった。
莉奈は誘拐などされていない。
そう考えなければ莉奈からのこの電話の辻褄が合わない。
誘拐事件は莉奈本人がでっち上げた芝居だったのだ。
高々三十万円というはした金欲しさに、親を騙し心配させ走り回らせて死にそうな目に合わせている。
この馬鹿娘が。
莉奈がここまで親不孝な娘だとは考えもしなかった。
目の前にいたら否応なく張り倒していただろう。
こんな事実をどう郁子に伝えたら良いのか。
萎んだ胸の代わりに頭の血管が急激に膨張していくのが分かる。
脳みそがはちきれそうだ。
(別に何もしてないわ)
「何もしてないわけないだろ!誘拐犯はどこへ行った?」
杜夫は運転席に身を起こし合成皮革の破れたハンドルを叩きつけた。
(何のこと?)
「何のこと、じゃない!助けて、と叫んだあの声は何だったんだ。お前が誘拐されたと思って俺とママがどれだけ心配したと思ってるんだ」
(ちょっと、お金が必要になったのよ)
莉奈の声には反省の色も罪悪感の欠片も一切見当たらない。
それどころか開き直って、口やかましい父親のことを心の中で蔑んでいる雰囲気すらある。
「だから親を騙したのか?」
(いいじゃない、三十万円ぐらい。お金ならたくさん持ってるでしょ?)
「金額の問題じゃない!」
杜夫は怒りに声を震わせた。「お前、自分のやっていることが分かっているのか?」
(だったらこちらも言わせてもらいますけどね、パパの知り合いに鉄砲持ってる人がいるっていうのはどういうわけなの?バイクで走ってるはやちんに鉄砲撃ってきた人は誰なの?)
「鉄砲?」
最近娘との会話が噛み合わないことが増えたが、この電話ほど噛み合わなかったことはない。
鉄砲という物騒な言葉に杜夫の頭が強制的に冷却される。
熱くなったり冷たくなったり、ヒートショックで突然死しそうだ。
一体何が起きていて、何を解決すれば良いのか訳が分からない。
杜夫はまた助手席に上体を倒し声を潜めた。「何のことだ?」
(白々しい)
莉奈の突き放すような口調に杜夫は身構える。(あいつら、パパの仲間なんでしょ?誘拐犯だからって殺していいの?邪魔者は殺すってこと?)
殺す?
初の部下が公道で拳銃を使ったということなのか。
本気だ。
あの人は本気で俺と郁子に恨みを晴らそうとしている。
そのためにその周囲で誰かがとばっちりを食っても気にしないという徹底ぶりだ。
やはり事態は一刻の猶予も許さない様相を呈している。
「違う!仲間なんかじゃない。今、俺も追われてるんだ。ママも俺とは別に逃げてるところだ」
(は?何?意味分かんない)
「とりあえず意味分かんなくてもいいんだ。お前は無事なのか?今どこにいる?場所を言え。すぐに迎えに行く。一緒に逃げるんだ」
(ちょっと、待って。分かるように説明して!)
「それは後だ。今はそんな暇はないっ!」
杜夫はかつてぶつけたことのない激しさで莉奈の言葉を却下した。
とにかく今は時間がない。
十六年前に一味を脱け出したときよりも焦っている。「後でちゃんと話す。とにかく今は逃げないと危険なんだ。ママも莉奈も俺もあいつに捕まればみんな殺される」
莉奈は電話の向こうで黙り込んだ。
杜夫は焦った。
そうこうしている間にも魔手が四方に伸びている。
逃げ場が一秒ごとに消失していっている。
しかし、これ以上怒鳴りつけて居場所を問い詰めても莉奈の口は固く閉ざされる一方に思えて、杜夫はギリギリと奥歯を噛みしめて莉奈の言葉を待った。
(国道沿いのファミレス)
莉奈は全国展開しているファミリーレストランの名前を挙げた。
散々振り回されたのにそんな近いところにいたのか。
そこは莉奈が幼稚園児のころから何度も行ったことのある店だった。
この時間にも煌々と明かりを点けて営業するファミリーレストランは目立ち過ぎるが、ここからは目と鼻の先の距離だ。
一刻も早く莉奈と再会を果たすにはあれこれ言っている時間も惜しい。
杜夫は了解の旨を告げ、電話を切ると逸る気持ちを抑えて、ゆっくり車のキーを回した。
人間で言うところの不整脈のような不安定なエンジンを宥めるように、杜夫はハンドルを優しく撫でた。