12
結局あの頃から郁子との立場関係は大して変わっていない、と杜夫は暗がりの中で苦笑した。
杜夫は運転席に座りながら助手席に身体を倒し、姿勢を低くして携帯電話の画面の光が外に漏れないようにしてから家に電話を掛けた。
近くを初の部下が走り回っているかもしれない。
暗闇の中では灯りを点けるのが最も目立つ行動だ。
やけに大きく耳に響くコール音が続くだけで誰も出ない。
郁子は家にいないのか。
莉奈が誘拐されていて、杜夫から連絡がいつ入るか分からないなかでどこに行ったのか。
自分の判断で外出したのか。
それとも……。
悪い予感が胸に迫り、杜夫はすぐさま郁子の携帯電話に発信した。
するとコール音が聞こえる前に電話がつながった。
(どうだった?莉奈は?莉奈は無事なの?)
郁子が急き込んで訊ねてくる。
見つかったから掛けてきたんでしょ、という期待感がその声からひしひしと伝わってきて、こちらを委縮させる。
「ごめん」
杜夫は意気消沈した。
郁子の無事を確認したい一心で電話を掛けたが、自分は何一つ成果を得ていないことに気付いた。「莉奈はまだ取り返せてないんだ。すまない」
(そう)
落胆している郁子の様子が電話越しにありありと伝わってきて、情けない気持ちになる。
たかだか三十万円の金の受け渡しに失敗したのはひとえに己の責任だと杜夫は自分を責めた。
殺したいと思われるほどに他人から憎まれている自分のような人間の子として生まれてこなければ、莉奈は今頃誘拐犯から無事解放されていたかもしれない。
犯人は闇の中で金が飛んでくるのを待っているときに杜夫に必死に逃亡を促されてどう思っただろうか。
バイクで逃げ出したら背後から車が猛スピードで追いかけてきたのを見て何を感じただろうか。
厄介な娘に手を出してしまったと後悔しているだろう。
こんな面倒な娘はさっさと始末してしまうに限る、と考えないだろうか。
あるいはあの後誘拐犯は初の手下に捕まってしまったかもしれない。
初に脅され莉奈の居場所を訊ねられたら、犯人はすぐに答えてしまうだろう。
どちらにせよ、莉奈の身に今まで以上の危険が差し迫っているのは間違いない。
(莉奈のことが心配だわ。悪いニュースがあるのよ)
「どうした?」
(あなたが心配していたとおりあの人が……初がこの辺りにいるようなのよ)
「君も知ってたのか。って言うか、君は今どこにいるんだ?」
(謙さんの車で移動してるの。謙さんがうちに来る途中に初の部下を見たって教えてくれて。だから、どこかに向かってるってわけじゃないんだけど、家にいるより安全だと思うから)
「謙さんが?」
杜夫の頭のどこかで何かがおかしいと警告を発している。
初の部下とは誰のことか。
トラのことだろうか。
誘拐犯を猛スピードで追いかけていった人間のことだろうか。
いや、もっと別の人間かもしれない。
しかし、だ。
謙さんが足を洗ったのは俺が一味から脱走する数年前。
つまり今から二十年ほど前になる。
その謙さんがあの人の部下で顔を知っている人間がいるのだろうか。
いたとすればその人間は俺も郁子も知っているはずではないのか。
しかし、今郁子は誰とは言わなかった。
それは謙さんが郁子にその男の名前を言わなかったからだろう。
何故言わなかったのか。
謙さんが知っていて、俺と郁子が知らない人間がいるのか。
もしそうなら謙さんはまだあの人とつながりがあるということだ。
その謙さんが郁子を連れて車で移動している。
杜夫の胸は郁子の安全に対する不安と謙さんに対する不信で占められた。
こうなると謙さんに対しても神経を使う必要がある。
謙さんを家に呼んだのは失敗だったかもしれない。
とにかく、今はこちらが疑っていることは謙さんに気取られないようにしなくてはならない。
郁子の安全を最優先に考えなくては。
「やっぱり謙さんに来てもらって助かったな。謙さんに礼を言っといてくれ。実は俺もさっきあの人に会ったところなんだ」
(え?杜夫君も会ったの?)
「ああ」
(よく生き延びてるわねぇ)
郁子の口調は莉奈を心配している時と比べると、のんびりしていると言うか他人事と言うか。
「命からがら逃げてきたんだよ」
少し冗談っぽく発した言葉に自分でハッとする。
確かに先ほど駅のホームで捕まっていたら今頃は生きていないかもしれない。
改めて初という人間の恐ろしさに身震いする。「でも、それで莉奈の誘拐犯と接触できなくなってしまったんだ。誘拐犯の方も今あの人から追われてる」
捕まらないと良いけど、と杜夫が言うと、郁子は小さな声で「そう」と消え入りそうな声で呟いた。
(やっぱりあの人、私たちのこと恨んでるの?)
「ああ。それは間違いない。捕まったら最後。俺たちは抹殺される」
言いたくないが本当のことだ。
郁子にも細心の注意を払ってもらわなくてはならない。
特に隣に座っている人間に対して。
(莉奈の命だけは絶対に守らないと。こうなってくるとあの子がこのタイミングで誘拐されたのはラッキーだったのかもしれないわ)
「なるほど。そういう考えもできる」
確かに家にいたら全員逃げようがなかった。
今頃家族そろってドラム缶に押し込められ海の底に沈められていたかもしれない。
しかし、だからと言って誘拐犯に感謝する気にもなれないが。
(どこかで落ちあいましょう。私たち色んなこと話し合わないといけないわ)
「ああ。そうだね」
杜夫は考えた。
囲まれにくいところ。逃げ道を確保しやすいところ。
四方に見渡しのきくところ。「あの神社はどうだろう」
杜夫は隣の市のこのあたりでは有名な神社の名前をあげた。
杜夫のいる場所からは大した距離はないが、杜夫の家からは車で三十分ほどかかる。
初は郁子のことも恨んでいるだろうが、本当の狙いはやはり杜夫だろう。
謙さんが初の手下に成り下がっているとした場合、郁子のことは杜夫をおびき寄せる餌と考えているはずだ。
従って杜夫と落ち合うまでは郁子に危害が加えられることは考えにくい。
その時間を少しでも長く取り、その間に対策を練らなければ。
郁子は謙さんに神社の名前を告げ、(じゃあ、またあとで)と電話を切った。
さて、どうしようか。
杜夫は助手席から上体を起こし座席を倒して車の天井を見上げた。
時間はわずかしかない。
しかも間もなく日付が変わるような時刻だ。
できることは限られている。
武器を調達しようか。
それともいっそ警察に保護を求めるか。
そのときまた携帯電話が鳴った。
緊張が痛みとなって全身を駆け巡る。
杜夫は慌てて再び助手席に身体を倒した。
その勢いで助手席のシートから埃がもうもうと待ったのが暗闇でも分かる。
今度は誰だ。
郁子か。
初か。
ゆっくり携帯電話の液晶画面を見ると、そこには莉奈の名前が表示されていた。