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杜夫は拝借した車を国道から一本脇に入った細い生活道路の路肩に停めた。
古い軽自動車だ。
エンジンもボディの塗装も車内の装飾も無残なほどぼろぼろ。
駅の近くの道路に停めてあったのだが、もしかすると不法に廃棄されていたのかもしれない。
それだけに罪の意識を感じさせない、寸借するには手ごろな物件でもあった。
国道からはひっきりなしに車が行き交う音が聞こえるが、杜夫がいるこの道は全く人の気配がない。
弱々しいが街灯がぽつんぽつんと立っていて遠くまで見渡せる。
追手が来たらすぐに逃げられる、潜むにはもってこいの場所だ。
杜夫は前方とバックミラーを交互に確認しながら、少しずつ心身に落ち着きを取り戻した。
心配なのは郁子だ。
かつては皐月と呼ばれていた郁子を初は杜夫と同じか、あるいはそれ以上に恨んでいるだろう。
十六年前のあのとき、身の周りの品を詰め込んだバッグを片手に部屋を出る杜夫を待ち伏せしていた郁子はドア横の壁にもたれて立っていた。
殴られたのだろうか。
彼女は目尻や口元の痛々しい痣を隠すことなく真っすぐに杜夫を見つめてきた。
まずい、と思った。
仕事で出払っていてアジトには自分以外に誰も残っていないと思っていたのだが。
このまま出て行けば彼女によって六郎が脱走したと一味の連中にすぐさま知らされる。
初は裏切りを最も忌み嫌う。
捕まれば間違いなく殴り殺されて、海に沈められるか山に埋められるかのどちらかだ。
逃げおおすためにはこの女の口を、少なくとも数時間は封じておかなければならない。
しかし、この面構えだ。
初の女であり、部下でもありながら、気に入らないことがあれば初に食って掛かる郁子の気性の強さは長い付き合いで良く知っている。
きっとこの痣も昨晩初に打擲されてできたもので、逆に今あの人の腕には彼女の手によってできたひっかき傷が無数に走っているに違いない。
その郁子が大人しく手を縛られ口をテープで塞がれてくれるはずがない。
となると、殺すのが手っ取り早いが、それはオヤジの教えにも自分のポリシーにも反する。
杜夫は頭を巡らせて無視することに決めた。
仕事に掛かっている初は裏切り者の発現を知らされても少しの間は動きようがないはずだ。
今はとにかく遠くへ。
一分、一秒でも早く動かなくては。
「私も行く」
意外な言葉が杜夫の耳を打った。
それはどういう意味か。
一瞬動きを止めたが杜夫は聞かなかったことにして郁子の脇を通り抜けた。
問い質している暇はない。
しかし、沈黙を了解の意味に取ったのか、郁子は杜夫の斜め後ろにぴったりついてきた。
アジトは表向きは土建業者の事務所と社員寮になっている。
その社員寮側の階段を下り、一階の倉庫兼車庫を駆け抜ける。
その杜夫の影のように彼女は無言で付き随う。
その手には小ぶりのボストンバッグ。
「姐さん。どういうつもりなんですか?」
さすがに杜夫は足を止めて振り返った。
そこには杜夫と同い年だがオヤジに拾われるのが一月早かった皐月という名の女が相変わらず何かを決意した強い眼で杜夫を見返して立っていた。
「私も逃げるってことよ」
「逃げる?どうして?」
「じゃあ、六郎はどうして逃げるのよ」
「それは……」
真っすぐな問いかけに杜夫は瞬時言葉を失った。「見てたら分かるでしょう?」
今の一味の中での杜夫の立場を考えれば、仲間なら誰でも分かるはずだ。
オヤジが死んで、ずっと反りの合わなかった初がリーダーになった。
反りが合わなかったのは初の仕事に対する考え方が相容れないからだ。
杜夫はオヤジの哲学に共感し、それを出来る限り体現しようとしていた。
オヤジはそんな杜夫をかわいがってくれた。
だが、初は実の父親であるオヤジの考え方に公然と異を唱えていた。
まだオヤジが生きているときは、その目があったから初も杜夫に手を出すことができなかった。
しかし、オヤジは死んだ。
オヤジがいなければ杜夫が初と一緒にやれるはずがないことは分かり切っていた。
そして当然のごとく初は杜夫を露骨に遠ざけるようになった。
間もなく切られる。
杜夫はそのことを常に肌に感じていた。
破門を命じられ一味から追い出されるのならそれで良い。
しかし、そんなことで済むはずがない。
まだ、一味には古参の仲間がほんの少し残っているからあの人も表向きは大人しくしているが、溜めこんだ杜夫に対する憤りを露わにするのは時間の問題だ。
近い将来些細なことで杜夫に因縁をつけて、私刑にし殺そうとするだろう。
何よりも怖ろしいのは、あの人の手によってオヤジの死を杜夫のせいにされることだ。
あの人は杜夫がオヤジを殺したと思っている節がある。
いや、わざと杜夫にその濡れ衣を着せようとしている。
「私も同じよ」
「何が同じなんですか?」
杜夫は苛立ちを込めて郁子を真っすぐ見返した。
「私も殺されるのよ」
「え?」
「怖いのよ、あいつと一緒にいるのが」
郁子は肩を抱いてその場に蹲った。「殴られて蹴られて無理やり……。もう身も心ももたないの」
そこまで言われても杜夫は郁子を信じたわけではなかった。
彼女は初の女だ。
初に言われて見張っていた可能性があり、スパイ活動のための芝居を打っていると考えても辻褄は合う。
その心理が杜夫の表情に出ていたのだろう。
郁子は「あなたは私のことを信じるしかないのよ」とポケットから携帯電話を取り出して見せた。
連れて行かなければ今すぐ初に電話をするということだろう。
郁子は合気道の有段者だ。
力ずくで動きを封じるのは骨が折れるに違いない。
杜夫は一つため息をついて、好きなようにしろ、という思いで無言で駆け出した。