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 通話を切断した途端、手中の携帯電話が張りつめた空気を読まずに軽やかに鳴り響いた。

 誘拐犯から次の指示を伝えるメールが届いたのだろう。


 しかし、杜夫は携帯電話を握りしめたまま動けなかった。

 指呼の間にいる初とトラに対する集中を途切れさせることができない。


 初は不気味な薄笑いを顔に貼り付けたまま、身体全体にゆったりとした雰囲気を醸し出して、こちらを見ている。

 世の中の全ての事象は全て俺の掌の上で起きている。

 そう言いたいかのような余裕の表情だ。


 杜夫は視線を切らずにゆっくり一歩下がった。

 さらに、もう一歩下がる。

 メールを見なくてはならない。

 しかし、携帯電話に目を移せば、どうしても隙が生まれる。

 その隙から生まれる不利を最小限のものにとどめるための距離がほしい。

 そのために少しでも目の前の二匹の獣との距離を確保しておきたかった。

 さらに一歩下がりながら急いで携帯電話を操作する。



 レジ袋を線路の向こうの道路へ投げろ



 これで一つ確実になった。

 莉奈を誘拐した人間は初ではない。

 芹沢家の運命は辛うじて希望という名の縁に踏みとどまっている。


「犯人からか?」


 自らがまるで全知全能の神であるかのような優越感に満ちた表情で問いかけてきた初の後ろで、その飼い犬が身体を低くした。

 襲いかかってくるのか、それとも誘拐犯を捕まえに走るのか。

 どちらも勘弁願いたいが、莉奈が初の手に落ちることだけは絶対に避けたい。


「逃げろ、誘拐犯!今すぐ逃げろ!殺されるぞ」


 杜夫は犯人が潜んでいると目星をつけていたあたりに向かって大声を張り上げた。


 すると杜夫の声に呼応するようにエンジン音が響き渡り、すぐにオフロードタイプのオートバイが線路脇の道路に姿を現した。

 緑色のボディが駅の明かりを弾いて一瞬鋭利に輝く。

 黒っぽいフルフェイスのヘルメットを被った人間が爆音を残して瞬く間に走り去っていった。


「おいおい」


 初はハリウッド映画の俳優のように天を仰いで驚きを示した。「俺は誘拐犯を捕まえて、お前の娘をここに連れてきてやろうと思ってたんだぞ」


 その初の声を掻き消すように一台の車が甲高いエンジン音を響かせながら、先ほどオートバイが消え去っていった方向へ猛スピードで走っていく。


 視線を戻すと初の後ろにいた男がゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。


 男はやはり、トラだった。

 本名は知らない。

 「トラ」は初の父親、「オヤジ」がつけた名前だ。

 オヤジは拾ってきた人間に規則的に名前を付けた。

 杜夫は六番目だったから六郎。

 郁子は一つ前の五番目で皐月。

 十を超えるとオヤジは干支をあてた。

 だから十三番目はトラだった。


 オヤジからトラの世話係を命じられたのが六郎こと杜夫だった。

 お前ら雰囲気が良く似てるからな。

 それが世話係の理由だった。

 しかし、その数ヵ月後にオヤジは死に、間もなく杜夫が一味から出奔したのでトラとの付き合いは短いものだった。


 そんな昔のことを思い出している間にもトラは無造作に遠慮なく距離を詰めてくる。

 以前の世話係だった杜夫に対しても躊躇う気配は微塵もない。


 杜夫は携帯電話をポケットに仕舞い、肩幅に足を開き、腰を落としてトラの攻撃に備えた。相手は現役バリバリなのだろう。

 杜夫も一味にいたときには護身術として格闘技を齧ったが、この十六年で身体はすっかりなまってしまった。

 少しでも隙を見せたら瞬殺される。


「連れてきた後、どうするつもりだったんですか?」


 トラの一挙手一投足に全神経を集中しながら杜夫は初に問いかけた。

 心臓の高鳴りは今にも胸を内側から突き破り、飛び出しそうなぐらいに強い。

 「緑一色」テンパイの時に感じたドキドキなんてアリの行進みたいなものだ。


 トラはジャケットを脱いで放り捨てた。

 いつの間にか手にはリレーのバトンのような黒い棒状のものを持っている。

 軽く振るとそれは音を立てて三倍に伸びた。

 三段ロッドだ。

 トラはロッドをくるくると振りまわし素早く右手と左手に行ったり来たりさせる。

 まるで曲芸を見ているようだ。

 杜夫は背筋に悪寒を感じた。

 ロッドで頭蓋骨を叩き割られるイメージが脳裏に浮かび上がる。


「それはお前次第だな。皐月と一緒に俺の前に土下座して過去の罪を悔いれば、お前ら二人は手に手を取った状態で心中させてやる。その時は、莉奈とかいうお前の娘は俺が慰めてやった後にどこかに売り飛ばすぐらいで済ませてやるよ。つまり娘の命だけは救ってやってもいいってことだ。どうだ?俺は話が分かる男だろ」


 そこへ電車到着を予告するジングルが鳴り響いた。


 トラがチッと舌打ちし、突然猛獣のように杜夫に向かって突進してきた。


 先手必勝。

 杜夫は手にしていた缶コーヒーを獣の胸目がけて思い切り投げつけた。


 顔色一つ変えずトラはしゃがみ込みホームに手をついて缶コーヒーを避けた。

 しかし、それで体勢が不利になりロッドも振り回しづらくなったはずだ。


 ここまでは狙い通りだ。

 杜夫は間合いを一気に詰めてトラの顔面のあたりに思い切り足を飛ばした。

 喉元につま先を食いこますような形の蹴りを狙う。


 トラはここで驚くべき身体能力を見せ、しゃがみ込んだ体勢から上体を反らし杜夫の蹴りをかわそうとした。

 杜夫のつま先が辛うじてトラの顎を捉えた感触があった。

 しかし、その攻撃だけではトラの動きを止めることはできなかった。

 蹴りあげたまま隙だらけとなった杜夫の足にトラの両手が伸びて絡みついてきた。

 そう思ったときには杜夫の身体は宙に浮いていた。

 プロレス技でいうドラゴンスクリューを掛けられたのだ。

 ホームのベンチに背から落ち、内臓を抉るような衝撃が突き上げられた。


 杜夫は痛みに顔を顰めながらも、すぐに身体を起こした。


 トラは杜夫に蹴られた顎を手で押さえながらも三段ロッドをこちらに向け臨戦態勢を崩さない。

 ペッと吐き出した唾が赤く染まっている。

 杜夫の蹴りで口の中を切ったのだろう。

 自分の血を見て闘争心の炎が大きさを増したのか、トラはさらに眼の険しさを深め、じりじりと間合いを詰めてくる。


 杜夫は後ずさりした。

 もう息が上がってきている。

 しかし、トラは呼吸一つ乱れていない。

 まともにやりあっても勝ち目はない。

 ましてや丸腰では話にならない。


 電車が警笛を鳴らしながらホームに入りこんできた。


 杜夫は脇にあったステンレス製の大きなゴミ箱を力任せに倒すと、脱兎のごとく線路に向かって走り出した。

 滑りこんでくる電車の鼻先を掠めて道路との境にあるフェンスに飛びかかる。


 電車のブレーキ音が杜夫の耳を(つんざ)くように響き渡る。

 その向こうで初が「トラ!放っておけ」と叫んだのが微かに聞こえた。


 三十六計逃げるに如かず。

 オヤジの教えだ。

 杜夫はフェンスにしがみついたその勢いのまま二メートルの高さを一気によじ登り、反対側の道路に飛び降りると振り返ることなく一目散に道路を駆けた。

 背中の痛みで膝が折れそうになるが、歯を食いしばり必死に腕を振る。


「六郎!これはほんの挨拶代わりだ。せいぜい逃げ回るんだな!」


 背後から初の怒鳴り声が飛んできたが、足を止めるわけにはいかない。

 杜夫は自分を隠してくれるより深い闇を求めて懸命に足を動かした。


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