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 逆上せそうな熱気。

 幾層にも漂う煙草の白煙。

 汗と脂の()えたにおい。

 部屋の空気は流れのないどぶのように(にご)(よど)んでいる。


 そのドロドロと混濁した空気を切り裂くように芹沢杜夫(せりざわもりお)は卓の上に手を伸ばした。

 指先が震えそうになるのを懸命にこらえながら。

 先ほどから自分の手が自分のものではないような、手の形をしたロボットアームを操作しているような違和感が拭えない。

 山を崩さないように慎重に掴んだ(ぱい)がいつになく重く感じる。

 胸の高鳴りを堪えて、いつも通りのリズムを壊さないよう牌を引き寄せた。


 杜夫の前に並んでいる十三枚の手牌は気高い翠緑色のみで美しく染められている。

 あと一枚「(はつ)」が来れば、役の最高位に位置する役満の中でも最高難度と言われるあの「緑一色りゅういーそう)」が完成する。


 手の中にある八巡目のツモ牌をめくる。そこには白地に赤く「(ちゅん)」の一文字。


 今必要なのはこんな毒々しい朱色ではない。

 しかし、杜夫は一瞬だけ考える素振りをしてみせた。

 そして軽く眉間に皺を寄せ憂いの情感を漂わせつつツモ牌を場に捨てる。

 迷った末に「中」を切った。

 そういう芝居を打ったつもりだが、どこまで効果があっただろうか。


 下家(しもちゃ)の中年男性が銜え煙草で「よっこいしょ」と牌をツモるのを横目で見ながら、杜夫は静かに鼻から息を吐き出す。


 心臓が胸を裂いて出てきてしまいそうなぐらいに高鳴っている。

 自分は今、役満をテンパッている。

 そう思うだけで四肢の筋肉が強張り、呼吸すらままならない。

 またすぐにツモの順番が回ってくる。

 そう思うだけで頭に血が上って意識が遠のきそうだ。


 眼前に並んでいる華麗な翠緑色の面々は杜夫が狙って作り上げた手ではない。


 緊張感が途切れがちの二回目の半荘(はんちゃん)、南場一局目。持ち点は二万八千九百点。南場のうちにもう一回上がれれば御の字と思って、焦りもなく漫然と眺めた配牌に目を疑った。

 「緑一色」のテンパイまであと一枚、イーシャンテンの状態だったからだ。

 まさか、と思った。

 しかし、何度確認しても手元の牌の中には緑以外の色が一枚しかない。

 そして三巡目のツモで何かの導きのように「八索(ぱーそう)」が手に入り、いとも簡単に現在の手牌に至っている。


 杜夫の麻雀は堅実だ。

 勝つことよりも負けないことに重きを置いている。

 他家がテンパイとなれば躊躇なく勝負を降りるし、手が遅くなると思えば早々にドラを切る。

 ピンフやタンヤオを基本線としたリーチ麻雀を常に心がけ、大砲をぶっ放すような派手な手でその場の人間を驚かすことを好まない。

 一局一局の出来不出来に一喜一憂せず、終了時に基準となる三万点を超えていることだけを目指している。


 面白くない麻雀だとよく言われる。

 しかし、三万点を百点でも超えていれば杜夫は十分に満足だし、負けて面白くないのは自分自身だ。

 あまりに大勝してしまえば喜びよりも相手への申し訳なさが募るし、勝ったときの高揚感よりも負けたときの悔しさの方が後を引くのが杜夫の性格だった。

 冒険をしない堅実な打ち方で杜夫は十分に楽しかった。

 だから杜夫は役満を狙うことはない。

 杜夫が麻雀を始めたのは三十歳頃のことで、もっと血気盛んな若い時季に麻雀を覚えていれば違った打ち方になっていたかもしれないが。


 その杜夫の手の中に「緑一色」テンパイの面子(めんつ)がある。

 十三枚の牌が最後の仲間を求めてがなりたてているのが杜夫だけには聞こえる。

 「發」を求めて大合唱だ。


 ああ、うるさい。

 もっと静かで穏やかな手を組みたかった。

 こんなドキドキがあと何巡続くのか。

 心臓に悪いったらない。


 心臓と言えば、この雀荘「次郎吉」のオーナーである「謙さん」こと森山謙造だ。

 二、三年前から「ちっと身体が辛くてなぁ」とぼやき出したのだが、何だかんだ言いながら病院に行こうとしなかった。

 漸く数か月前、杜夫も同行するという条件で何とか人間ドックを受けさせた。

 すると再検査の末、心臓がかなり弱ってきているから欠かさず服薬すべしという診断結果となったのだが、その後ちゃんと通院しているのだろうか。

 妻の郁子も心配していて、「次郎吉」に寄って様子見てきて、と許可をくれたから杜夫は二カ月ぶりに麻雀を打ちに来ることができたのだ。


 久しぶりに見た謙さんに以前と変わった様子はなかった。

 昔、仕事の最中に負った怪我の影響で左足を引きずるようにしてえっちらおっちら歩くが、それもいつもどおりだ。

 顔色は悪くないし、挙措につらそうな仕種も見られない。薬が効いているのだろうか。


 謙さんは客に注文された飲み物を運び、今、杜夫の背後を通ってレジのあるカウンターにえっちらおっちら戻って行った。

 胸で揺れている緑の根付の付いたループタイは郁子からの贈り物だ。


 この半荘が終わったら、謙さんと喋ってみよう。

 とにかく、今は……。


 杜夫は視線を謙さんから卓に戻し、喉の渇きに苦しみながら黙々と牌を切った。


 自分の後ろが壁であることに救われた思いがしていた。

 こんな垂涎の的になるような花形の手を他の客に見られていたら余計に緊張してしまう。

 もし「緑一色」をあがったらどうなるだろうか。

 杜夫はゴルフをやらないから分からないが、きっとホールインワンを達成したのと同じような扱いになるのではないか。

 場は騒然となり、他の客から喝采を受け、店内はお祭り騒ぎだ。


 何と気の重いことか。

 ツモ牌が、あるいは他家の捨牌が「發」ではないことを確認する度に失望よりも安堵の方が強く湧き上がってくるのは、やはり麻雀の世界に煌びやかに君臨する役満という手が自分の性に合わないからだろう。


 他の三人が杜夫の手に注意を配ってきた気配がある。


 それもそのはず。

 まだ序盤のうちから杜夫はツモ切りを繰り返している。

 それは杜夫の手がかたまっていることの証左に他ならない。


 卓を囲んでいる面子は皆初対面だが、一回目の半荘で杜夫がリーチ麻雀を基本にしていることを理解している。

 その杜夫が今回はツモ切りを繰り返しているのにまだリーチをしてこない。

 それはつまり、あと一枚でテンパイになるイーシャンテンの状態だと読んでいるのだ。

 そのあと一枚が揃う前になんとかしないと。

 皆そういう顔だ。


 やがて対面(といめん)の「親」が古木のようなカサカサの指で捨牌を横に向け、他を睥睨へいげい)するような顔つきで堂々とリーチを宣告した。


 誰かがリーチをしたら手を壊してでも安牌(あんぱい)を切るのが杜夫のスタイルだ。

 ましてや今回リーチを宣告したのは、上がれば「子」の五割増の得点となる「親」であり、しかもその一巡目だ。

 ここで振り込めば余計な「一発」の役までついてしまう。


 そして、杜夫が引いたのは……。

 「六筒(ろーぴん)」だった。

 思わず奥歯を噛みしめ、くぐもった息を漏らす。

 「六筒」はこの局のドラで、まだ場に一枚も捨てられていない。


 杜夫は迷った。

 迷っている姿を他家に晒すのも得策ではないが、杜夫は口元に手を当てて思考を巡らせた。


 普段の杜夫なら「六筒」は決して切らない牌だ。

 切るとすれば……。


 「親」の捨牌と自分の手牌を交互に眺める。

 切るべき安牌がない。

 強いて言えば「發」が一番安全か。

 「發」は既に場に一枚捨てられている。

 残りの三枚のうち二枚は杜夫が持っている。

 「親」の手の内にもう一枚あって、その「發」で単騎待ちをしているという可能性は相当低い。


 しかし、ここで「發」を切ることは「緑一色」を放棄することを意味する。

 杜夫の麻雀人生において「緑一色」のテンパイはこれが初めて。

 そして今後二度とないかもしれない。

 いや、二度とないだろう。

 さすがに杜夫もここは簡単には諦められない。


 どうする。

 どうする。


 杜夫は一旦「六筒」を手牌の端に加えてみた。

 異質だ。

 明らかに異質だ。

 それまでそこにあった整然とした美しさが一瞬にしてかき消されてしまった。

 しかし、いくら美しくても負けては意味がない。

 敗北ほど醜いものはない。


 杜夫は目を閉じて一つ息をつき、力を込めて牌を掴んだ。

 今はこれを切るのが正しい選択だ。

 そうだ。

 そうに違いない。


 誰とも目を合わせず卓の中心だけを見据えて杜夫は牌を叩きつけた。


 対面の「親」が鎌首をもたげた蛇のような鋭い目つきで杜夫の顔を凝視する。


 杜夫も一寸の虫の意地で負けじとその視線を受け止める。


 下家が次のツモのために山に手を伸ばそうとしたそのとき、「親」の手元から十三枚の牌がゆっくりと倒れた。


「リーチ一発チートイドラドラ。すまんな。跳ねたわ」


 一瞬、目の前が暗くなったような気がした。


 杜夫が捨てた「發」に「親」が無造作に手を伸ばす。


 ふと「親」の肩越しに謙さんと視線が合う。


 謙さんは白い無精髭に覆われた口元を静かに緩めて首を横に振った。

 謙さんは先ほど杜夫の背後を通った時にその手牌を見たのだろう。

 謙さんは何と言いたいのだろうか。

 「たまには勝負してみろよ」ということか。

 それとも「それがお前の麻雀だから仕方ない」だろうか。


 そのとき杜夫の携帯電話がズボンのポケットの中で振動を始めた。

 「すいません。ちょっと電話が」と断って席を立つ。


 雑居ビルの二階にある「次郎吉」のドアの外に出ると、風が心地良かった。


 暦の上では初夏なのだろうが、五月の夜は少し肌寒い。

 そのひんやりした夜気が逆上せた頭には丁度良かった。

 ワイシャツのボタンを一つ外して風を汗ばんだ胸元に送り込みながら杜夫は電話に出た。

 掛けてきたのは妻の郁子だった。

 何だろう。

 今日は許可をもらってきているのだから叱られることはないと思うが。


「もしもし?」


(帰ってきて)


 たった一言だった。

 怒っているようには聞こえなかったが、努めて感情を押し殺している様子がビリビリと伝わってきた。

 これまでの経験に裏打ちされた杜夫の危機回避システムが歯向かわない方が賢明だというシグナルを発する。

 しかし、唯一の趣味とも言える麻雀を久しぶりにやっているのだ。

 それに半荘の途中で抜けるのは後ろ髪引かれる。


「どうしたの?」


(いいから早く帰ってきて!)


 否応なかった。

 理由さえ教えてもらえないが、ここは郁子に従うしかない。

 一分一秒早く帰った方が身のためだと危機回避システムが結論を示す。

 下手をすると、また何日か会話をしてもらえず、ご飯や洗濯も無視されることになりかねない。


「分かったよ」


 己に言い聞かせるように告げて杜夫は電話を切った。


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