誘引④
「こちら、オトンヌハンバーグです」
「待ってました!」
二人掛けテーブルの上に、彼が頼んだライスとハンバーグが並べられた。
皿に盛りつけられたハンバーグは、店内で作ったフォンドボーを使い、じっくりと煮込まれたデミグラスソースで香り高く仕上げられている。少し遠くに置かれているのに、漂ってきた芳しさがボクの口内に涎を湧き上がらせた。
「こちらがオトンヌグラタンです」
ボクは結局、席に着くまで昼食となるメニューを決められず――一番無難なグラタンを選ぶことにした。
ハンバーグに続いてテーブル上に置かれたグラタンも、チーズの焦げ目とホワイトソースのコントラストがとても煌びやかだ。
ただ、値段がそれなりに違うハンバーグとは――見た目的にインパクトで競り負けるのは事実だろう。
――これが、『値段の高さ』と『選択の重さ』の差なのか。なんとなく、そう思った。
お互いの眼前に並んだ料理たちが昇らせる湯気が脳に命令を発させ、自然と身体に食器を手に持たせる。
「「いただきます!」」
ほぼ同じタイミングで、異なる料理に手をつけた。
ボクは、湯気の量で熱いとわかるグラタンで火傷をしないように、逸る気持ちを押さえてゆっくりと口内に入れていく。
(あつっ……けど、こんなに熱くても、美味さの方が強く存在しているのがすごいや……これが、美味しいもの、なんだろうな……)
焼けたチーズの香ばしさが口の中で広がり、ホワイトソースのほのかな甘さと混ざり合う。
記憶の中に埋もれていた感動が呼び起こされ、思わず目を閉じてしまった。
暗くなる視界の中で、懐かしさを覚えた。錆びついていた心がぎしぎしと音を立てて、内側に秘めていた熱い何かが漏れ出るような感覚だ。
「……懐かしいな、この味。すごく新鮮な気もするけど……同じくらい、古くさい感じもする」
「はははっ、なに中年のオッサンみたいなこと言ってるんだよ。冬ごろにも食ってただろ、それ」
「…………そうだっけ?」
「おう。今日のお前の行動が完全にデジャヴだったから鮮明に思い出せるぜ」
「…………そっか」
――そういえば、数ヶ月まえにも同じように悩んで、同じ理由でメニューを選んで、同じ味のものを食べて――同じ感動を覚えていた気がする。
いつもどおり無難な選択をしていた。『何かを変えたい』と思っていたクセに、自然と同じことを繰り返していたのは――やはり、ボク自身が退屈な人間であることの証明なのだろう。
自由で個性的な学園であろうと、施設が整っていようとも。そこに入っただけで、そこで過ごしているだけで、劇的に何かが変わるわけではない。
そんなことは最初からわかっていたはずなのに、どうしても環境による変化に頼ってしまう。
――それは、ボクの一番悪いところだった。
「はぐ、ぐむぅっ…………むはっ、相変わらずうめーっ!! ふわっとしてるのに、肉を食ってる感がしっかりあるのがたまんねえ!」
「…………君は本当に美味しそうに物を食べるね」
「んが……? そりゃあお前、アレだよ、ホントに美味いモンを食ってるからだよ!」
「あははっ。なにそれ、なんの説明にもなってないじゃないか」
「いンだよ、こまけェこたァ! お前が食ってるグラタンだって美味ぇんだろ?」
「え? あ、うん……まあ、美味しいけど」
「どれどれ、ちょっと寄越せ!」
ボクの返事を待たずに、グラタン皿にフォークを刺し込んできた無礼者。
彼のフォークが刺さった部分をくり抜くように掬って、ライスの上に乗せてあげた。
「あむ……おおっ!? 普通にむっちゃ美味いじゃねえかコレ!!」
「まあ、一番無難な……一番人気のメニューだからね。コストパフォーマンスにも優れた、学生にとってのプチ贅沢として最高位にあるのが、このオトンヌグラタンなんだよ」
「なんだそりゃ!? そんなの、メニューのどこにも書いてなかっただろ!?」
「もちろん書いていないよ。口コミだけで良い評判が広まった実力も、オトンヌグラタンの魅力だからね。一番人気だってことも、ボクを含めた従業員だけが知ってることだし」
「なんだよ、そんなにすげえ隠れ良メニューだったのかよ……! まえに来た時、お前がアホみたいに辛気くせえ顔で食ってたから、ハズレなのかと思ってたぜ」
「……いや、べつに味に文句があったわけじゃなくって……迷った挙句、一番人気のメニューを選んだ自分が嫌になっていただけであって……」
「かーっ! お前、ホントに面倒くせえことばっかり考えてんなぁ……! ったく仕方ねえな……」
「君にとっては面倒くさいことなのかもしれないけど、ボクにとって――――むぐぅうっ!?」
恭太はおもむろにハンバーグを切り分けて、その肉汁溢れる魅惑を、使っていない箸でボクの口に放り込んできた。
「安心して食え、お前が友人同士でも嫌がる『口のついた部分の共有』にはならないようにしてやったから」
――友人同士だとしても、普通はそれ、嫌がると思うのだが。いや、これはさすがに、ボクが変なわけではないと思う。
……今はそれよりもハンバーグだ。せっかく貰ったのだから、堪能しないと損だし失礼だろう。
彼基準の一口サイズは、ボクにとってはかなり大きい……まるでシュウマイを口に押し込まれたような気分だった。
口の中に入ってきたおすそ分けを咀嚼する。歯応えを感じる肉の旨味で口の中が満たされていく――噛むたびに肉汁が溢れて、ソースの濃厚な旨味と絡み合う。充実感のある『美味しい』が、グラタンで震えていた心をさらに大きく揺さぶってきた。
「……へへ。頬の緩みと赤らみでわかるぜ……美味かったんだろ?」
「……!」
――それは、まあ、うん。否定のしようがない。
こくこくと頷く。すると、彼は満足そうに頬を緩めた。
「人間ってのはさ、それでいいんだよ。難しく考えるなとは言わねえけど……思ったことを素直に表すのは、悪いことじゃねえはずだからさ」
「…………んくっ……恭太……」
「……どした? なんか呆けてるけど、大丈夫か?」
「いや、えっと……もしかして、元気づけようとしてくれているの?」
「……そう聞くのが幌らしいよなー。頭良すぎて、逆にアホなんだよな」
恭太はボクの問いに答えなかった。押しつけられたグラタンとライス、そしてハンバーグを一緒に食べて満足そうに唸った。
入学当初、校内で道に迷っていたボクを助けてくれた『劇的な変化の象徴』が――屈託のない笑みを浮かべて、食事に夢中になっている。
彼がフォークとナイフで切り分けたハンバーグの断面から、透明な肉汁が溢れ出て、ソースと混ざり合う。
それは見たことがない情報ではあったけれど、舌の上で感じた幸福の色が確かに滲んでいた。
この『知らないのに知っている』は、ボクの中での変化のひとつなのかもしれない。未知の光景に目を奪われて、濃厚な味の絡み合いを思い出し――食事の手が止まってしまった。
「ん、なんだ、もっと食いたいか? 『あーん』してやろうか?」
――もうひとつ、なんとなく、気づいた。
ほれ、と差し出されたハンバーグは、先ほどまで彼が頬張ったそれよりも……微妙に小さく切り分けられている。
――不器用なんだか、器用なんだか。よくわからないけれど、彼の気遣いは十二分に伝わってきた瞬間だった。
「……気持ちわるいコトを平然と言わないでよ。少なくとも、そういうのはボクにやるべきことじゃない」
「ははっ、わりィわりィ。うちで飼ってるゴンが、食事時にちゃぶ台に乗せる顔に似てたモンだから、つい」
「……ボクは、君の家のふとっちょコーギー君と同じなのか?」
「ばーか。それぐらい大事なんだよ」
「…………真面目に返すな。反応に困るじゃんか」
これまでの人生は例外なく内向的だったために、友達の少なかったボクはそのストレートな言葉に思わず怯んでしまった。
恭太は、そんなボクの恨めしい視線をけらけらと笑い飛ばしていた。