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その五 ソドム:うたかたの……

 ロビーは各宿泊棟に一つずつあり、暖かな照明に照らされた落ち着いた空間だった。静けさが満ち、数名の男女が、脇に設置してあるカウンターで、バーテンから酒を振る舞われていた。中央にはゆったりしたソファが幾つもあり。壮年の男性が一人、酒を飲みながら煙草をくゆらせている。

 ジャンとヨハンセンは、カウンターとは反対側の壁にもたれて談笑していた。最近のヨーロッパ事情をジャンから聞いていたヨハンセンは、いやはやと大げさに溜息をついた。


「まったく戦争の臭いは中々消えんなあ! 春はいつ来るのやら……俺達も陸が恋しいよ」

「あんたなら、陸でもやっていけると思うがな」

「かもしれん。ところで春と言えば……ジャンよ、お前にも春が来たな!」

 ジャンは、はあと間抜けな声を出した。

「何を言ってるんだ、お前は?」

 ヨハンセンはにやりと笑うと、ジャンの腹をつついた。

「惚けるなよ! 素敵な恋人じゃないか! いや、俺は友人として嬉しいよ! 後でお前の部屋に夜会用の服を届けるとしよう! その服じゃ、幾らなんでも――」

「いや、服は自前を持ってきているから結構だ……。もしかしなくてもマヤの事か?

 違うぞ。彼女は仕事でだな……」

「ああ、聞いたよ。でも助手じゃないんだろ? 俺に嘘はよくないぞ! 大体お前、凄く嬉しそうじゃないか!」

「だ、だから、何を言ってるんだ、お前は!?」

 ソファに座った男性が、ふふっと小さく笑うと、煙をふうと吹く。

「手品師殿は、自分の感情を消失させるのは得意ではないとみえるね」

 ヨハンセンがうまい! と拍手をする。ジャンは口をパクパクとさせ、頭を振った。

「いや、まったくそんなことはない。大体、俺みたいな不細工に恋人なんて、笑い話――」

「こらこら、男は顔じゃないぞ、俺を見ろ、問題はハートだよ!」

 ドヤ顔のヨハンセンにジャンは閉口する。ソファの男性がおっと声をあげた。

「君、手品師。あれは君の恋人じゃないか?」


 振り返って宿泊棟に繋がる階段を見上げたジャンは、ぎょっとして固まった。

 マヤが着ているのは薄いピンク地で、蘭の花をイメージした、ちょっと古い型のイブニングドレスを改造したものだった。背中と胸元が大きく開き、横についたスリットから健康的な足がのぞいていた。真っ赤な顔で、スカートを両手でつまむと、ちょこちょこと階段を降りてくる。絶句していたジャンはヨハンセンにつつかれ、目を瞬かせた。

 目の前に立ったマヤをじっくりと下から上にと目を走らせる。マヤは恥ずかしそうに身をよじった。

「親父のプレゼントだって。あと金庫にたくさんお金が入ってた」

「そ、そうか……」

「あ、あんまりジロジロ見ないでほしいといいますか……恥ずかしいといいますか……」

「あ……あ! いや、すまん!」

「……で、どう?」

 ジャンは体をびくつかせ、一歩後ずさる。

「ニゲルなよ、ジャン」

 ジャンは耳元のガンマを掴むと襟に押し込み、ううっと呻くと、マヤの顔を見た。

「……似合っている、と思う」


 マヤはぱっと明るい笑顔をした。

「本当に!? はは、いや~正直あたしっぽくないな~なんて思ってたんだけど、似合ってんならいいや! どう? どのくらい淑女してる?」

 ヨハンセンが台無しだという顔をした。ジャンが肩を竦めた。

「凄い凄い。淑女すぎて目がつぶれそう」

「ちゃんと褒めろよ~。つまんねえなあ」

「いやいや、ちゃんと褒めたろうが。

 ところで、マヤ、そんなドレス着ていたら、その……カレー料理が食えないんじゃないか?」

 マヤはげっと言う顔をし、慌てて辺りを見渡し、ソファに座る男性の前に置いてあったナプキンを一枚取ると、首に結び付ける。

「これで、よし……」

 ソファに座った男性が酒を吹き、ジャンが悲鳴を上げた。

「やめてくれ、並んで歩くのが恥ずかしいわ!」

「だまらっしゃい! さ、カレー食べにいこうよ」

「おい、それは後だろ」

 ジャンはマヤの耳元に顔を近づけると、声を潜めた。

「で、親父はいなかったんだな?」

 マヤもひそひそと返す。

「ああ。手紙すらないんだよ! お金とドレスだけが部屋にあってさ、正直気味が悪くて。お金が本当にあたしの物なのかも疑わしいと思わない?」

「なら、執行部に行って確かめてみないか? あの招待状を出したのは執行部だったろ」

 ジャンの提案にマヤは頷いた。

「さっきヨハンさんから聞いて、あたしも行こうって思ってた。ヴィルジニーって名前の部長さんもいるらしい」

「本当か! で、それは――」

「いや、あたしの夢のヴィルジニーは、その部長さんと年齢が違うんだなあ」

「ふーむ……」


 マヤは姿勢を正すと、声を元の調子に戻した。

「で、行く前にカレーを食べようと思って――」

「却下だ。カレーの匂いをさせながら真面目な話はできん」

「じゃあ、カレーの匂いが取れてから行くという事で――」

「おいおいおい! なんなんだ君達は!? デートではなくカレーの話ばかりして! 聞いてるだけで、酒と煙草からカレーの匂いがしてきそうだ!」

 ソファの男性が素っ頓狂な声をあげ立ち上がった。呆れた顔でジャンとマヤを見ている。

「デートならば、もっと匂いのしないものを食べに行きたまえ!」

 ジャンが慌てて手を振って否定する。

「我々は本当に、そういうのではないのです! ゆ……友人です!」

 マヤもうんうんと頷く。


 男性は天井を仰ぎ、呻いた。

「何と言う説得力のなさ! 誰が見たって君達の間に流れている見えないそれは――いや、皆まで言うまい! だがね、君たち、人が出会って恋に落ちるのは自然な事だよ。後悔しないよう生きなくてはならない。

 マイヤーリング事件をご存知かな?」

 ジャンはいきなりの言葉に目を白黒させ、はあ、まあと答えた。

「確か……オーストリア皇太子の情死事件でしたな。暗殺の噂もありましたかな」

 男性は、空のグラスを持ちあげると、ヨハンセンにおかわりを要求した。ヨハンセンが走っていくと、男性はジャンに向き直る。

「私はあれを題材に小説を書いていてね、完成させようと、ここに籠って数年、ようやく私にも幸運が向いてきたというわけだ! 君達には何かを感じるぞ! 恋愛は後悔してはいけないよ! 例え惨敗しようともね! ああ、何かが再び湧いてきた!」

「そ、そりゃ、良かったですなあ」

 男性はマヤに振り返る。

「お嬢さんも! 若いうちの激情って奴は、愚かだけど尊いもの! 泡のように、消えゆく一瞬にこそ価値があるのだ! そう、例えば、来週の月曜に約束をしても、『暗い日曜日』が来れば、月曜は来ないのだよ!」

「は、はあ?」

「つまり! そのドレスは素晴らしい! 退廃的で劣情を催す! 簡単に言うと、大変いやらしい!! どうだ、こういう風に褒めればよいのだ、手品師!」

 マヤは顔を歪めて、ゆっくりとジャンの後ろに隠れた。

「そ、そういう評価はいらないと思うのでありますが……」


 ヨハンセンが、銀のトレイにボトルを乗せ、小走りで戻ってきた。

「クロード様! あ、いや、シェイファー様!」

「良い所に来たヨハンセン君! ようやくサービスキープだ! 大量の紙を持ってきてくれよ! インクもだ!」

 男はヨハンセンを従えて、鼻歌を歌いながら階段を大股で登って行ってしまった。

 取り残された二人は顔を見合わせる。

「……なんなの、あれ?」

「……どうやら俺達はミューズの女神ってとこらしい」

「はーん……。よくわからんが、カレーの匂い漂う小説じゃない事を祈るね」

 マヤの言葉にジャンはにやりと笑った。

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