彼女が俺のWeb漫画の読者なのだが女主人公のモデルが彼女だとはいえない
人気のアマチュア漫画家というほどではないが、底辺のアマチュア漫画家というほどでもない。更新のたびにブックマークは増えるし、つらつらと前向きなコメントも寄せられる。もちろん書籍化なんて夢のまた夢だけれど現状には割と満足している。
賞賛のコメントをもらうと気持ちが舞い上がる。『面白かった!』の一言でも嬉しいし、具体的にどこが良かったのか教えてくれるとさらに嬉しい。
辛辣なコメントがついたらちょっと凹む。作画の指摘だったらいいけれど、それがストーリーに対するダメ出しであり、俺が自信をもって公開した話だったりするとさらに凹む。
『次回の更新も楽しみにしています!』
そういうメッセージをもらうと忙しくても頑張ってしまう。
『お~い! 生きていますか!』
更新が止まるとすぐこれだ。けれども怒りの矛先を向けたいのはアイディアが出てこない俺自身だったりする。
慣れない私鉄の電車に乗り込んで、慣れない都心の駅までやってきた。日曜日の人混みに揉まれるようにして、何とか地下鉄のホームまでたどり着く。ひとつだけ空いている席を目ざとく発見した。向こうからおばあちゃんがヨチヨチと歩いてくる。俺はスマートフォンを取り出して網棚の手すりにつかまった。
花束は目的地に着いてから買うようにしている。人にぶつかったときに折れてしまうし、それだと彼女に対して失礼だから。ガーベラの花言葉は『希望』『常に前進』。ヒマワリの花言葉は『愛慕』『崇拝』。白バラの花言葉は『約束を守る』『無邪気』。その時々の気分にぴったりの花を店員さんに選んでもらっている。
いつも利用している漫画投稿サイト《電脳マガジン》にアクセスした。ここが業界でどのくらいの位置づけなのか気にしたことはない。もしかしたら頂点かもしれないし、十位くらいかもしれない。四コマ漫画を書籍化した先生が活動しているくらいだから、弱小ということはないだろう。
ここに《皇帝なめくじ》先生というペンネームのアマチュア漫画家がいる。どうしてこのペンネームに決まったのかという理由は忘れてしまった。アカウントを登録したときに旧友と居酒屋で飲み交わしていたから、きっと罰ゲームのノリで選んだのだろう。筆が遅い《皇帝なめくじ》先生、作画が下手な《皇帝なめくじ》先生、かなり王道から外れている《皇帝なめくじ》先生。イメージにぴったりの名前だなと俺自身は満足している。
ここに《カズノ子》という読者がいる。どうしてそのユーザー名になったのか、おおよその見当はつく。彼女の下の名前はカノコ。だから身近な食べ物になぞらえて《カズノ子》にしたのだろう。本当に安易でシンプルな発想だと思うし、いかにも無邪気な彼女らしいネームセンスだ。
《カズノ子》は最新話を必ず十回は読み返すらしい。本当かどうかは知らないが毎回コメントで、
『十回も読み返しました!』
と自己申告してくるのだから信じていいだろう。ちなみに俺はひとつの話を百回くらいは読み返す。物語の筋に変なところはないか、露骨に作画が崩壊していないか、誤字や脱字は混じっていないか。作者だから耐えられる苦行だ。
『誤字はっけん!』
駅のホームで缶コーヒーを飲んでいた俺は口の中身を吹きそうになった。どうやら「独り」と書くべきところを「一人」と書いていたらしい。作者である俺よりも《カズノ子》の方が熱心に目を通している。いまはデータ修正できないので家に帰ったらさっさと直してしまおう。
彼女と最後に大喧嘩したときのことはいまでも覚えている。ずっと前から楽しみにしていた結婚式、そのキャンセルを余儀なくされた日だ。だって仕方がなかった。彼女は病気になって倒れてしまったから。車いすに座って点滴をつけた彼女にウェディングドレスを着せるなんて絶対に間違っていると思っていた。
「どうしてキャンセルしちゃったの」
彼女が涙で顔を濡らしながらいう。
「いまは治療に専念しよう。式はまた今度でもいいだろう」
「だって数年後まで生きられるか分からないんだよ」
「そんなことはない。悲観的になるなよ」
どうして人は人を簡単に励ましてしまうのだろうか。完治するかどうかは分からない、万が一のケースもある、主治医の先生は確かにそういった。おふたりでよく相談されるように、とも。
「だって、キャンセル料も取られちゃうよ」
「お金のことなんてどうでもいいだろう!」
彼女に怒鳴ってしまったのはあの時が初めてだった。いや、他の誰かに怒鳴った経験なんて俺の人生で一度もなかったか。一秒後には後悔したのだけれども彼女は怯える小動物のような視線を向けてきた。
本当に馬鹿だった。俺まで余裕を失くしてしまってどうする。辛いのは彼女の方なのだ。プロポーズの時に誓ったじゃないか。あれは単なる定型文のつもりだったのか。いや、断じて違う。俺が支えになるって約束したんだ。
雑居ビルを見下すように起立している要塞のような建物、R総合病院へとやってきた。俺の手には真っ赤なサルビアが握られており、その花言葉は『良い家庭』『家族愛』。あの喧嘩の日からちょうど一年になるという事実が時間の流れの早さを感じさせる。もし病魔の存在さえなければ今ごろは仲睦まじく食卓を囲んでいたのだろうか。新婚旅行の思い出でも語り合っていたのだろうか。
病床四百もある大病院とは思えないほど一階のホールはしんみりとしていた。俺は面会受付ノートへの書き込みを済ませると、彼女が待っている三階の相部屋へと向かった。ここには難病の女性患者ばかりが三人、いつ訪れるかもわからない快復か終焉のときを待っている。俺は折りたたみ椅子を取り出して、ベッドの横にそっと腰を落ち着けた。
彼女は眠りながら泣いていた。その手にはタブレット端末が握られていたので、もしかしたら直前まで《電脳マガジン》にアクセスしていたのかもしれない。
三十分が経つ。一時間が経つ。そろそろ一時間半になろうかというとき、彼女がゆっくりと目を覚ました。生まれたての赤ん坊がするように、外の世界を見回している。
「こめんなさい、私ったら、寝てしまって」
「いいよ、さっき到着したところだから」
俺はベタな嘘をついた。
「あの花は?」
「きれいなサルビアがあったから買ってきた。花言葉は『良い家庭』『家族愛』だってさ」
「素敵な響きね」
「調子はどうだ? 変わりはないのか?」
「良くはないけど、悪くもない感じ。この一年間ずっと一緒。平行線をたどっているの」
そういう彼女の目は焦点が合っていないように感じられた。
「最近は何をやっているんだい?」
「相変わらずWeb漫画を読んでいる」
「欲しい漫画があったら買ってこようか?」
「いいのよ。アマチュアの人が描いた作品なのだけれど、私には十分面白いの。もう第一話なんて何百回も読んじゃったかな。物語の設定がとても奇抜でね。主人公の女の子が生き延びるのか死んじゃうのか毎回気になっている。でも最終回はまだ先かなあ。仲良しだった女の子が死んじゃってね、いま主人公はとても落ち込んでいるの」
作品の題名は《シックインガール》。森の中にある不思議な個人病院が舞台だ。
そこでは難病を患った少女たちとピボット先生と呼ばれるお医者さんが共同生活をしている。ピボット先生はクマのマスコットキャラクターで、背中に天使のような羽が生えている。そしてあらゆる病気を診察する能力とその対処法についての知識を備えている。
少女たちの病気はどれも実在するものばかりだ。一人として同じ病を患っているキャラクターはおらず、皆がそれぞれ違った病名を抱えている。その大半は完治が不可能とされるか、治る見込みが小さい病気であり、いつも死の恐怖と隣り合わせの状況に置かれている。親から捨てられた少女たち。誰からも必要とされない少女たち。
それでも少女たちは毎日を明るく楽しく過ごしていく。お互いがお互いを必要としているから。生きる理由なんてそれだけで十分だと少女たちは割り切っている。
『明日も一緒に遊べるといいね』
その言葉にはシリアスな重みがある。
ピボット先生は優秀なのだが、現代医療を超越した魔術を操ったりはしない。だから回を追うごとに病気で亡くなるキャラクターが出てくる。そして新しく難病の少女が入院してくる。ピボット先生はいう。
『いつか無事に退院できる子が出てくるといいね』
それに対して主人公たちが応える。
『は~い!』
元気よく手をあげながら。
主人公の名前はディーア。金髪をショートヘアーにしたお転婆な女の子だ。このディーアと初めて友達になったアレクシアという女の子がいる。
アレクシアは特に重い病を患っていた。そして最新話では主人公たちに看取られながら亡くなってしまった。
準主役ともいうべきキャラクターなので、アレクシアが徐々に衰弱していく描写にはけっこうなページを割いた。描いている身としてはかなり辛かった。本当にアレクシアを殺さなければならないのだろうか。なんとか死を回避させる展開はないだろうか。しかし、アレクシアの死を乗り越えなければディーアの物語は進まない。
『ディーアよりも先に死んじゃってごめんね。会えなくなるのは寂しいけれど、ディーアが長生きできるのなら、私は会えなくてもいいよ。天国で見守っているから』
《シックインガール》を書き始めたのは誰かのためではなかった。病気について調べているうちに何となく構想を思いついたのだ。
数年ぶりの執筆作業にはものすごく苦労した。まず技量がかなり劣化している。そして肩や腰にだって負担がかかる。でもこの作品は新人賞を勝ち取るのが目的ではない。キャラクターを描き分けられるだけの最低限の画力と、どこかの誰かに理解されるだけのストーリーがあれば十分だった。
そして俺には自由にできる時間があった。彼女が倒れてしまったから産まれた物語というのも皮肉なものだ。テーマは生と死、喜びと悲しみ、友情と孤独。どこかニヒルを気取っているピボット先生が無垢な少女たちとのコントラストになっている趣向だ。
この作品が彼女の目に留まったのは偶然だろう。心のどこかでそう願っていたかも知れないが、俺が漫画を描いていることは一度も口外していない。
「主人公のディーアがね、私と同じ病気を患っているの」
そりゃそうだろう。彼女をモデルにしているのだから。
「ディーアはたくさんの別れを経験するのだけれど、そこには何かしら救いがあるの。例えそれが誰かの創作だと分かっていても私には嬉しいの。前回はね、親友のアレクシアが死んじゃったんだ。日に日に容体が悪くなっていくから、ちょっと危ないかもって思っていたら、やっぱり死んじゃった」
「悲しかった?」
「いや、嬉しかった。アレクシアが笑顔のまま眠りについたから。それなのにボロボロ涙が出てきちゃってね。ああ、そうなんだ。アレクシアはそういう気持ちで死んだんだって。周りのみんなに感謝しながら逝ったんだって」
準主役のアレクシアにだってモデルはいる。いまは空になってしまった病床が一つ。女の子がいつもそこにいた。普段は大人しい子なのだけれども、体調が良さそうな日は彼女と仲良くおしゃべりをしていた。一度でいいから海外旅行をしてみたい。少しはにかんだ表情がやけに印象に残っている。けっきょく旅行したかった国名は分からずじまいだ。
女の子の両親とは少しだけ会話をしたことがある。『どうしてうちの子がって思わない日はないですよ』。その言葉にはシリアスな重みがあった。
女の子は先月から急に具合を悪くしていた。大量の点滴を打たれた姿のまま個室へと移された。女の子の体内で何が起こっているのか、俺も彼女も薄々は勘づいていた。ほとんど治る見込みのない病気。いつも死の恐怖と隣り合わせの状況に置かれている。
「残念ながら先日……」
昵懇にしている看護師がそう教えてくれた。
「人が死んだらこんなに悲しむんだって、ディーアを見ていたら考えちゃった。そしたら生きなきゃって思えてきた。ディーアって普段は笑っているけれど、陰でたくさん泣くの。友達と喧嘩しちゃったとか、派手に転んで頭をぶつけたとか、遊びでボロ負けしちゃったとか。いつ死んでもおかしくないのに不思議だよね。もっと生きたい、まだ死にたくない、そんな泣き方は絶対にしないんだ」
ある日、ピボット先生はいう。
『どんな人間も死ぬ日に向かって一歩ずつ進んでいる』
それにディーアが応じる。
『神様はみんなに平等なんだね!』
一緒なのだ。俺も彼女も。《皇帝なめくじ》も《カズノ子》も。作り手と受け手という違いはあるものの、同じ地平の先にあるゴールを目指している。
「ねえ」
「なんだい」
「ディーアは無事に退院できると思う?」
「ああ、そう思うよ」
「《皇帝なめくじ》先生にコメントを送らなきゃ。物語はハッピーエンドでお願いしますって。どうかディーアに人並みの暮らしをプレゼントしてくださいって。いつか素敵な人と出会って、プロポーズされて、ウェディングドレスを着るの。それって素晴らしい物語だと思わない?」
俺は数秒ばかり考えて、そっと彼女の頭を撫でた。すると涙が堰を切ったようにあふれてきて、あっという間にシャツの胸元を黒く染めた。涙腺が壊れちゃったんじゃないかと疑いたくなるレベルの大泣きだった。この小さい目の奥にどれほどの雫が詰まっているのだろうか。
「どうしたの、急に泣いちゃって」
「何でもないよ。《シックインガール》の粗筋を聞いていたら、なんか泣けてきちゃった」
「悲しいから?」
「いいや、嬉しいからだと思う」
《シックインガール》の最終話をコンコンとノックする、ディーアの笑い声がそこまで聞こえてきたような気がした。