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僕と穂高さんが黙って向き合っていると、お母さんが最初に口を開いた。
「ふたりはいつ出会ったの?」
どこか楽しそうな表情を見て、厄介なことになったと思ってしまった。
「えっと、四月に入ってからです」
だからと言って失礼な態度をとるのもためらわれたので、馬鹿正直に答えた。
「そんなことは分かっているわよ。いつ、いつなの?」
「あ、え?」
お母さんの食いつきっぷりと、穂高さんの「やってしまった」という表情を見て、僕は選択ミスを犯したことに気づいた。
けれども、ここからどうやって挽回すればいいのかわからなかった。
やがて我慢の限界に達したらしい穂高さんはテーブルを両手で強く叩いて立ち上がった。
「もういい加減にしてよ、お母さん。鈴成君、よかったら私の部屋に行きましょう」
「えっ?」
いいのかなと思って目を白黒させていると、彼女はそっと僕の手を取った。
「ね?」
懇願するように見られながら改めて言われれば、うなずく以外の道はなかった。
彼女の手が小さくてひんやりとしていると感じたのは、廊下に出てからのことだ。
彼女のほうもようやく自分が何をしているのか、実感したらしくあわてたように手を離す。
「ご、ごめんね、つい……」
「ううん、平気だよ」
恥ずかしそうに目をそらし、うつむき加減で謝る彼女はとても可愛らしかった。
僕としてもかわいい女子と手をつなげたうれしさみたいなものもある。
口に出す勇気はなかったので、それ以上のことは言えなかった。
ましてやもう少し手をつないだままでいたかっただなんて、口が裂けても言えやしない。
「私の部屋、二階にあるのよ」
穂高さんはそう言って右側の手すりに手を置きながらゆっくりと階段をのぼっていく。
けっこう急だから慎重になっているのかなと思いながら、彼女のあとをついていった。
階段をのぼった正面のこげ茶色のドアにクリーム色のプレートがかかっていて、「まやのへや」とひらがなで書かれていた。
僕の視線の先にあるものを知った彼女は頬を赤らめて言った。
「あれ、小学校のころに書いたものなの」
言われてみれば文字が幼い印象を受ける。
「さあどうぞ。大して片付いていないけれど」
穂高さんは部屋のドアノブを回しながら微笑みかけた。
彼女の部屋の中は予想通り、大きな本棚が三つあって本で埋まっていた。
他に女の子が集めてそうな物は特になく、白の壁紙に白いカーテンは清楚と言うよりは味気ない感じだった。
フローリングに敷かれているカーペットも白色で、ジュースでもこぼしたら大変そうだった。
「ここに座って」
穂高さんは黒い小さな四本脚のテーブルの前に、ピンク色の座布団を敷く。
勧められるがまま腰を下ろした僕の前に飛び込んできたのは、ミステリー小説のタイトルではなかった。
「悪性腫瘍……?」
意外すぎて思わず声に出してしまった。
それが大失敗だと悟ったのは、穂高さんが息を飲んで真っ青な顔になったのを見てからだ。
「……そうだよね。その位置からだと見えちゃうよね。何で気づかなかったんだろう。私、バカすぎ」
彼女は右手を顔に当てて、泣き出しそうな顔で笑う。
そよ風で消えてしまうろうそくの炎のように儚い彼女を見て、僕は何も言えなかった。
よく休むこと、死にまつわるタイトルの本を読んでいたこと、目の前でふらついて倒れたこと、彼女のお母さんが時々見せていた悲しそうな表情……いくつものピースが脳内でグルグルと回っていた。
……僕はすぐに気づけなかったんじゃない。パズルを完成させてしまうのが怖かったのだ。
気まずいという表現がぬるすぎる心境でも、僕は動かなかった。
逃げ出したいという気持ちは強かったのに、下半身が強力な接着剤で固定されてしまったようだった。
どれくらい経ったのか、穂高さんがぽつりと言った。
「ねえ、鈴成君、聞いてくれる?」
質問する形式だったけど、拒否権など行使してはいけないと直感したので、黙ってうなずいた。
「私、悪性腫瘍なの。手術ができない場所に転移しちゃっているから、もう助からないの」
彼女はカーペットに視線を落としながらカミングアウトした。
「助からない……?」
その内容は予期していた上でも衝撃的すぎた。
自分でも不思議なことに目の前の本人にはっきり言われてしまうと、かえって信じられないという思いがこみ上げてきた。
「……何ともないように見えるけど……」
馬鹿な僕はそんなことを言うのが精いっぱいだった。
自分の舌が自分のものじゃない上に、誰かが僕の声を使って話しているような、非現実的な感覚を味わった。
「そうよね。だから学校に通えるんだけど……いつ悪化するか分からないんだって。覚悟しておいてって先生にも言われちゃった」
と言う彼女はもう泣いていなかった。
それでも僕は子猫が車に轢かれる直前の光景のように、彼女の顔を直視できなかった。
こういう時、なんて言えばいいのかさっぱり分からなかった。
気の利いた言葉なんて出てこなかった。
「学校に来ているのは……いいの?」
ようやく出てきた言葉に我ながらあきれてしまったけど、彼女は怒らなかった。
「ええ。クオリティ・オブ・ライフだったかしら? 残された時間を好きに過ごしていいと言われて……じゃあせめて学校に通いたいって」
彼女の言葉を聞く僕の耳が、心がとても痛かった。
取り乱したり叫んだりしていないからこそ、胸が抉られているような気分だった。
好きに過ごせと言われて学校に通うことを選んだ彼女はどんな思いなのだろう。
想像することすらできなかった。
「何も言わないんだ?」
不意に彼女に言われて、僕はドキッとした。
何か言おうと必死に頭を働かせて言葉を選ぼうとしたけど、結局何も出てこなかった。
「ご、ごめん」
やっと出てきたのは謝罪の一言だった。
ところが彼女は怒らずにクスリと笑う。
「いいのよ。変に同情されたり、根拠のない励ましを言われるよりはよっぽどマシ。鈴成君っていい人ね」
何も言えないこんな自分がいい人だなんて評されるとは夢にも思わなかった。
思わず彼女の目を見つめると、彼女は唇に右人さし指を当てながら言った。
「いい人だと思ってお願いするけど、誰にも言わないでね。学校には伝えてあるけど、それ以外には言ってないんだから」
「う、うん」
言えないよこんなこと。
と叫びそうになる衝動を必死に抑えて、何とか首を縦に振った。
坂木先生がどうして僕に見舞いに行くように頼んだのか、この時ようやく分かった。
「約束よ」
彼女はそっと右手を差し出してきた。
指きりじゃないのかと思ったけど、逆らわず握手をした。
と言っても握ったのは僕だけで、彼女の手にはほとんど力がこもらなかった。
「私、指きりよりも握手のほうが好きなの。心を通わせている感じがするから」
握手をそんな風に思ったことなんか一瞬たりともなかったなと思った。
やはりと言うか、余命を宣告されると見方が変わってしまうのだろうか。
それともそんなことを考えてしまう僕が愚かしいだけなのだろうか。




