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家に帰って宿題を済ませて下の階に降りていくと、晩ご飯の支度をしていた母が声をかけてきた。
「あら、今日は何かいいことあったの?」
「えっ?」
正直言えばドキッとした。
そんなにうれしそうにしていたのかという思いと、母はなんて鋭いのだろうという恐怖じみた思いが同時だった。
「そうかな?」
自分の顔をぺたぺた指で触ってみたのだけど、いつもと違いが分からなかった。
「何となくよ。母親の勘」
お茶目に言われたけど、僕は少しも笑えなかった。
何それ怖いと思うくらいは許してほしい。
顔が引きつらなかったのが不思議なくらいだったのだから。
「そんなことないと思うけど」
「ふーん」
母は遠慮なくじろじろと見てきた。
それはよくあることなのだけど、今は何となく居心地悪いのは一瞬穂高さんとの時間を考えてしまったからだろう。
まだ何にもなっていない淡いもの、けれど確かに何かあるものを。
「まあいいわ。いつもの時間に食べに来るのよ」
母はそれ以上追及してこなかった。
しつこくないのがこの人の美点ではあるのだけど、今日に限っては何となく不気味に感じられた。
それでも僕は返事だけして部屋に戻った。
うかつなことを言えば内面をとことん見抜かれてしまう気がしたからだ。
部屋に戻ったところで「本を借りてこればよかった」と思いつく。
まるで穂高さん目当てで図書館に行っていたみたいじゃないか。
誰かに指摘されたわけでもないのだけど、何となく恥ずかしい気持ちになってしまった。
相手が自分自身なのだから言い訳する必要はないのに、したくて仕方ない心境だった。
穴があったら入りたいとはこういうことを言うんだろうか。
いや、何かが違っている気がする。
宿題も終わったのだし何か本でも読もうか、それともゲームでもしようか。
迷った末に僕は伝奇系ノベルゲームを起動し、七時の五分前に携帯のアラームをセットした。
すっかり没頭していたので、アラームのピピッという音がかなり大きくなるまで気づかなかった。
気づいたところですばやく止めて、時刻を確認する。
六時五十七分という表記を見て少し安心して階段を下りて行った。
晩ご飯を食べ終えると、食器を流し台へと運ぶ。
それくらいはやれと母にうるさく言われた結果、自然と体が動くようになっていた。
食事の後、部屋に戻って本を読む。
何を読もうか三秒ほど考え、海外ミステリーの翻訳版を手に取った。
やはり食後はミステリー小説に限る思うのだ。
読み終えた時、ふと穂高さんは今何をしているのだろうと考えた。
そして次の瞬間、いったい自分は何を考えているのだろうかとあきれた。
続いてせっかく知り合えたミステリー好き仲間なのだからと思ったのだけど、何だか言い訳じみていた。
今日はミステリー通でなくても知っているような作家ばかりが出たけど、次の機会にはもう少し深く語れたらいいのになと思った。
ずっと仲間がほしかったのは否定できなかった。
彼女のほうも同じだったら言うことなしなのだけど、果たしてどうだろうか。
……この時の僕は自分のことばかり考えていた。
翌日は土曜日だから学校は休みだった。
残念だと少しだけ思い、自分自身にまたしても驚かされた。
学校が休みであることを残念に思ったのは、正直なところ初めてだったからだ。
そこまで考えたところでひらめいたのが、学校そのものは部活動のために今日も開放されているし、図書館もそうだということだ。
もしかすると穂高さんも本を読みに行くのではないかと思ってしまった。
少し悩んだものの、行くだけ行ってみることにした。
朝早くや下校時刻を避ければ、他の知り合いと遭遇する可能性は低かったからだ。
制服に着替えると、リビングで新聞を読んでいる母に声をかけた。
「母さん、図書館に行ってくるよ」
視線をあげた彼女は怪訝そうな顔になった。
「それはいいけど、何で制服なの?」
「学校の図書館に行きたいから。読みたい本を見つけたんだ」
母は当然僕のミステリー小説好きを知っている。
だから何の疑いも持たなかったようだ。
「ふーん。気を付けてね。昼はどうする?」
「あ……」
質問されて初めて忘れていたことに気付いた。
「図書館は食事できないし、帰ってくるよ」
他に食事できるような場所も思いつかないのだから仕方なかった。
「一回帰ってきて、また行くの?」
母が尋ねてくるのはもっともだったけど、これはすぐに答えを思いつけた。
「うん。一日に借りられる本の数には上限があるからね。読めるだけ読んで、残りは借りることにするよ」
「そう。いってらっしゃい」
母は納得したらしくそれ以上聞いてこず、視線を新聞に戻した。
「いってきまーす」
たぶん返事はないだろうと思いながらあいさつを残した。
いつもは退屈な学校への道のりも、なぜか今日は少しだけ心が軽やかだった。
そのことに気づくと、自分がとても単純な奴に思えておかしかった。
ひとり苦笑すると、たまたま通りかかったおばさんが気味悪そうな一瞥をよこしたので、足を早めて移動した。
校門前に到着すればどこからか元気のいい掛け声が聞こえてくる。
やはり部活を頑張っている人たちはいるのだと感じられた。
知り合いと遭遇したいわけではなかったので、いつもよりも気持ち早く歩いて門をくぐった。
図書館は門をまっすぐに数百メートルほど進んでから右手に曲がり、百メートルほど歩いたところにある。
こういう日だといちいちスリッパから履き替えなくてもよいのは便利だった。
図書館の一階で結局靴を脱いでスリッパになる必要があるのだけど、気持ちの問題である。
図書委員会の人は当番でいるだろうけど、それ以外に人はいるのかとふと思いながら二階へ登った。
ガラス戸を開けて中に入れば、カウンターのところに当番らしき女子生徒がいるだけだった。
入口から見えるところに穂高さんがいないのは毎度のことだから特に気に留めなかった。
彼女の所定位置をまっすぐに目指すのはさすがに恥ずかしかったので、ゆっくりと館内をアテもなく歩いた。
ちらりとテーブルを見てみると、誰も座っていなかった。
受験シーズンになるまではめったに人はいないといううわさはデタラメデはなかったようだ。
しばらく経ってからいつもの位置を覗いてみると、そこに彼女はいなかった。
落胆しなかったと言えばウソになるだろう。
思わずこぼしそうになったため息をこらえるので精いっぱいだった。
……この時はまだ自分の感情が理解しきれていなくて、意外さも感じていた。
彼女がいないと行ってすぐに帰る気にはなれず、好きなミステリー小説がないか探してみた。
何冊か手に取って窓側の席に座り、パラパラとめくってみた。
残念ながら集中することができなくて、本の内容が頭に入ってくるまでに時間がかかった。
これまで知らなかった自分の一面を新しく知ったような気持ちになった。
そして気づいた時は昼を知らせるチャイムが鳴った。
借りた本を返却し、新しく本を借りて学校を後にする。
少し寂しい気がしたのは、おそらく錯覚ではないだろうと思う。




