17
お母さんを安心させ、クッキーを何枚か食べてジュースを飲みほしたところで、穂高さんに部屋に誘われた。
女の子の部屋に連続して遊びに行くだなんて、これまでの僕じゃとうてい考えられなかったことだ。
だからと言って浮わついた気分にはなれなかった。
「はい、これ。借りていた本。どうもありがとう」
部屋に入ってまずやったのは彼女に借りていた本を返すことだった。
「楽しんでくれたならよかったわ」
彼女は微笑むと、大切そうに本棚に戻す。
自分が好きなものを好きという仲間を見つけるのはうれしいことだ。
その点、僕も彼女も変わらない。
「それからこれが昨日言っていた本ね」
「ありがとう。ずっと楽しみにしていたの」
彼女はパッと顔を輝かせた。
この表情を見て、彼女が楽しみにしていたのは僕と会えることじゃなくて、僕が持ってくる本だったのだと思わざるを得なかった。
漠然とそうなのだろうと考えていたことではあるのだけど、いざ確信してしまうと何とも形容しがたい感情が首をもたげてきた。
そしてそんな自分が醜くて嫌な奴のように思えてならなかった。
自分の嫌なところを彼女には気取られたくなくて、態度に出ないように必死に抑え込もうとした。
「さ、座って」
幸い彼女に気づいた様子はなく、いつもの座布団を勧めてくれた。
僕が座る間、彼女は貸した本を枕元に置き、正面に座ってから尋ねた。
「もしよかったら、また何か貸しましょうか?」
「え? いいのかい?」
目を丸くしてまじまじと見つめると、彼女はにこやかにうなずいた。
さすがに連続して借りるのはどうだろうと思いがあったのだけど、彼女がかまわないのであればぜひとも借りたかった。
「ええ、どれにする?」
彼女の問いに即答することができず、考えてしまった。
彼女の本棚を見せてもらったかぎりではまだ読んでいない本が何冊もあるし、どれもが魅力的だったからだ。
「どれにするか、迷うなぁ。急には決められないよ」
両手を座布団の後ろにつき、上体を後方に倒しながらため息をつくと、彼女は声を立てて笑った。
「分かる。たくさん本があるとすぐには選べないよね」
考えることはみんな同じなんだなと、目を合わせて笑いあった。
そこへお母さんがお茶を持ってきてくれた。
「鈴成君が来てくれるようになってからこの子、本当によく笑うようになったわ」
お茶を置きながらそう言えば、穂高さんは困ったように眉を寄せた。
「ちょっと止めてよ、お母さん。鈴成君の前で」
彼女にしてみればたまったものではないだろう。
それに僕にしてもどういう反応をすればいいのか分からなかった。
「あ、ごめんね」
お母さんはしまったと言わんばかりに手で口を抑えたけど、一度言ってしまった言葉はもう取り消せない。
ずっとやるせない気持ちを抱え込んでいたのだろうなと思ってしまうほど、その姿は痛々しかった。
「下に行っているね」
お母さんは逃げるようにそそくさと退出してしまい、気まずい空気になってしまった僕らだけが残された。
何とかしよう、上手い言葉を言おうと必死に頭を動かそうとしたけど、僕のちんけな脳は全くと言っていいほど役に立たなかった。
もう少しできのいいおつむを持って生まれたかったと心底思った。
彼女のほうを見る勇気が出なくて、彼女の本棚のほうに視線を固定したまま、動かさないように懸命になっていた。
やがて短くない沈黙に耐えかねたように彼女が口を開いた。
「本当にごめんなさい。せっかく来てくれたのに」
そう言うと勢いよく頭を下げた。
髪が叩きつけられるような音が聞こえて、痛くないのかなと馬鹿みたいなことをぼんやりと思った。
「いいよ。気にしていないよ」
何とか声を振り絞って言った。
声が上ずらず、かすれもせず、震えることもなかったのは自分を褒めてやりたかった。
「本当に? 迷惑じゃない?」
彼女は少しも納得していなかった。
と言うよりも、押し殺していた不安が一気にあふれ出したようだった。
「だって、ミステリー小説が目当てなんでしょう?」
そのことに気づいたのは彼女のこの言葉を聞いてからだ。
そうか、そう思われていたのか……。
トンカチで頭を殴られたような衝撃を受けつつ、同時に遠く離れて画面越しに見ているもうひとりの自分の冷静な声が聞こえた気がした。
たしかにミステリー小説がきっかけだったし、大きな楽しみにしていた。
だけど、それが全てじゃなかった。
彼女に魅力を感じ、惹かれながらも、病気の件があるからと表に出さないようにしていた。
彼女だって迷惑だろうと勝手判断していた。
病気の話もしないようにしていた。
それが彼女に誤解される原因になっていただなんて、僕はなんて愚かなんだろう。
「違うよ」
彼女の誤解をただすため、自分の気持ちをはっきり伝えるため、僕はできるだけ声に力をこめた。
「えっ?」
彼女は僕の語気に気おされたように息をのむ。
「迷惑なんかじゃないか、病気の件があるのに言ったところで困らせるだけなんじゃないかって、ずっと思っていたんだよ」
ゆっくりと言い聞かせるように吐露すると彼女は表情をさっと赤くした。
「そ、それって?」
彼女の反応を見て僕は自分が言ったことを思い出し、頭を抱えてうずくまりたくなった。
「あ、いや、その……」
一度口から出してしまった言葉はもう取り消せないということを、今度は自分が思い知る番だった。
「あ、ありがとう……」
彼女は頬をリンゴ以上に真っ赤にし、こちらをちらちら見ながらぎこちなく言った。
「ど、どういたしまして?」
それに流されて、僕は間が抜けた反応をしてしまった。
いったい何を言っているんだと自分でツッコミを入れたのはたっぷり五秒は経過してからのことだ。
再び訪れた沈黙を破ったのはまたしても彼女のほうだった。
「あの、今の本当なの……? だって私は……」
彼女は言いにくそうに言葉を濁した。
余命短い人間を好きでいてくれるのかと問いかけたいのだろう。
「そうだね。……自分でも不思議と言うか、説明できないよ。ただ、君が好きなのは本当だよ」
僕は腹をくくってはっきりと伝えた。
すると彼女はそっと目を伏せた。
透明なしずくがいくつもこぼれ落ちて、ぎょっとなってしまった。
「ご、ごめん。傷つけてしまったかな?」
オロオロとしだした様子が面白かったのか、彼女は桃色の唇をほころばせた。
「ううん。うれしくて……自分には縁がないとずっと思っていたから……勝手な女でごめんね?」
そう言った彼女の端正な顔は、複雑にゆがんだ。
喜びや悲しみといった感情が混ざり合って生まれたのだろう。
あるいは罪悪感でもあるのだろうか。
「いや、僕のほうこそ、もっと早く言えばよかったのだろうし……」
色々と思いをはせながら僕の舌がつむいだのは、謝罪の言葉だった。
残された時間が長くない彼女に無駄な時間を使わせてしまったのではないかという思いで胸がいっぱいだった。
「ううん、いいのよ」
彼女はそう言ってくれたのだけど、それくらいじゃ気持ちは晴れなかった。
「僕の気が済まないから、何かお願いをしてもらうというのはどうだろう」
だからこそこんな提案をしてみた。
「もちろん、僕にでもできそうなことにかぎるけど」
言ってから慌ててつけ加えると、彼女は視線を上のほうにずらして考えはじめた。




