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握手を終えると、再び重苦しい空気が戻ってきた。
僕は彼女にどう言葉をかけてよいか分からなかった。
女の子の部屋に初めて入ったという浮わついた気持ちなんてどこかに吹き飛んでいた。
何を言っても彼女を傷つけてしまうだけではないのかという、根拠のない恐怖に感情が支配されていた。
沈黙を破ったのは彼女の発言だった。
「せっかく来てくれたのだし、私の本棚を見てみる? さっきちらりと見られちゃったけど」
「……いいの?」
彼女に問いかけてみるとこくりとうなずかれた。
このままじっと黙っているのもどうなのかという気持ちもあったので、言葉に甘えることにした。
彼女の本棚の大半はミステリー小説で占められていた。
クリスティー、ディクスン・カー、クイーン、ドイルらを始め欧米作家もあれば日本の作家の本もあった。
「すごいなぁ」
これだけの本を部屋に持っていられるという事実がうらやましかった。
でも、なぜ彼女の親御さんが彼女に甘いのかと思うほど馬鹿じゃない。
「あの世に持っていけないものだから、今からどうしようって思っているのよ」
彼女は恥ずかしそうに失敗談を語っているつもりだったらしく、若干口元がゆるんでいた。
僕のほうは少しも笑えなかった。
「ごめんなさい」
彼女のほうもこちらの心情を察してくれたのだろう。
すぐに笑みを消して謝ってきた。
もっとも僕にしてみれば彼女に謝られても困るわけだが。
こちらこそごめんと言いかけたところで、これもまた悪手じゃないかと思い一度口を閉ざした。
そして本棚のタイトルをひとつあげた。
「あ、ブラウン神父じゃないか。借りてもいい?」
わざとらしいにもほどがあると我ながら思う酷さだったけど、幸いにも彼女は乗ってくれた。
「どうぞ」
手に取ってパラパラとページをめくった。
実はすでに読んだことがあるので、内容のほうはある程度分かっていた。
彼女も分かっていたのか、さほど間を置かずに言ってきた。
「よかったら他の本もどうぞ」
「うん、ありがとう」
僕は素直に立ち上がり、別の本もチェックしてみた。
「あ、チャンドラーの長い別れがある。女の子ってこういうの好きじゃないイメージだったけどなぁ」
思わず本音が漏れてしまったけど、彼女は別に怒らなかった。
「そう? タフな男って素敵じゃない?」
彼女の言葉は心から出たものだっただろう。
ただ、好き嫌い以外の感情も混ざっているようにも聞こえてしまった。
彼女の現状を知ってしまったから勘ぐりすぎているのだろうか。
もっとも僕自身、チャンドラーが創造したフィリップ・マーロウという探偵は好きだった。
「そうだね」
と一言だけ言ったのは、探偵談義という不毛な沼に踏み込んでしまう可能性を憂慮したからだ。
してみたいところではあるのだけど、さすがに見舞いに来てやるような話じゃないと思った。
「鈴成君はどんな探偵が好き?」
ところが、彼女のほうは別にそんなことを思っているわけではないようだった。
一瞬止めようかと思ったけど、彼女がやりたいことを止めていいのかという考えが頭をよぎって何も言えなくなってしまった。
「うーん……ひとりは選べないなぁ」
好きな探偵が多すぎるのだ。
浮気性と言われても否定できないけど、ミステリー小説好きな人なら分かってくれるんじゃないかという期待もあった。
「分かる。私もなのよ」
穂高さんはうれしそうに同意してくれた。
まさか本当に賛成してくれる人がいるとは……ちょっと、いや、かなり意外だった。
実は僕ってこれまでかなり狭い世界で生きていたんじゃないだろうか。
「トリックはどういうものが好き?」
彼女から次の質問が来た。
トリックってひと口に言っても密室トリック、心理トリック、アリバイ崩し、それに叙述トリックとあるのだ。
とっさにはこれくらいしか出てこないけど、他にもまだ何かあったっけと首をひねった。
「心理トリックかな。まんまと裏をかかれる、質の高いものがいい。穂高さんは?」
「私はフェアプレーな本格推理ものがいいの。読者への挑戦状が大好き」
「そっちかぁ」
好きなトリックはという問いに対する答えとしては不適切な気がしたけど、僕は大いに納得した。
彼女が挙げたものは好きな人にはたまらないものだろう。
興味がない人たちには一体僕らが何を話しているのか、さっぱり分からないのだろうけど。
散々ミステリー小説をネタに盛り上がった。
やはり同じ趣味の友達とは話があった。
おしゃべりがこんなにも楽しいものだと、初めて知った気分だった。
話が日本のミステリーに移ったところで、部屋のドアが遠慮がちに叩かれた。
ふたりともハッとして視線を向けると、彼女のお母さんが心配そうな顔で言った。
「そろそろ五時半を回るけど、鈴成君は大丈夫?」
「あ、そろそろ帰ります」
うちの親は割と放任主義なのだけど、連絡もせずに五時半回っても帰らなかったらさすがに心配されそうだった。
穂高さんは残念そうだったものの、そういう言葉は一切言わなかった。
「今日はありがとう」
「いや、どういたしまして」
さっきまでの盛り上がりがうそのように、ぎこちなくあいさつをかわした。
「またね」
部屋を出ようとする際にそう声をかけられて、一瞬固まってしまったものの、なるべく自然な風に答えた。
「うん、またね」
階段からおりる際、僕と穂高さんのお母さんは無言だった。
靴をはいてお母さんが玄関のドアを開けてくれた時、切ない笑顔で話しかけた。
「今日はどうもありがとうね。あの子の、摩耶の笑い声なんて聞いたのはずいぶんと久しぶり」
この言葉が僕の心に深く突き刺さった。
そんな風には少しも見えなかったのだ。
彼女は自分の運命を受け入れて何でもないように過ごす、強い女の子だとばかり思っていたのだ。
けれども、それはとんでもない大間違いだったのだと理解してしまった。
……そんな訳がないとこの時の僕は気づけなかったのだ。
「もしよかったら、また相手してやってね。……たぶん、そんなに長くは」
その声は小さかったけど、確かに聞こえてしまった。
でも、何がそんなにはなのかなんて、怖くて聞く勇気なんて出せなかった。
聞こえなかったという顔をして、黙っておじぎしてまるで逃げるように立ち去った。




