1話 時田志吹
時田志吹は学校が終わり、1月の夜空の下、自分のアパートへ向かっていた。やせ形でやや色白の少し整った顔を街灯が照らし、時たま吹く冷たい風により志吹の頬は赤く染まっていた。
彼は今年で18歳になる。夜間の学校へ通いながら母の時田香名子と二人暮らしをしている。父の時田到は志吹が5歳の時に死んでいる。仕事中に倒れたそうだ。まだ30歳の若さだった。到はエンジニアとして働いていた。それなりに優秀なエンジニアだったらしいが、如何せん子どもの頃の志吹にはピンとこなかった。だが、今でも覚えていることがある。それは香名子の体は昔から弱く、病気により入退院を繰り返していたということだ。実際、香名子は以前から、しばしば家からいなくなっていたこともあった。それはつまり、母さんは入院したんだな、と志吹は薄々感じたりしていた。それほどまでに香名子の入退院が、志吹にとっては当たり前のようになっていたのだ。それが不思議なことに、到が死んだ途端に香名子は嘘のように毎日を元気に過ごしていた。到が死に、沈んでいた志吹にこの上ない愛情を注いでくれた。それが心の傷を癒す薬になっていた。母さんが頑張っているのだから自分も頑張らないと、と子ども心に感じていたのだ。今、その時のことを考えてみると母さんは夜な夜な一人で泣いていたのかもしれない、などと思うこともある。そんなことを思うたびに、自分が母さんを守らないと、と自分に戒めていた。
「うぅ、さみぃ。」
志吹はガチャッとアパートのドアを開け、冷気が入らないようにすぐに閉めた。
「お帰り、明日の朝は氷点下みたいだよ。」
香名子は居間のテレビをみながらつぶやいた。今年で43歳になる母の姿を志吹は複雑な目で見つめていた。父さんと同い年の母さんはあのころの父さんを胸に秘めたまま、今も生きているのだろうか、と思い遣っていた。
「母さん明日何時からパートなの?」
「えっと、、8時半から。志吹は?バイト何時から?」
「9時から。3時には終わるから1回家に帰って4時の授業に間に合うように行くよ。帰りは10時くらいかな。」
志吹は着ていたコートを脱ぎながら、そんな他愛のない会話をした。(なんだろうな、これ。)志吹は腕にできた5センチくらいのあざを気にしていた。1週間ほど前からコートを脱いでいるときに目に入っていた。
トカゲのようにも見える奇妙な形をしている。特に痛みがあるわけではないので害はないだろう、と思い、毎日同じ思考を繰り返していた。そして今日も若干気に留めただけで、思考を終わらせ、風呂場へ向かっていった。
翌朝は予報通りかなり冷え込んだ。志吹は布団から出たくないなあ、と思いながら時計を見た。もう7時半だった。もう起きないといけないな、と思いながらも布団の中でしり込みしていると部屋のドアが開いた。
「志吹、起きなさいよ。」
香名子はそう呼びかけるとすぐに出ていった。もう朝ごはんの準備をしているらしかった。親の鏡かっ!、と思いながらも
「部屋に入るときはノック・・・」
とぼやきつつ、重い体を持ち上げた。
ご飯を食べ、身支度を済ませた。居間でテレビでニュース番組を見ながら歯磨きをしているときにまたあのあざが目に入った。志吹はなんとなくそのあざをペチペチと叩いてみた。するとそのあざが少し動いたように見えた。
「あれ・・・?」
もう一度ペチペチと叩いてみた。不意に視線を感じ後ろを振り返る。すると香名子が怪訝な表情でこちらを見ていた。うわぁぁ!変な奴に思われてるぅぅ!、と志吹は内心穏やかではなかった。
「病院予約しとこうか?精神の。」
「いや、そういうのじゃないって!ってかなんで倒置法だよ。」
志吹は必死に香名子の追撃をかわした。
「速報です。また〇〇でテロです。・・・」
「あら、またテロ?物騒ねぇ。」
志吹もテレビに関心を寄せていた。すると背景の人々から何か黒いものが沸き上がってくるのが見えた。志吹は目をこすった。だが、やはり見える。
「ねぇ、なんか黒いの見えない?」
志吹はおもむろに香名子に聞いた。
「えぇ?そんなの見えないわよ。やっぱり病院、行く、精神の。」
「今度は単語で区切るのか・・ん?・・やっべぇ!もうこんな時間だ行ってくるわ!」
「あら、私も準備しなきゃ!気を付けてね。」
志吹は慌てて寒空の下へ飛び出していった。いつもよりどんよりした雲が一面に広がっているように見えた。