真夏と少年の天ノ川戦争
(挿絵アリです。是非是非挿絵ONに)
――それは、オレンジ色の空が綺麗だった夕暮れの日の出来事だった。
高校一年生の僕、星乃一は、所属しているサッカー部の練習を終えて、自宅へと自転車のペダルを漕いでいた。
夕時。
時刻で言えば6時ちょっと過ぎ頃だろうか。
汗に塗れたジャージは既に脱いでエナメルバッグに入れてあるから、今はワイシャツ姿。ペタついた肌にワイシャツの素材は正直合わない様な気がするけれど、まあ仕方ない。
緩い風に身体が冷えるのを心地よく感じながら、帰り道の坂を自転車で進んでいく。
堤防のようになったこの道には、街灯の数が少ない。家も少ない。だから夜に通るのはいささか怖い道ではあった。ので、いつもは耳にイヤホンをつけてウォークマンの音楽を流すんだけれど……、
「今日は忘れちゃったんだよね……」
小さく一人ごちた。
確か記憶が正しければ、今頃は部屋で充電機に取り付けられたままだろう。
はぁ。
こんな事になるなら後回しにしないですぐにカバンに入れておけば良かった。
溜め息をつきつつ、ペダルを漕ぐ足は止めない。前だけを向いて、道を囲う森の方には視線を向けないように注意する。
建物が少ないとは言ったけれど、まるっきり無い訳ではない。
片手で数えられるくらいポツポツと建っている。
そんな中で良く目立つのは、一つの赤いお社だ。少なくとも僕が物心ついた時にはあったけれど、いまだ綺麗なまま保たれている。大した知識は持っていないから知らないけれど、お社っていうのはそれぞれ奉っている神様が違うものなのだろうか?
なんて疑問が頭に浮かび上がった頃。
僕は坂道の中腹、丁度そのお社がある所の近くまで来ていた。
前だけを向いていても視界に入ってくるお社を、僕は意図的に見る。そこにはいつも通り、オレンジ色の太陽に染められてより一層赤く見える神殿と、膝に顔を埋めて蹲る小さな女の子がいた。
うん、いつもと何も変わらない……変わらない?
え? 女の子?
一度は視線を外して前を向いたものの、思わず二度見してしまった。
こんな時間に、暗くなった外にいてはいけないくらい小さな女の子が、そこにいた。おおよそ、小学校の高学年くらいだろう少女だった。その足元には赤色のランドセルが転がっている。蹲っている為確証はないけれど、胸元くらいまでありそうな黒い髪。オレンジ色の世界の中から隔離されているかの様に思える純白のワンピース。
だけど。
そんな白いワンピースの少女は、夕暮れに呑まれて消えてしまいそうなくらい、か弱かった。
それは、オレンジ色の空が綺麗だった夕暮れの日の出来事。
この日僕は、少女――『真夏』と出会ったのだった。
ⅱ
僕は自転車から降りて彼女の元に歩み寄り、目線を合わせるために同じように屈む。
取りあえず話しかけてみようと思う。
泣いている時点で声を掛けない選択肢は消え去っている。それに、暗い外に一人でいるってだけで放っておく事は出来ない。
さて、まず最初は上手なコミュニケーションからだ。
これくらいの歳の子は、学校で『不審者に注意』する様言われているだろう。
怪しまれないよう、明るい声音で……、
「どうしたの?」
「……、」
「何かあったの? 僕が話を聞こうか?」
「……、」
「ひ、日も落ちてきているし、早くお家に帰らないとお母さんとお父さんを心配させちゃうよ?」
「……、」
無視だった。
超シカトだった。
いや、ね? その気持ちはとても分かるけれども。確かに、突然話しかけられたら怯えたり警戒したりするだろうけれども。黙秘権の行使は全国民に約束されているけれども。
顔も上げず、こちらの様子を伺うこともせず、見事なまでに鮮やかな無視はどうなのだろう。
正直、心にグサッとくるものがある。
崩れ落ちそうになるのを堪え、顔が引き攣るのを感じながらブツブツと呟いていると、黙り込んでいた少女が動きを見せる。何の拍子か不意に立ち上がったのだ。
そして、叫ぶ。
「うっせぇロリコンッ!!」
「……はい?」
一瞬頭が真っ白になったが、驚きに浸っている間は無かった。
「くーちゃんを返せ腐れ童が! 何処にいるのか答えろよ!!」
罵詈雑言、まさしくそんな感じだった。
く、口悪いなぁ。
彼女は、すぐ側で屈んで驚きに目を丸くしていた僕に、両手を振り回して殴りかかってきた。相手が小さな女の子だから、勿論痛みを感じるほどではない。とはいってもこの子、容赦なく顔面を狙ってくるので、ちゃんと片手で顔を庇う。
ていうか、一体どういうことなんだ?
くーちゃんって誰のことだ? それに腐れ童って……。
というか! 僕は! ロリコンじゃ! ない!
「お前が隠したんだろ!」
「いや知らないよ!? 冤罪だよ。妄言だ!」
「く、くーちゃんを、うぇ……」
「うわ……っ」
――なんかまた泣き出しちゃったし!?
「くーちゃんを、うぅっ、返してよぉ」
マジ泣きだった。もう僕みたいな人間にはどうしようもないくらいの泣きっぷりだった。
頭の中は混乱状態。ぶっちゃけもうワケガワカラナイ。
「いや僕は青春バカです、はい」
――いや、何言ってんだ僕は!?
絶賛動揺しまくっている僕は、無意識の間に両手を挙げて降参のポーズに近い体制をとって、そんな事をのたまっていた。
女の子は一向に泣き止まないし……ホントさぁ、もう、何なんだってんだ――っ!!?
ⅲ
アレから少し時間がたった。
少女は落ち着きを取り戻し、今ではお社のすぐ側で体育座りをしながら視線を落としている。ちなみに僕もその隣に腰を下ろしていた。
……それにしても、かなり落ち込んでいるなあ。
勿論僕だって冷静を取り戻してから今に至るまでの間に少し考えた。なんとなく状況は察しがついてきたけれど、果たして。
少女はやがて、小さな声で言った。
「……どうして私なんかに構うんです?」
「え?」
「話した事も無い、初対面で泣きじゃくってる子供なんて、明らかに面倒そうじゃないですか」
み、妙に大人びた事を言う女の子だなあ……っ。
いまどきの小学生は皆こんな感じなのか? 普通はそんなこと言わないと思うんだけれど。言葉遣いも……悪くなったり敬語になったり。少なくとも僕はこれくらいの時、誰にでも友達言葉を使っていた気がする。
ていうかこの子、言外に自分が面倒だって言っちゃってるよね。
「……まあなんにせよ、こんな時間に外で一人泣いている子を無視する事なんて出来ないからさ」
綺麗事だって言われるかもしれない。偽善だって言われるかもしれない。でも、子供相手に理屈を捏ね繰りまわして、表面だけ良くして言葉を交わすなんて間違っているし、ダメだと思うから。
何より、小さい子は結構そういう事に敏感だったりするしね。
苦笑交じりの言葉に顔を上げた少女は、そのままジッと僕の瞳を見つめてきた。
なにも隠す事なんていない。後ろめたい事なんて無い。
僕はただ彼女の瞳を見つめ返した。
「……そうですか」
「うん」
どうやらそれなりの信頼は得られたらしい。
僕は、視線を前に戻す少女に告げる。
「僕は星乃一。ここから少しのところにある高校の一年生。ここは帰り道なんだ。……君は?」
「……、」
まだ答えられない、か。それも仕方ない。
「ああいや、答えたくないって言うならそれでいい――」
「真夏」
「……え?」
ポツリと呟く声に思わず聞き返す。
「名前」
「……あ、ああ、名前ね。真夏ちゃんって言うんだ。教えてくれてありがとう」
「……別に」
真夏……真夏ちゃんね。いい名前だ、本当に。夏ってところが、とてもいい。僕は四季の中だと夏が一番好きだ。その次に秋、春、冬。冬は単純に、寒いからあまり好きじゃあない。雪が降ると少し気分が高まっちゃう面は否定できないけれど。秋と春は……大体同列かな。秋は紅葉した森の風景とか好きだし、春は満開の桜が綺麗だし。そして夏。夏はいいよね。暑過ぎるのは嫌だけど、それを差し引いても夏祭りとか花火大会、友達と外でサッカーしたり海に行ったりと、一番楽しい時期だ。……夏が終わる頃に感じるあの切なさも、冬に感じる夏の恋しさも、どれも感動する。
……で、何故唐突に自分語りを始めたかというと、非常に気まずいからである。
彼女はそれ以来口を開かない。
僕も僕で、こっちから根掘り葉掘り状況を聞くのは躊躇われるのでだんまりする事しか出来ない。
困った。
たった五分くらいの時間が非常に長く感じてしまう。
――溜息を堪えて星空を見上げていると、ようやく真夏ちゃんが口を開いた。
「くーちゃんは猫です。全身が灰色の毛で、碧色の目をしてる、これくらいの猫です」
言いながら真夏ちゃんは、人の上腕くらいの大きさを両手で示した。
結構小さい。まだ仔猫なのだろう。
「えと……野良猫、だったの?」
「うん。このへんに住んでいて、いつも私がここに来たらしげみから出てきてくれるのに……今日は出てこないんです。どこかへ行っちゃったのかな……」
真夏ちゃんはそう言うと、そのいつもの事を思い出したのか再び目元に涙を浮かべて俯いてしまった。嗚咽を堪え、えずいているのが隣から聞こえてくる。
野良猫、灰色の毛並み、碧色の目……。
僕がこの道を通りだしたのは高校生になってからだけど、この数ヶ月そんな猫は残念ながら見た事が無い。でも、それはただの偶然だろう。
きっと、確かにここにその仔猫はいたはずなんだ。その子が、何らかの理由でここからいなくなってしまった。
なら、僕が取れる選択肢は一つだけだ。
「よし。じゃあ明日探しに行こうか」
僕は真夏ちゃんにそう提議した。その声に、真夏ちゃんは顔を上げてゆっくりと僕の方を振り返る。その表情は、驚きに染められていた。
……そんなに驚く事かなぁ?
「ほら、僕もくーちゃん見てみたいし。犬か猫かって聞かれたら、迷わず猫って答えるくらいには猫好きだしね。そうそう、僕の家も昔銀色の猫を飼っていたんだ。でも、三歳くらいの時かな。死んじゃって……」
って、なに話を悲しい方向へと持っていこうとしているんだ僕は。
ここは普通、真夏ちゃんを少しでも元気付けれるいい感じの事を言わないといけない場面だろ!!
「えっと、今のはナシナシ! ともかく、僕も猫は好きだから協力するよ!」
誤魔化す様に両手をぶんぶん振りながら、引き攣った笑みを浮かべる僕を見て。
真夏ちゃんは本当に小さな微笑を見せ、虫の鳴き声に掻き消されそうなくらい小さな声で言った。
「サンキューロリコン」
……だが、僕はここで一つ、真夏ちゃんに一つ訂正しなければならない。それを言わずにはいられない。
「僕はロリコンじゃない!!!」
「……本当ですか? だって私に話しかけてきたとき、笑顔を正面から潰した様な顔してましたけど」
「どんな表情だよそれ、地味に傷つくよ! ていうか真夏ちゃん、あの時僕が呼びかけても一向に顔を上げてくれなかったじゃない! そもそも僕の顔すら見てなかったじゃない!!」
「そうでしたっけ?」
「そうだよ!!」
「そうでしたか」
なんて素っ気無く返答する真夏ちゃんはもう澄まし顔だった。
ぼ、僕、小学生におちょくられているのか――ッ!?
くっ、まあいい。これ以上この話題を続けると本格的に『ロリコン』のレッテルを貼られそうだから、取り合えず話題を転換して、さりげなく真夏ちゃんを帰宅させよう。
そんな事を考えていると、真夏ちゃんがおもむろに口を開く。
「星、綺麗ですね」
チラリと横を見ると、無表情の真夏ちゃんが空を見上げていた。綺麗だって思うのならもう少し笑顔を見せてもいいのではないか。分からない子だ。
つられて僕も顔を持ち上げる。
視線の先には、雲一つ無い蒼色に点々と星々が輝く幻想的な光景が広がっていた。あれは、天の川っていうのだろう。数多の星の輝きが一つの流れになって伸びていた。
「――うん。綺麗だ」
ああ。
そうだよね。
金色の月と光り輝く星に照らされながら、僕は思い浮かんだ言葉を口にしていた。
「見つかるよ。くーちゃんは」
「……?」
突然そんな事を言い出した僕を、真夏ちゃんは首を傾げて見てきた。
だから、それを横目で見ていた僕も、真夏ちゃんの方を見る。
告げる。
「だってここは、星があんなにも綺麗に見える場所だもん。そんな絶好の場所を、そう簡単に手放してどこかにいっちゃう訳、ないじゃん」
僕は、猫に芸術的なものを見て感動する事があるかないかなんて分からない。何いっているんだお前、って馬鹿にされるような台詞だったかもしれない。
だけど。
その言葉は、僕にしてはやんちゃな笑みまで添えて、自然と口からでてきた。
対して、真夏ちゃんは面食らった表情を浮かべていた。数秒ほどその状態で固まり、しかしやがて今までで最高の笑みを浮かべた彼女は言う。
「そうですね」
「うん」
そんなやり取りが、少し心地よくて。
僕は笑みを浮かべたまま再び夜空を見上げた。
――否、上げようとした、という方が正しいだろうか。
つまりは妨害された訳だ。
隣に座る真夏ちゃんの、恥ずかしい人を見るようなジト目に。
「それにしてもロリコンさん。よくもまあ、そんな恥ずかしい台詞を口にしようと思いましたね」
「急に辛辣!? ちょっと気分が良かったのに台無しだ!! ていうか誰がロリコンさんだよ!」
「たった今、私の目の前で『キメ顔+笑み』みたいな表情を浮かべて、恥ずかしい台詞を吐いたこうこうせいのおにいさんです」
「そんな変な顔した人がいたの!? どこに!!」
「あなたの事ですが」
知ってた。ロリコンについては絶対に認めないけれど。
それに、そんな『キメ顔+笑み』みたいな顔はしていないと思いたい。思い込みたい。
尚もジト目を浮かべる真夏ちゃんは続ける。
「まあ、そんな変な顔をするロリコンさんに、くーちゃんが懐く事はないでしょう」
「……君、本当はいくつなの? 見た目だけを取れば小学生だと考えているのだけれど」
「その見立てで合っていますよ、ロリコンさん。私は小学四年生です」
「僕はロリコンじゃない。でもぶっちゃけ、真夏ちゃんの言動を見ていると小学四年生の皮をかぶった何かにしかみえないんだよ」
「そんなロリコンさんは小学生に向けるとは到底思えない発言を容赦なくぶつけてくるんですね。別に気にしてませんが」
「あはは、ごめんごめん」
そんな会話をしていると、不意に一際輝く星の姿が視界に潜り込んできた。
一等星、か。
僕はその星に応援されているような気分になりながら、くーちゃんを絶対に見つけてやろうと、再び決意を固めていた。
ⅳ
真夏ちゃんを家まで送ろうとしたら、「住宅街に入るまででいい」とすげなく断られた翌日。まあ、普通に学校だ。
とはいえ今日行けば土日に差し掛かる。土曜日はあまり時間が取れないかもしれないけれど、日曜日なら部活も早めに終わるから、十分探す事が出来るだろう。部活を休んでもいいのだけれど、サボりがバレた後が面倒そうなので我慢しておく。
果たして問題は、何処を探すかだ。
お社の近くにある森の中にいるという可能性は、素人目に見て低いと考えている。まあ何より、森にいるならくーちゃんはお社に顔を出すはずだしね。
となると、僕の高校がある地区か、僕の家がある方の地区に分かれる訳だが。
学校・部活が終わった後となると、あたりは結構暗くなる。僕の部活が終わるのは夕方だから、それは間違いない。
彼女の家があるのは、僕の家とは反対の高校がある地区だ。
なら、部活で遅くなる時は高校がある地区。早い時間から探せる日に、僕の家がある地区を探そう。
いくら僕がついているとはいえ、頭のおかしい不審者に襲われないとは言い切れない。何があるか分からないのは良く知っている。
ならせめて、暗い時間を探す日は、すぐに真夏ちゃんを返せるような場所にいたほうが良い。
よし。
方針は決まった。
……あとは、くーちゃんがこの近くにいる事を祈るだけだ。
――結局。
何の成果も上げる事は出来なかった。何の収穫を得ることもできなかった。いや、正確に言えば収穫はあったけれど、それは僕らが得たものではない。友達に、『くーちゃんらしき仔猫を見た』という話を聞いただけ。それ以上はなにも進展しなかった。
というか、くーちゃんの情報が灰色の毛並みに碧色の瞳の仔猫、という三つだけだから、その目撃情報でさえ信憑性が高いとはいえない。
成果ほぼゼロ。
肩が重い。
心が落ち込む。
そんな気分で、僕と真夏ちゃんは帰路についていた。辺りはもう暗くなってきていて、一面蒼色の空と数々の星に見下ろされてる。先日と気温は対して変わらないはずなのに、吹き付ける風は異様に冷たく感じられた。
もうどうすればいいのか分からない。どうすればくーちゃんを見つけられるのか。何処を探したら見つけられるのか。そもそもくーちゃんはまだこの街にいるのか。
……分からない。
叫びだしたい気持ちが燻るけど、そうした所でどうにもならない事は分かっているし、空しいだけだ。
真夏ちゃんは、自転車を押す僕の数歩後ろを俯いて歩いている。……相当落ち込んでるな。無理も無い話しだけれど。だってあれだけ必死に探し回って、手掛かりの一つだって見つける事が出来なかったんだから。
黒い前髪に隠れる彼女の表情はうかがえない。ただきっと、悲しい顔をしているんだろうな。
……きっと見つけられるさ、なんて思っていた。すぐに見つかって、真夏ちゃんはくーちゃんと再開できて一件落着、ハッピーエンドを迎えられるんだと思ってた。
楽観、し過ぎてたのかな……。
「ま、真夏ちゃん! 大丈夫、明日にはきっと見つかるよ!」
僕は現実を振り払って立ち止まり、真夏ちゃんの方に向き直ってそう言った。
「土曜日に入るから学校もないし、部活もすぐ終わるから早い時間から探せる! 明日は今日探せなかった所に行こう」
他にも、高校の友達にもう少し話を聞いてみよう。もしかしたら何件か目撃情報が聞けるかもしれない。何人か見たって言う人がいたなら、それだけでまだこの街にくーちゃんがいる事の証明にもなり得る。
「だから……」
「……はい。そうですね」
――……だから、そんな悲しそうな笑みで、僕を気遣わないでくれよ。
Ⅴ
「ただいま」
玄関の扉に掛かった鍵を開け、中にはいって小さく呟く。返事は無い。というのも、両親は共働きで、僕が家に帰ってきた時点でまだ仕事が終わっていない事が多いのだ。鍵が掛かってているならば、まだ二人は帰ってきていないという証明になる。
真っ先に洗面所に向かい、エナメルバッグから部活で着ていたウェアを取り出して洗濯機に放り込む。着ていたワイシャツも一緒に突っ込んで風呂に直行。
シャワーで汗を流し、さっぱりした後でまだ母さんが帰ってきていない事を確認すると、階段を上って自室に向かう。
「はぁ」
溜息をつき、そのまま部屋のベッドに倒れこんだ。
背中から伝わる緩い衝撃と共に、一瞬の浮遊感を身体に感じる。
身体も心もくたくただ。
このまま何も考えずに倒れていれば、間違いなくすぐに眠りに落ちてしまうそうだった。
「そうだ……」
僕は着替えたスウェットのポケットに入れておいたスマートフォンを取り出し、検索サイトを開く。
検索する内容は、野良猫の習性についてだ。
「どれどれ……」
もう少し詳しく言うと、『野良猫が住処を移動する理由』について検索を掛けている。幾つか引っかかったサイトにアクセスし、中身を拝見する。
野良猫が住処を移動する理由。
多くは、人間に危害を加えられるのを恐れたり、猫同士の力関係が深く関わっていたりするらしい。他にも、住処を移動するのは一時的であり、ある日突然帰ってくる事もあるようだ。
だけど、くーちゃんが居ついていたというあのお社付近は人気が少ない。一つ目の、人間に危害を加えられる、なんて場合は、まず殆ど無いといってもいいだろう。勿論僕みたいに、通学やらなにやらであの道を通る人もいるだろうけれど。
二つ目は、あそこにどれだけ猫が住み着いているか知らないからなんともいえない。可能性としては五分五分かな。
最後の一つ……もしこれであってくれたらどれだけ良いことか。
「……飼いならしていた猫じゃない、野良猫だからなぁ」
あくまでくーちゃんは、自然の中で育った野良猫だ。いくら真夏ちゃんに懐いていたとしても、それは人が家で飼う猫のような関係性にはなり得ない。そこに居続けるのも、いなくなるのも、全てそのくーちゃんの自由なのだ。
だから、突然居なくなってもおかしくは無い。
僕達には、それを止める権利なんてものは無い……んだと思う。
でも、今更そんなことはいえない。
結果的に何処かへ居なくなってしまうのだとしても、せめて最後に会わせてあげたい。
「頑張るぞ」
充電器につないだスマホをベッド上に放り、僕は仰向けのままそう呟いた。
夢を見た。
通学路にあるお社のすぐ近く。そこで、真夏ちゃんと灰色の毛並みの仔猫――くーちゃんが仲良く遊んでいる。
雲ひとつ無い快晴の下、小さな一人と一匹が、草原を駆ける姿がそこにはあった。
その光景は、眩しく見えるくらい楽しそうで、幸せそうで、喜びに溢れていた。
猫じゃらしを片手にくーちゃんと戯れる真夏ちゃんの背中姿を見て、僕は。
絶対にくーちゃんを見つけ出してあげよう。
そう、決意を固めなおした。
Ⅵ
太陽が頭上を通り過ぎる。
土曜日も言っていた通り部活だった。朝の八時から十三時までの部活を終えて、途中コンビニで適当なものを購入。それを食べた後、僕は自転車を漕いであの場所へと向かっていた。
あの場所。
真夏ちゃんと出会った、お社がある人里から離れたあの田舎道だ。
今日も彼女は、あの場所で僕のことを待っているだろう。
約束した時間まであと二十分。
「今日こそ、見つかれば良いな」
呟いて、ペダルを漕ぐスピードを少し速める。
別の地区にある高校から僕の家まではおよそ二十分強だ。で、例のお社がある田舎道は丁度その間――行きも帰りも漕いで十分近くの場所にあるから、まだまだ全然間に合うな。
住宅街を越え、人気が段々と少なくなっていく。
そして僕は、あのお社がある森へ続く田舎道の坂へと辿り着いた。
「……ん?」
その坂を下る途中で僕は、二、三人……いや、三、四人で道路に群がる中学生くらいの人達を見つけた。
どうしてこんな所に? って思ったけれど、今日は休みだし、ここら辺は自然も豊かで見晴らしも良いから中学生が集まってもおかしくは無い、と勝手に納得する。
でも……あの中学生が手に持つ袋は一体何なんだ?
サ ア 、本 題 ダ
とりあえず僕は、少女の待つそこへ、自転車を降りて押しながら向かった。
果たして。
早足で歩く僕の視界に、少女の姿が見えてくる。
赤色の小さなお社。小さな真夏ちゃんが立った時と同じくらいの高さしかない、小さなお社。
そこには。
そこには。
そこには……、
いつかの様子で、赤いお社のすぐ側に塞込み、外の世界に目を向けないようにして泣いている少女と。
その足元辺りに、猫くらいの小さなケモノの、首の無いグチャグチャの亡骸が落ちていて――
「狂ってんな」
感情が。
爆発した。
「あああァァァああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!!!」
喉が裂けそうなくらいの怒声を。
僕がこれまで生きてきて発した事のないような怒りの咆哮を口から放つ。
堰は切られた。
もう止まらない。止まれない。
泣いていた真夏ちゃんの視線を感じた頃には、僕はもう我を忘れて走り出していた。
爪が食い込み、血が滲むくらい強く握り締めた拳をたたえ、向かうのは道路で群れる中坊共の場所だ。
視界が真っ白に染まったのかと錯覚するくらい、目に力がこもる。
強く食いしばる歯はギリギリと音を立てる。
坂を駆け上がった先で、『猫の頭くらいの何か』が入った袋を弄び笑う餓鬼の一人を殴り倒して、叫んだ。
「分からねぇよッ!!」
吐いて。
「なんで、なんで! どうして!!」
吐いて。
「どうしてこんな下らない、バカみたいな事をしたんだよ!!」
吐いて。
「どう、して……」
――泣いて。
それでも会いたくて、会わせてあげたくて、掴み取ったものは。
こんな下らない、誰も幸せにならない現実でしかないのかよッ!!
現実は非情で残酷なものだ? 知るか、そんなもんは。努力しても報われない事があるなんて事は分かってる。努力してもどうしようもない壁がある事だって理解している。でも! だけど!! それは、その人が努力した事実を踏み躙って良い理由にはならないだろうがッッ!!!
真夏ちゃんは必死に探した。くーちゃんにもう一度再会するために! 暗くなるまで泣き言一つ漏らさず探したんだ!
それを、小さな女の子の大切な願いを、こんなぽっと出の中坊に終わらせられる?
一時的な愉悦のためだけに、一つの想いと、一つの命を簡単に散らされる?
「――ふざけるなよ」
それを少しでも許容できるヤツが居たのなら、
「そいつはただの、クソッタレだ」
視界を滲ませていた涙はもう乾いた。
ただ、腹の底に深く沈みこむような低い声だけが落ちる。声とは裏腹に、僕の心は怒りで熱く煮え滾っていた。
「いっ、てぇなあ! なんだテメェは!!」
頬を全力で殴ったんだ。いくらあまり手を使う場面の無いサッカー部員の拳でも、かなりの痛みがあるだろう。赤くなった頬をさすり、道路に腰を落とした中坊は、眼光だけで僕を殺さんとばかりに強く睨みつけてくる。
それさえも無視して、僕はその中坊の手から落ちた袋を拾い上げた。
重たい。
赤く滲む命の入った袋は、今まで持った何よりも重く感じた。
「聞いてんのかよこのクソ野郎があ!!」
左頬に衝撃。
どうやら殴り返されたらしい。一瞬でブレた視界の中に、怒りの顔をしかめた中坊の姿が映りこんだ。
痛みは全然感じない。アドレナリンとか何とかが出まくっているのだろう。
それと。言わせてもらうけど、こっちの方が怒ってるんだよ!!
殴り返す。
殴られる。
僕と中坊の殴り合いを一瞬傍観していたほかの連中だったが、すぐにハッとなって僕の元へと殺到してきた。
殴られる、叩かれる、蹴られる。
身体の至るところに衝撃が走っていく。口は切れ、肩やら腕やらに鈍い痛みと倦怠感が広がっていく。
絶え間ない中坊の攻撃に、身体を巡る痛みはどんどんと強くなり。
そして僕は、道路の脇の坂に突き落とされ。
遠くなっていく意識に逆らえず、下へと転がっていった。
Ⅶ
ああ。
くーちゃんは、死んじゃったのか。あんなどこの誰かも分からない、中学生の手に殺されて。元の形も分からないくらい無残に。
あんまりだよなあ。
出会いがあれば別れもある。当然だ。命は限りがあるから大事なんだ。でもその『限り』を、他人が勝手に断絶するなんて。
ああ。
僕も生きている間に、くーちゃんと遊んでみたかったなあ。
――生きている間に、真夏ちゃんに会わせてあげたかったなあ。
ヒリヒリと痛む鼻で感じるのは、土と草の匂い。どうやら坂になっている道路の横を下まで転がっていったらしい。
背中に柔らかい地面の感触を覚えながら、僕はゆっくりと瞼を持ち上げた。
星の巴。
視界は蒼暗く美しく、雲ひとつ無い星空で一杯だった。
あの日、真夏ちゃんとであったあの空よりも綺麗だ。はっ、身体中痛くて、起き上がるのさえ億劫に感じるような状態なのに。そんな時に見る星空が、今まで見た中で一番綺麗とか一体どんな皮肉なんだよ。目の周りが腫れてるから、視界が狭くて見辛いじゃないか。
ちゃんと笑みになってるか分からない様な表情を浮かべて、ようやく気がつく。
僕の手を掴んで離さない、柔らかな、小さな女の子のものと思わしき両の手がある事に。
今何時だろう……小学生が外に居て良い時間ではないよな、絶対。
でもまあ、今日の今くらいは、そんな事は気にしないでいてもいいか。
僕らはそれから、目を合わせることなく、ただ美しく何処までも広がる星空を眺めていた。
~Fin~
Orangestar様の『真夏と少年の天ノ川戦争』の二次創作です。
未完成タイムリミッターが殿堂入りした今日、なんとしても上げたかったので。
あとがきはこの後、活動報告にて上げます。
もしよろしければ、上の作者名をクリックした後、画面左側に映る活動報告を見に来てください(なろうを知らない人の為の説明です)