夢のような彼女の夢を
――携帯のアラームが鳴っている。八時だ。
俺は枕の下の携帯を引き抜き、アラームを止めた。
「ふぅ……、なんか疲れてんな……」
朝が気だるいのはいつものことだが、いつもより体が重い。頭も痛いし、熱でもあるんじゃないかと思って、引き出しから体温計を取り出す。
「あ、そうだ、電池切れてるんだった……」
ボタンを押しても反応しない。こういうのって、肝心なときに役に立たないんだよな……。仕方ない、帰りに薬局で新しいのを買おう。
憂鬱な気持ちを晴らすため、カーテンを開け放った。
……どよーん。
「……っち雨かよ」
まったく、ついてないにも程がある。これじゃあ、いつものように自転車を全速力で疾走させるのは無理だろう。それなら、いつもより十分くらい長くかかる。つまり、時間があまりない。
急いで着替えて、家を出た。玄関に片方だけ鍵をかける。制服の上からかっぱを着て、駐輪場まで急いで走り自転車に跨がった。
雨の日はスリップ注意。あまり速くペダルを漕ぐのは危険だ。学校に間に合うギリギリのスピードでゆっくり漕ぎ続ける。これなら、あと三十分くらいはかかりそうだ。登校時のサイクリングは数少ない楽しみの一つだったのだが、スピードが一定だとさすがに退屈になる。
雨が段々強くなってきた。まあでも、雨の中を走るのも、これはこれで良いかもしれない。体に雨が当たって気持ちが良い。ただ、少し寒いのが難点。
ふと顔をあげると、前に突然人が現れた。
「ちょっ、危ねぇ!」
……豪快に転んだ。とっさにハンドルを切ったのだが、バランスを崩してしまったようだ。ていうか、タイヤが滑った。だから雨の日はスリップ注意だと言ったのに。
「ってーな……」
はあ……、もう制服がびちょびちょだ。クリーニングに出すの面倒だな……。
「あの……」
後ろから声がした。さっきのは女の子だったみたいだ。俺は立ち上がって、後ろを振り向いた。
……うお、超可愛い。
「……あ、えっと……、ご、ごめんなさい」
駄目だ。緊張して声が出ない。なんで緊張してるんだよ。
「えっ、やっぱり……、その、私が見えるの?」
うん、可愛らしい声だ。あれ、今なんて言った?
「見える? そりゃ……、見えるよ。いや……、まさか幽霊とかじゃないよね?」
そうだ、「私が見えるの?」なんて聞くのは幽霊しかいないじゃないか。というか、まさに決まり文句。
しかし、そんな俺の不安なんて知らない彼女は、
「嬉しい!」
……いきなり抱きついてきた。もう……幽霊でも何でもいいや。なんか久しぶりに幸せな気分だ……。
「その……、怪我とかはないか?」
「うん、私は大丈夫。ごめんね、急に現れたりして」
「いや……、いいよ、前を見てなかった俺のせいだし」
「優しいのね。ああ……嬉しい」
そのまま、彼女は泣き出した。嬉し泣きのようだ。何がそんなに嬉しいのだろう。
「あなたの……、名前は?」
「俺は、海人だ」
「海人……、会えて本当に嬉しい。私は、ユレリアよ」
「ユレリアか……。うん、俺も……会えて嬉しいよ」
そして、彼女はゆっくりと俺から離れ、
「……!」
俺にキスをした。……突然すぎて、思わず目を瞑ってしまった。な、何とも言えない気分だ。
「ありがとう、海人」
もう駄目だ。我慢できずに目を開けた。
「……あれ?」
彼女――ユレリアは目の前にいなかった。辺りを見回しても、どこにも姿はない。
「まさか……、本当に幽霊だったりして……」
まさか、な。俺は倒れていた自転車を起こし、跨がって、学校に向かって走り出した。もうとっくに遅刻だけれども。
――いつの間にか、雨は上がっていた。