2-1 ふぁんたじー
まず感じたのは、包まれたような温もりと少し雑多な布の感触だった。
「……ん」
何か夢でも見ていたのか、喉から苦悶の声が漏れた。瞼を閉じたまま、精神が意識の底から引き上げられる錯覚を受ける。
「……っ」
およそ人とは睡眠の最中に実感を得ることはなく、事後にそうしていたと気づくものだ。それに慌てる者もいれば、起きてしまったことに不満を抱いて再び眠りにつこうとする者もいる。
豊崎愛美は前者である。
愛美は、気づけば目を閉じて眠りについていたという事実に気づいて、意識を無理矢理覚醒させた。
微かに残る微睡みを振り切り、体を起こす。
一目で木製と分かる部屋に、見覚えの無いベッド。家具は箪笥が角に寂しく置かれただけ、まるで置物のように鎮座していた。明らかにここは愛美の部屋ではなく、まして彼女の家ですらない。
「………?」
ここはどこか?
いつの間にここに連れてこられたのか?
一般的に、見覚えの無い部屋で眠っていた人物がおよそ優先的に思い浮かべるであろう疑問よりも、愛美がまず呟いたのは、
「……飛鳥?」
隣から消えた、幼馴染の名前だった。
◇◆◇◆◇
気づけば寝ていた事実に、意識が明瞭になっている。
何て言えばいいのだろう。この、一瞬で眠気が吹き飛んだ不思議な感じは。
……遅刻しちゃいけないから少し早く起きたのに、眠くて結局二度寝しちゃったのに気づいた感じ?
とにかく、私の意識は完全に覚醒して、その前後のことも覚えている。
だから、そこにあった筈のものが無い違和感を、感じずにはいられなかった。
「飛鳥……?」
思わず彼の名を呟いてしまったのは、仕方のないことだと思う。
飛鳥。
響きがどこか女性的と嫌っている、私の幼馴染の名前。ついさっきまで隣にいた人が、突然消えてしまえば誰だって驚く。
……いっつぁてれぽーてーしょん?
ダメだ混乱してる。アニメじゃないんだから、そんなことあるわけなかろうに。
困ったな〜と部屋を見回していると、ドアのノブを回す音が聞こえてきた。
「ーーー起きたのか」
男性特有の、少し女性的な飛鳥の物よりも低い声で、男性だということが分かる。
しかし、部屋に入ってきた存在に、私は思わず目を見開いた。
……失礼ですが人間ですか?
思わずそう聞いてしまいたくなるほど毛深く、顔立ちも人のそれとは全く違う。どちらかというとオオカミっぽい。リアルオオカミをそのまま頭から被ったみたいだ。
とにかく、創作とかに出てきそうな感じのオオカミ人間が、手にカップ持って現れたんですよー。
おぉー、何てふぁんたじー……。
「……まぁ、なんだ。色々話すことはあるが……」
私の目線よりも僅かに上を向いたオオカミ人間さんは、静かに指を向けて、
「とりあえず、それ何とかして来い」
…………寝癖酷いですかそーですか。
洗面所にて顔を洗って寝癖を直す。幾つも蛇口が付いている横広の洗面台で、明らかに一人で使うものじゃなかった。ここは宿か何かなのかな。
手で作った水溜りを、顔に勢いよく打ちつける。水が冷たくて、歩いてもボーっとしていた頭がスッキリしてくる。目がまだ半開きだったみたいで、まばたきをするとさっき以上に瞼が持ち上がる。
うん、気分爽快。
跳ねている髪を抑えながら、とりあえず現状を把握しよう。
まず、ここは異世界だろう。
起きて初めに遭遇したのがオオカミの人間なんて、どこの国でだって体験できないでしょ。
もうなんと言おうが異世界で決まり。
トリップって奴かー。
これってアレだね。『見聞きしてる分には楽しいけど、自分がしてみるのは嫌だ』だね。
おまけに飛鳥とも逸れちゃったしなー。
どうしよー、と考えながら、最後に寝癖のチェックをしようと鏡を覗き込んだ。
「…………ん?」
ふと違和感に気づく。
何本か髪がピョンピョンしてるのはしょーがない。偶に直らない時があるんだよ。
顔も形が変わった訳じゃない。いつもの「黙ってれば可愛い」と飛鳥に言われる顔だ。今更言われたってもう照れない。
ーーーで、目の色が違うのはどういうことですかね?
疲れてるのかなーとお目々パチパチ。ギュッと瞑って目の運動。
恐る恐る開けて、暗闇の開けた向こうに……
「……ぶるーあい?」
淡く綺麗な、真っ青な瞳でした。
顔を洗って寝癖も直して、スッキリした私はさっきのオオカミ人間さんの許に戻った。
カラコンもしていないのに青くなっていた目は、ひとまず置いておくことにした。
「……獣人を見るのは初めてか」
私の顔にそう書いてあったのか、オオカミのお兄さん(?)は厳つい目つきで呟いた。ちっちゃい子とか泣いちゃいそうだ。
お兄さんの言葉に頷いた。流石にファンタジー小説とかは読んだことがあるので、一応“獣人”という言葉は知っている。
知識としては知ってたけど、見るのは初めてなんだよー。
「えっと、助けて頂いたようで、ありがとうございます?」
「助けた、か……そうなるのか」
仏頂面のお兄さんは、手に持っていたカップを差し出した。
渡されたカップには、コーヒーのような仄かに苦味のある香りが漂ってくる。
一口飲めば、カフェオレを少し苦くしたような味がした。
……うん、飲みやすい。
「俺は、そうだな………ギルとでも呼んでくれ。狼の獣人だ」
おぉー、やっぱりオオカミだったか。
「エミです。どうぞよろしくお願いします」
こういう時けーごって大事だね。
飛鳥に口五月蝿く言われといて良かったよー。
「……えっと。それで、ギルさんに一つ聞きたいんですけど……」
多分、気絶していた私をここまで運び込んだのであろうギルさんに、あれやこれや聞かれる前に、先手を打っておく。
口を開こうとしていたギルさんは、出そうとしていた言葉を変えた。
「……何だ」
「えっと……ここって、どこですかね?」
「ここはサンファーレン王国だ。つっても端っこの辺境の村だがな」
さん、ふぁーれん……? 聞いたことの無い単語に、思わず首を傾げる。
失敗した、と思ったのその直後で、
「……あ?」
ギルさんは仏頂面を一転して顰め面を作った。眉間の皺と釣り上がった目がちょっと恐い。
私は、ただちょっと引き攣った愛想笑いを返すことしかできなかった。
◇◆◇◆◇
南の大国(どうやら南で一番大きい国らしい)を知らない私は、色々なことを根掘り葉掘り聞かれた。
異世界人であることは勿論隠して、何も分からないことを話した。
記憶喪失とは言ってないよ。
(異世界人だから)世界地図を見たことがなくて。
(異世界人だから)全然世間のことを分かっていなくて。
(異世界人だから)獣人のことも(本で読んだだけで)見るのは初めてだと言っただけ。
少しぼかして言えば、向こうが勝手に勘違いしてくれるよねっ!
後は飛鳥と逸れてしまったと言えば、言い訳は完璧だ。
幸い、ギルさんは私がどこぞの箱入り娘だと思ってくれているみたいで、私の言葉をすんなりと受け入れてくれた。こっちじゃ制服は少し変わってるだろうけど、何とかなりそうだ。
「……お前の住んでいた場所は何と呼ばれていた? それぐらいは聞いたことがあるだろう」
「えっと……ニホン、と呼ばれていました」
「……聞いたことがねぇな」
私の話を聞いて、ギルさんはより一層顔を顰める。そりゃこの世界には存在しないからねー。いくら調べても出てこないだろう。
……こうやっていると何か詐欺みたいだな。
事情があるとは言え、騙すような形になってしまう形になるので、ほんの少しの罪悪感はあった。
「……まぁ、そいつは後で考えときゃいい。今はジッとしとけ。見た目元気だが、何があるか分からん」
そう言って額を抑えられ、抵抗する間もなくベッドに倒された。
別にどこもおかしくないんですがねー。その後もベッドを抜け出してうろうろしてみたけど、あの子供泣かせの顔で有無を言わさず寝かされてしまいました。
一方の愛美ちゃん。変な所で頭の回る彼女は順応力が高いです。