0-2 世界渡り
校門まで自転車を走らせ、空を眺めている愛美の隣で降りる。空に向いていたブラウンの瞳がこちらに下りてきた。
「お待たせ」
「ん」
ここからは徒歩。そのまま歩き出す愛美に合わせて、自転車を押して行く。
何故わざわざ……、とも思うが、これが愛美の希望なのだから仕方が無い。
「自転車使わなくていいのか?」
こっちとしては自転車あるのに使わないのはどうかと思うんだが。
歩きだと時間がかかるのだが、俺は構わないから愛美が乗って行ってしまっても別に構わないのだ。
「んー……じゃあ乗せてって」
「無理。お前重いんだよ」
「行きは乗せてくれたのに……」
「乗せなきゃ遅刻したろうが!」
愛美の自転車が無いのは、寝坊して俺の後ろに乗ってきたからだ。坂が多い通学路だから、二人乗りでの通学は色々と困難である。
結果破談となった交渉だが、愛美の口元は何故か分かりやすく弧を描いている。誰の目から見てもご機嫌だ。
まるで今日、何かいいことでもあったようなーーー
「…………」
……しかしそれが、あくまで表面上であることは分かっている。
「ん? なに?」
「いーや、なんも」
俺の視線に愛美は変なの、と可笑しそうに笑う。静かに笑う姿と日に反射して輝く烏羽の髪が、淑やかなお嬢様の印象を与える。
「…………」
……これがご機嫌?
寧ろ逆だ。不機嫌で、鬱陶しいことが、今日愛美はあったのだ。
そもそもこいつは、お嬢様なんてタマじゃねぇ。どちらかというと破天荒というかやんちゃな子猫みたいな奴なのだ。
こんな静かに笑うのはウソくさい。人が普段と違う態度をしていれば、誰だって違和感を感じるだろう。これはつまりそういう話だ。
一から十まで互いを知る幼馴染みだ。知って欲しくないことも、他人に知られたらマズいことも、腐る程知っている。伊達に親御さんから、世話係は任命されていないのだ。
勿論、その薄っぺらい作り物の笑顔の原因も、察しはついていた。
「……で?」
「で? で、って、なに?」
足下の石を蹴りながら、鼻歌交じりに歩く愛美に視線を向ける。いつもより、歩調が少し早い気がした。
振り向いた表情は、一度分かればすぐにそれと分かる、淑やかな笑顔だ。
「誰からだったんだよ」
「誰から、って?」
「どうせ今日も休み時間に告白されたんだろ?」
そう、なるべく平静な口調で言った。波風立てないように、何でもないように。
愛美は顔もイイし、性格も少し雑多で猫っぽいことを抜きにすれば良心的だ。だからこいつをあまり知らない……特に他クラスの連中にとってこいつは人気者だ。
……しかし、告白をすれば胸のつかえが取れるだろうが、された方は何とも思ってなければストレスだ。
周りに冷やかされたり、相手が有名ならそれに釣られてされた側が目立っていく。
それに比例して嫉妬も少なからず存在するだろう。
そうした諸々の視線を人間はやはり敏感に感じ取り、不快に思う。
例外は存在するが、愛美は違う。
告白も数を重ねれば、それはされるだけで嫌気がさしてストレスになる。愛美も、その日どれだけ機嫌が良くても、告白されれば残りの授業を全て笑顔でサボるのだ。
それに俺は、時々こうして付き合っている。
「で、誰なんだよ?」
俺の誰何を問う声に納得のいかない表情をしていたが、観念しろ、と追い討ちをかけると仏頂面で口を開いた。
「……一個上の先輩。サッカー部の部長」
「…………」
…………あぁ。
覚えがある人物だった。顔は覚えていないが、イケメンでそこそこ名が売れていたような……。
確か今年の初めに、サッカー部が昨年末取った賞でその人が壇上上がっていたのを覚えている。
リア充組のトップと言ってもいい。……見た目的には、釣り合うだろう。
「何で断ったんだ?」
「だって初対面だし……」
「まぁ、そうだが。顔は悪くないんだろ?」
「男は顔じゃないし」
「それ、女のお前が言うのか?」
「……口も聞いたことない人と付き合うような、軽い女に見える?」
ようやく聞こえた、愛美の怒りを含んだ声。
「……見えない」
「私は見た目だけ良くしたような男なんて嫌いだし、長所押し付けて言い寄ってくるような人もあまり好きじゃない」
「……だな。悪い」
クラスメイトのだって断る愛美だ。噂程度しか知らない相手なら尚更だろう。
……しかし。
そのどれも何とも思わないのか……。その後も態度が全く変わらない様子は、男にとって非常に心に来るな。
「……じゃあそれだと、お前の男選びは難しいな。基準が高すぎる」
愛美に気に入られるような男なんてそうそういるだろうか。こいつ面食いじゃないわけでもないし、かといってチャラいとボツだ。
「……うーん」
……ふと、愛美の顔に笑みが浮かぶ。
それはまるで、悪戯を思いついた子供のようだ。
「まぁ、傍にいい男がいるからね。それ以上はちょっち難しいかなー」
「……はぁ?」
……酔ってんのかこいつ。さっきの怒った様子は欠片も無い。それは結構なことだが、お陰で今度はめんどくせぇことになりそうだ。
それだとまるで、俺がその部長さんよりもいい男みたいじゃないか。
「……何の話だ」
「いやー、いい男が基準だと彼氏選びに苦労するねー」
「おい」
「知らない? 飛鳥ってば意外と女子に人気あるんだよ?」
「はぁ……?」
何じゃそりゃ……。
そりゃ人気というより敬遠だろう。
俺は学校では、所謂不良扱いを受けていて、数少ない友人を覗いて酷く敬遠されることがある。
学校では得体のしれないものを見る視線と、俺の陰口なのか内緒話も聞こえてくる。
「……無いな」
どうしてあの状況からこいつが恋愛感情を持ってくるのか不思議で堪らない。ありゃ寧ろ逆方向じゃねぇか。
「えー、飛鳥カッコいいってよく言ってるよ! 恵理香とか紗良ちゃんとか」
「バカ言ってんじゃねぇ」
「あぅ……」
デコピン一発。赤くならないよう加減して放った。大袈裟に仰け反る愛美が、額を抑えて睨んできた。それを無視して歩く。
本当に馬鹿なことを言う。えりかだかさよだかは知らないが、愛美の言葉は的外れだと分かる。
いい男っていうのは顔もあるだろう。
しかし愛美が言ったように、いい男ってのは器量良しだったりとかそういう奴を言うべきだ。
容姿端麗な愛美に対して、顔も素行もあまりいい方ではない。昔からの縁が無ければ、こうして帰り道を一緒に歩くこともない筈だ。
先程、クラスメイトから見た俺の印象を不良と言ったが、それもあながち的外れでは無い。あいつらが俺を煙たがるのは、当然のことだ。
まぁ、それは俺の態度も原因として一つあるのだろうが、こんな男を好む奴は相当酔狂な奴だろう。
そして、そんな奴はいない。
「……馬鹿馬鹿しい」
俺の呟きを耳聡く捉えた愛美は、ぶーっと頬を膨らませた。
「一応本当なんだけど」
「ありえねぇよ。ほら、前見て歩け」
「ぶーっ……」
愛美は不満げに喉を鳴らす。白い張りのある頬が風船のように膨らんだ。指で押せば、空気がふすーっと簡単に抜けていく。何がしたいんだこいつは。
毒気を抜かれ、話の中でいつの間にか止まっていた足を動かした。
……しかし。
俺が原因で、コイツに彼氏が出来ないというのは、些か申し訳ないと思う。
こんな不良まがいの男が側にいると、周りは敬遠してしまうのだろうか……しかし離れてみても、何だかんだで元に戻るからなー。長らく変わらない関係、変えるのに苦労をする。
まぁ、一種の賭けみたいだが、こいつのお眼鏡に叶うとするなら、それは相当なものだろう。自他ともに安心して任せられる。
隣の幼馴染の未来の旦那に思いを馳せていると、唐突に着信音が辺りに流れた。
俺の……ではなく、愛美のだ。
「……あ、兄貴だ」
その言葉と共に、ポップな音楽が途中で途切れた。
隣を見れば、愛美は既にケータイを仕舞っている。
「……て、オイ」
まさかこいつ、着拒したのか?
「いーよいーよ。どうせいろいろうるさいこと言ってくるだけだから。ほんとしつこいんだよね」
「…………」
「あ、電源も切っとこー」
それ、兄貴が聞くと絶対に泣くぞ。可哀想だからもっと優しくしてやれよ。
というか、最近あの人やたら風当たりが強いと思ったら、妹が冷たいからか。
とんだとばっちりだ。
「まぁ、大事にされてんだから、もうちょっと優しくしてやれよ。心配してるんだろ?」
贔屓目抜きに、愛美は美少女だ。兄が心配するのも、まぁ分からなくもない。
猫みたいにチョロチョロしてて危なっかしいが、それがむしろ保護欲を誘うのかもしれない。
確かに、こいつの目元はどこか猫っぽかった。
「そこは飛鳥がよろしくー」
「人の苦労も知らずに、お前……」
こいつ、自分の人気を知ってか知らずか、クラスメイトや女子友達以上に俺に絡んでくるのだ。
そして、ファン達にとって、愛美の側にいる幼馴染の存在は正しく天敵である。
必然、俺を潰そうとしてくる。普段ファン同士いがみ合う奴らは、この時だけ結託してくるから迷惑この上ない。
いつもは敬遠して絡んでこねぇ癖に。色恋とか絡むと人はこうも変わるのか。
口を開けば豊崎さん豊崎さん。
今俺と目が合った。
授業中消しゴムを拾ってもらった。
委員会が一緒だ。
本当、鬱陶しいったらない。そんな些細なことで喜ぶ奴らの慕い様は、最早崇拝に近い。何だったら、こいつのパジャマ姿でも送ってやりたいが、それはそれで一悶着ありそうだ。
「……とにかく、お前はもうちょっと大人しくしててくれ」
俺は平穏無事に生きていたいんだ。お前のそのアグレッシブな所が、それを悉くぶち壊してくれているのを理解してくれ。
学校に来て、いつものノリで俺に絡むのを控えるのが望ましいな。
「はーい」
「…………」
受け流すような適当な返事。
やはり、理解のりの字も得られないか……。
「……はぁ」
◇◆◇◆◇
二人はその後、特に会話もなく道を歩く。道路を走る車のエンジン音だけが耳に入る。
ーーーさて、どうするか。
櫻井飛鳥は歩きながら、冷蔵庫の中身やバイトのシフトのことを考えた。
家での飛鳥は、掃除洗濯炊事……およそ全ての仕事をしている。高校生ながらバイトもしているので、一般の高校生と比べると非常に忙しい。ここに部活が入ればと考えると……それなりに楽しいだろうがいつしか過労で倒れると確信出来る。
一人暮らしではないのだが、昼間から酔った役立たずに手伝いを頼んでも無駄だろう。自分がやらなくては食卓には何も並ばないし、明日着る服だって無くなってしまうのだ。
そして、その役立たずは家では酔った勢いで飛鳥を捕まえて、どうでもいい(少なくとも飛鳥にとってはどうでもよかった)情報を自慢げに話すのだ。
時折いなくなるが、外で何をしているかは飛鳥にも分からない。ただ、その酒臭いまま外出するのは控えて欲しいと今でも思っている。
……そういえば、食材がそろそろ底をつくはず。近所のスーパーで買って来なければならない。卵などは、日持ちがしないので一度に沢山は買えないのだ。
ーーー愛美に買い物を付き合ってもらおうか。
ふと、隣を歩いている少女の存在からそう思い至る。
夕食の席に誘うのもいいかもしれない。愛美の両親は最近共働きで帰りが遅い。どこで何をしてるかは知らんが、どうせ飛鳥の身内も遅くに酔って帰ってくるのだから二人きりだ。だからどうというわけでもないし、この組み合わせなら間違いなど起きない、と二人の親達も(残念そうに)確信していた。
たまには幼馴染を呼んでも悪いことは無いだろう。昔からよく招いていたのだから。
同じ学校の生徒が近隣に住んでいた記憶も無いので、目撃される心配もない。
そう結論を出し、飛鳥が少し前を歩く愛美の方へ視線を向けるのと。
向けた視線の端で、光が明滅したのはほぼ同時だった。
「ッ……愛美ッ!!」
「!?」
反射的に自転車を突き飛ばし、愛美の手を引いて手元まで引き寄せる。
愛美の驚いた表情は、直後に二人を包んだ光によって掻き消された。
零コンマの差で、光は更に濃くなっていく。それが何であるかなど、今の飛鳥に結論も議論もする余裕は無かった。
飛鳥の意識など、既に手元の愛美に全幅を注いでいる。左手は背に回され、右手は愛美の手を自身の胸元で握って離さない。
目を開く余裕もなく、とうとう耳までおかしくなったのか、ガンガン響く強い音の衝撃で鼓膜が痛み出した。
「ーーーーーッ!!」
まるで糸を強く引っ張っているような気分だった。己の内の何かが上り詰めていく。メーターを壊すくらいに振り切っていく。
張り詰めた糸を更に限界まで引いて、引いて……。
プツン、と呆気なく切れた。
「ーーーぁ」
時が止まったのか、と錯覚した。
限界を迎えた糸が宙で漂うように、緩やかな波に流されているような穏やかさが戻ってくる。
何も見えない。
何も聞こえない。
繋いだ手の感触以外、目の前の彼女を知覚することもなく。それすらもたった今剥がされた。
二人を繋ぐ唯一の糸が切れたように、互いの存在を見失った。